09/06/13: 「3」の呪い

旧日本帝国海軍の伊33潜水艦(伊15型)は非常に不運な艦であった。

第一の悲劇

伊33潜水艦(伊15型)は太平洋戦争中の1942(昭和17)年6月に竣工した。
水上偵察機も搭載した当時の新鋭大型潜水艦であった。

同年8月広島呉港を出撃、ガダルカナル島のあるソロモン海での哨戒に1ヶ月間従事する。
9月25日に任務を終えトラック島の海軍基地入港をした。
しかし翌26日、工作艦を横付けしての作業中、バラストタンクの注排水テストを行った処、突如バランスを崩し出入口のハッチから海水が浸入、海底に沈没したのである。
乗員の半数以上は上陸していが艦に残されていた航海長他33名が殉死した。
着底した水深は33-36メートルの深さであった。

トラック環礁内であった為、水深が浅く、その後引き揚げられ(沈没より33日後?との説あり)、翌43年3月には呉港に回航された。
バッテリーの換装、エンジン整備を行い同年6月には潜水隊に再編入される。
新規乗員による慣熟訓練が行われた。

第二の悲劇

再編間もない6月13日の急速潜行の訓練中の事、漂流中の木片が注水バルブに挟まり、バルブが閉鎖できずにバラストタンクに浸水、伊予灘水深60メートルに沈没した。
艦内では艦長和田睦夫少佐以下全員が復旧に全力を注いだ。
浮上活動を行ったが浮上できず艦内の酸素も減少してきた。
浸水も増え艦内圧力が高まる。
事態はいよいよ急を要して来た。
水深60メートルの海底からハッチを開けて脱出しようとの案が出る。
和田艦長の決断の下、海底60メートルからの脱出を試みる。

決死の脱出に成功したのは僅か2名。
脱出の際にハッチから艦内に凄い勢いで海水が流れ込み和田艦長以下92名は殉死した。

その後、潜水艦の部隊には呪われた伊33潜水艦の話は口込みでつたわり「3」のつく艦番号は潜水艦の乗員に嫌われたという。

戦後、そして引き上げ

沈没から9年後、終戦から8年経過した1953(昭和28)年7月に伊33潜水艦は再び引き揚げられた。
尚、再引き揚げに立ち会った関係者の中には2度目の沈没事故で脱出できた2名の中の一人、岡田元兵曹もいた。
岡田元兵曹が艦内に入ると全部魚雷室は閉鎖されており魚雷室のハッチを開けると9年前に別離した仲間達13名が静かに眠るように斃れていた。

吉村昭著の「総員起シ」によれば、岡田兵曹は「おい総員起しだ」と叫び、9年前と変わらぬ姿で眠る戦友の冷たい肌を叩くのだった。と記している。

艦内から水没部の遺骨や魚雷室からも多数の遺書や手紙が発見されたが中にはバルブ開閉部等、潜水艦の技術的な問題への抗議文もあったという。


最後の悲劇

遺族が集まり合同葬が行われた伊33は、日立造船三庄工場(因島市)で解体処分される事となった。
この最後の日本帝国海軍の潜水艦を見ようと多くの旧軍関係者が訪れた。
旧海軍技術将校3名が解体処分される前にと、見学をしていた。
彼らが浸水しなかった魚雷発射室を見学していた時に、最後の惨劇が起こった。
彼ら3人は魚雷発射室見学中にガス中毒で「3人」とも亡くなってしまったのである。

解体作業の関係者は乗員の祟りだと噂し、祈るように慎重に解体作業を行ったという。

以来、この「3」と言う数字は海上自衛隊の潜水艦に於て、今でも避けられている。
東京渋谷区の東郷神社には、潜水艦殉国碑(伊33潜の潜望鏡が使われている)があり、愛媛県松山市では慰霊祭が行われている。