2009/06/16  なぜ、沖氏は持論にこだわるのか?

沖浦克治氏の持論に
238 :沖浦克治:2009/03/06(金) 06:44:30 ID:AJ3hr85o0
 皆成仏道の法華経が、曼荼羅本尊となっていますね。
これは明らかな邪義ですよ。曼荼羅は法華経ではありません。
末法の法華経はお題目です。御書に明確ですね。
(略)
と言うのがあります。

当たり前の再確認ですが、創価学会公式の三大秘法は「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」です。
そして一大秘法とは「本門の本尊」の事です。
昭和30年代の公式書物を見ても一大秘法を「本門の題目」と書いた物はない。
栓ずれば上記の「末法の法華経」は「本尊」になりますね。
疑い様のない事なのですが、沖氏は頑として認めていません。

思い起こせば創価仏法研鑽掲示板の「三大秘法について考えませんか
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3764/1216869448/
に於ても執拗に「題目」「題目」と主張されています。

ログを見れば判りますが沖氏は「題目」「本尊」「曼荼羅」の定義が曖昧です。
どうもスレ立て時から結論ありきで日蓮大聖人の本懐は題目で話を進めてる。
それ以外は他者がどんなに御書を引いても、池田先生の指導を引用しても聞く耳を持ちません。
沖氏は昔受けた教学試験で「一大秘法は本門の題目と習った」と言い続けます。
公式書物でも「本門の本尊」なのだから、「記憶違いしていた」と認めれば良いのに持論に執着をしていますね。

ではなぜ、そこまで持論に執着をするのか?と思索すると少し見えて来た。

思い起こせば、彼はネットデビュー時から脚光を浴びてました。
本名を喧伝し、ネットで弘教を言い、法華板等あちこちに出没していた。
時代の寵児とでも言いましょうか?
当時の学会系の掲示板を見ていれば必ずと言って良い程にお見かけした。

しかし、2004年の自身の起した不祥事は、相当に彼の自尊心を相当に傷つけたのではないでしょうか?
以後、法華板に行けば不祥事を突かれる事に…。

私は忙しかったのもあって、不祥事発覚直後から去年の秋口まで学会系のネットを見ていない。
その後の沖氏がどの様な態度だったのかは知らない。
どうやらログや書込みで反省の弁を述べられた様だ。
しかし、一時期の勢いは無い様で、その後は直接対論など手法を変えている様だ。

「直接会って話をしよう」との問い掛け&実行は、再び脚光を浴びたのではないでしょうか?
私から見れば危うい行為にしか見えないが、当時を知らない私は何とでも言えるので…。(笑)
去年に私が又学会系の掲示板を見る様になった頃には直接対論は賛否があった様に見受けられた。


で推察、現在の持論の展開は三度脚光を浴びる為の方策なのでは?
沖氏の自尊心を満足させる為の手段として言っているのでは?
「一大秘法は題目」「日蓮大聖人の出世の本懐は題目」「本尊は己心の妙法」などは当然に創価学会では誰も言わない事だ。
教学無き者には、斬新に聞こえるだろう。
だって気持ちいいよ、今の自分を全肯定してくれるんだからね。
しかし、ただ題目だけを本尊にして、それを広めるのは、「法体」の広宣流布なのでは?
池田先生は「化儀」の広宣流布と言われたのではなかったか?
ここでも師匠の言葉を拒否している事にならないだろうか?


彼の持論が「脚光を浴びる自尊心」のなせる業ならば、自語相違や定義が曖昧なのも納得がいく。
全ては目的の為で、論理的精査や研鑽などはいらない。
他人と違う事を言い、斬新であれば良いのだからね。

私の推察は当らずとも遠からずではないでしょうか?
なので、沖板に行くのは沖氏の思惑通りになるので私は行かない。(笑)