2009/04/14  幸福とは?

WHO(世界保健機関)における「健康」の定義は、「完全な肉体的、精神的及び社会福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」(WHO憲章前文より)とされていてかなり広い目標を掲げている。
日本の厚生労働省も批准した考え方だ。
通常考える健康とは「病気でない」状態を思いがちだ。
一歩踏み込んでの「健康」を定義すると一層の努力目標になるし達成時にはより良い社会が築ける。

同じ様に「幸福」の定義とは?

よく創価学会では「相対的幸福」と「絶対的幸福」を言う。
第2代会長戸田城聖先生が提唱した幸福の概念である。

「相対的幸福」とは、環境や条件によってたやすく変化する経済的な豊かさや社会的な地位や名誉、良好な人間関係など、自分自身が立脚する環境下において外部外界から得られる幸福である。
一方、「絶対的幸福」とは、この宇宙と生命を支配する永遠普遍の妙法を信仰する事により、そうした外部環境に左右されず、あらゆる苦難・不幸を克服していく事のできる境涯(内部内界)を持ち得られる幸福である。
同じ「幸福」だが、後者はより踏み込んだ「幸福」だ。

例えばただ単に病気でない「健康」と、WHO定義の「健康」のどちらが良いだろうか?
豊かさや地位や名誉の「幸福」と何者にも壊せない「幸福」のどちらが良いだろうか?

学会の言う「絶対的幸福」はまやかし、幻想であり得ないと断定する人がいる。
創価学会が搾取する為の方便だと言う人もいる。

だが、考えて見てほしい、なぜ他人が人の幸せを判断できるのだ。
それはその人が「幸せそうに」振る舞うからだ。

健康そうに見える人に「あなたは健康そうね」と問えば、本当に健康の人は「その通り」と言うでしょう。
実は不健康であれば「いや、そうではないよ」と言うかもしれないし、見栄を張って「その通り」と言うもしれない。
確実なのは「いや、そうでもないよ」という人は不健康な事だ。
「その通り、健康だ」と言う人は真実「健康」「不健康」入り交じっている断定なんか出来ない。
断定できるのは本人だけだ。

同じ事が幸福でも言えないだろうか?
「幸せだ」と言う人は真実「幸福」と「不幸」が入り交じっている。
確実なのは「不幸だ」と言っている人は真実だ。

だから、日蓮大聖人は立正安国論で「不幸の原因」をご執筆された。
不幸の基を「一凶」とされた。不幸を取り除けば「幸福」になれるからだ。
立正安国論
如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。(P24)

要は「不幸」と思わない人が「絶対的幸福」だと言う事。