2009/11/21  初級・3級教学試験 教学入門 その4

4.御本尊と受持即観心



御本尊の意義
 私たちが拝する御本尊は、あらゆる仏を成仏させる「根源の法」であり、一切衆生の胸中にある「仏種」である南無妙法蓮華経を顕された御本尊です。
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(1124ページ)と仰せになられているように、御本尊は、根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得された日蓮大聖人の御生命を顕されたものなのです。
 また大聖人は、御本尊について「法華弘通のはたじるし」(1243ページ)と仰せです。すなわち、御本尊への信を広げていくことが、万人成仏を説く法華経を広めることになり、広宣流布の指標になるのです。

受持即観心
 「観心本尊抄」には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(246ページ)と述べられています。
 このように、大聖人の仏法においては、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することが、そのまま成仏の根本の原因の修行、すなわち観心となります。このことを「受持即観心」といい、御本尊を「観心の本尊」と言います。
 私たちにとっての「受持」とは、御本尊を信じ、唱題に励むことです。
 また、この「唱題」も、ただ自分で行ずるだけでなく、人にも勧め唱えさせていく自行化他にわたる唱題でなければならないと大聖人は仰せです。

2009/11/21  初級・3級教学試験 教学入門 その3

3.一念三千と十界互具



一念三千の構成
 一念三千とは、法華経に説かれている一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が「摩訶止観」のなかで、体系化して説明したものです。
 「一念」とは、我々の瞬間瞬間の生命のことで、この一念に、すべての現象、働きを意味する三千の諸法が具わっていることを説いたのが一念三千の法理です。
 「三千」とは、十界互具と十如是、そして三世間を合わせて総合したものです。(百界×十如是×三世間=三千)。十界と十如是と三世間という、それぞれ異なった角度から生命をとらえた法理を総合し、私たちの生命の全体観を示したものです。

(1)十界互具
 十界は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種類の生命の境涯のことです。
 これら10種の生命境涯は、十界いずれの衆生にも欠けることなく具わっています。このように十界のおのおのの生命に十界が具していることを「十界互具」といいます。
 
 分けることができます。例えば、毎日苦しんでばかりの人は「地獄界」の境涯。いつも争ってばかりの人は「修羅界」の境涯と言えます。
しかし、地獄界の人にも、たまには喜ぶ時(天界)があるでしょうし、修羅界の人にも自分の子供を慈しんだりする時(菩薩界)があります。これを十界互具と言います。つまり、どのような境涯の衆生にも成仏する可能性があることを説いたのが十界互具です。

(2)十如是
 十如是とは、十界の衆生に共通して具わる生命の10種類の側面を示したものです。
 私たちが、日々読誦している法華経方便品第2の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の10種です。

(3)三世間
 三世間とは、五陰世間、衆生世間、国土世間の三つをいいます。「世間」とは、差異・差別のことで、十界の差異は、この三つの次元に現れます。

 以上の十界互具・十如是・三世間の法理を総合して成立したのが一念三千の法門です。

一念と三千
 「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」(238ページ)
 ここで、わずかでも私たちの「一念の心」があるところ、そこに「三千の諸法」が具わるということが示されています。
 三千の諸法」とは。先ほどの三千の構成で示された、全宇宙に起こりうる、あらゆる現象です。
 要するに瞬間瞬間のわが生命に、”無限の可能性”が秘められている、という希望の原理が一念三千の法理です。

凡夫成仏・即身成仏・一生成仏
 日蓮大聖人は「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり」(1446ページ)と仰せです。
 法華経以外の諸経では、「成仏」が説かれていても、少なくとも二つのことが条件とされていました。
 一つは衆生が悪人であったならば善人に生まれ変わることが必要があり、女性であったならば男性に生まれ変わることが必要であるということです。
 悪人や女性が、そのまま成仏することはできないとされていたのです。
 それに対して、法華経では十界互具が説かれることにより、成仏とは「仏という特別な存在に成る」ことではなく、自身の九界の身に「仏界の生命を開く」ことであると説いたのです。
 成仏の「成」について「成とは開くの義なり」(753ページ)と仰せです。
 なお凡夫の身のままで成仏できることを即身成仏、一生のうちに成仏できることを一生成仏をいいますが、どちらも同じ法理を表現した言葉です。

煩悩即菩提・生死即涅槃
 この即身成仏の法理を別な角度から表したのが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。
 小乗教の考え方では、凡夫は煩悩を断じて、初めて悟り(菩提)を得て成仏するとされています。
 また、権大乗経では一応、煩悩即菩提を説きますが、九界を離れて初めて仏になると説くので、実質的には小乗教と同じ悟りの考え方になってしまいます。
 これに対し、法華経では、凡夫のもっている煩悩を断ずることなく、直ちに仏の菩提(=悟り)が得られることが明かされました。
 「御義口伝」に「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」(710ページ)とあるように、悩みを避けたり、悩みから逃げたりするのではなく、信心を根本に、煩悩に真っ向から取り組んでいくとき、煩悩を縁として悟りの智慧が現れて、煩悩をコントロールしていけるのです。
 この「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法理に立脚するとき、あらゆる苦悩を自身の成長と幸福の因に転じていく積極的な生き方が可能になるのです。