2010/11/21  2010年度任用試験 まとめ

 いよいよ後、一週間になりました。
 今回の任用試験は今までと比べ、細かいかも知れません。
 年号や仏法用語が難しく、混乱するかも知れませんが、解らない時は『声に出して大白蓮華を読む』と良いです。
 黙読よりも音読の方が記憶力理解力が発揮出来ます。
 また、脳の血流を増やすのも効果的なので、半身浴しながらとかも効果があるそうです。
 (なんならその場でスクワットして血流上げるのも良いよ。)

 要点
 宝塔とは?
 まことの時とは?
 大願とは?
 国主諫暁は誰にした?
 三災七難とは?
 龍口の法難の経緯
 人本尊開顕の書とは?
 法本尊開顕の書とは?
 大聖人の出世の本懐は?
 大聖人は誰に付属された?
 十界を全て言える?
 「成とは開く義なり」ってどういう意味?
 三証を全て言える?
 五重相対を全て言える?
 種脱相対の「種」って何?
 「信行学」基本は何?
 地涌の菩薩って何?
 三障四魔全て言える?
 三類の強敵で一番手強いのは?
 転重軽受の読み下しは言える?
 願兼於業を池田先生は判りやすく「宿命を□□に変える」と示している?
 「御みやづかい」今日の私たちでは何にあたる?
 「人の振る舞い」とは「人を○○」の行動?
 3代会長の足跡は何?
 日顕宗をなぜ責めるのか?

 これらにすらすら答えられたら大丈夫。
 時間が無くて記事のアップが遅れてすみませんでした。
 今回も練習問題を作りたかったのですが、時間が取れないのでゴメンナサイ。
 時間が出来たら、アップします。時間革命しなくちゃ(^^;

2010/11/21  2010年度任用試験 「日顕宗を破す」

 世界広布と創価学会「日顕宗を破す」

2.日顕宗を破す
 ここでは、広宣流布を妨害しようとする魔性を現した日顕宗(前法主の日顕によって邪教と化した日蓮正宗宗門のこと)の邪義を明らかにし、破折を学びます。

悪と戦う
 日蓮大聖人は立正安国論で、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(24ページ、通解──災難を根絶するには、かの千万の祈りを修めるよりは、この一凶を禁じなければならない)と仰せです。仏法を正しく実践するうえで大事なことは、成仏を妨げる悪縁となる「一凶」と戦い抜いていくことです。
 また、「いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」(1494ページ、通解──どのような大善をつくり、法華経を千万部も読み、書き写し、一念三千の修行を成就した人であっても、法華経の敵を責めなければ、仏道を得ることはできないのである)とある通り、日蓮大聖人は、どんなに仏道修行を重ねても、「法華経の敵」を責めなければ成仏することはできないと仰せです。
(略)
 すなわち現代の「一凶」「法華経の敵」謗法(正法を謗ること)の法主・日顕であり、日顕及びその後継者が支配する現宗門「日顕宗」にほかな恥りません。
(略)

宗門事件の経過
 日蓮大聖人の広宣流布の精神と実践は日興上人に正しく継承されました。しかし、時代が経るごとに、日蓮正宗宗門では、そうした精神と実践が形骸化して「葬式仏教」と化し、僧侶の権威化が進み、僧俗の差別が行われるようになってしまいました。創価学会が創立されるころには、まさに法滅という状況でした。
 創立以来、広宣流布の実現を目指す大願を貫いてきた創価学会は、宗門に対して正すべきは正しながら、宗門を支えてきました。戦後、宗門が経済的に疲弊していた時から赤誠の真心で宗門を守り、350以上もの寺院を建立して寄進してきました。
(略)
 ところが、日顕が法主になって以来、広宣流布のために宗門を支えていこうとする学会の誠意を踏みにじって僧侶が宗教的権威をふるう信徒蔑視の体質が一層強まりました。"僧侶が上で在家の信徒は下"と見下す日顕は、世界宗教へと飛躍する創価学会と、その指導者であり、各界から賞讃される池田名脊会長への嫉妬に狂い、これまで宗門を護り支えてきた学会を破壊しようと画策したのです。
 平成2年(1990年)、日顕は、学会を切り捨てて一部の会員信徒を宗門に隷属させるために、「創価学会分離作戦」(C作戦)という陰謀を企て、実行に移しました。すなわち、同年12月、宗門は宗規(宗門の規約)を一方的に変更し、池田名誉会長に対して、法華講(宗門の信徒団体)総講頭の役職罷免を通告してきたのです。
(略)

日顕宗の大罪と邪義
 日顕宗では法主を絶対とする、誤った法主信仰を根幹としています。その前提として、法主だけに流れ通う"神秘的"な血脈があるなどとします。そうした考えを生む根本には、信徒蔑視の体質があります。
(略)

①広布破壊の謗法
 広宣流布の団体・学会を破壊しようと、C作戦を推進していた日顕宗は、平成3年(1991年)11月、学会に「破門通告書」を送ってきました。そこには御書の引用もなく、学会を破門する教義上の根拠も全く示されていませんでした。単に"学会が宗門に服従しないから"という権威的・感情的な主張が繰り返されていたに過ぎません。
 「大願とは法華弘通なり」(736ページ)、「広宣流布の大願」(1337ページ)と仰せのように、広宣流布は日蓮大聖人の御遺命です。
(略)

②法主信仰の邪義
 日顕宗が終始、主張しているのは"法主は絶対であるから、ともかく法主に従え"という「法主絶対論」「法主信仰」です。
 法主が絶対であるなどという教義は、大聖人の御言にも日輿上人の御教示にも一切なく、完全に大聖人の教えから逸脱した「邪義」です。
 日興上人は日興遺誠置文で「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(1618ページ、通解──たとえ、時の貰首であっても、仏法に背いて、勝手な自説を立てた場合には、これを用いてはならない)と、仏法に背いた法主を用いてはならないと戒められています。この戒め自体が法主絶対論を否定しています。

③誤った血脈観
 日顕宗では前の法主から相承を受けるだけで、仏の悟りが次の法主に伝えられるという神秘的な血脈観を主張しています。
 しかし、このような血脈観も日蓮大聖人や日興上人の教えとは全く関係のない「邪義」に過ぎません。
 大聖人が生死一大事血脈抄で「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(1337ページ、通解──日本国の一切衆生に法華経を信じさせて、仏に成る血脈を継がせようとしている)と仰せのように、本来、血脈とは万人に開かれたものであり、一部の人だけが独占するものではありません。
 同抄で「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(1338ページ、通解──信心の血脈がなければ、法華経を持っていても功徳はないのである)と仰せのように、血脈の本質は信心であり、血脈とは正しい信心の異名にほかなりません。
(略)

④僧俗差別
 日顕宗は、"僧侶が上で在家は下""僧侶が師で在家は弟子"などと主張し、僧侶と在家を露骨に差別しています。
 しかし、日蓮大聖人は「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ」(1134ページ、通解──この世の中で法華経を持つ者は、男女・僧尼を問わず、一切衆生の主に当たると、仏は御覧になっているであろう)と僧俗平等こそ本来の僧俗関係であることを示されています。
(略)

⑤化儀の悪用
 日顕宗の大罪の一つとして、葬儀、法要、戒名、塔婆などの化儀を悪用し、仏法を金儲けの道具にしてきたことが挙げられます。
 現在、宗門が行っているような僧侶による葬儀、法要、戒名などの化儀は、大聖人御自身が定められたものではなく、後の時代に作られたものに過ぎません。宗門は僧侶による葬儀が成仏のために不可欠であるなどと主張していますが、そのようなことを大聖人は一切言われていません。
 むしろ、「過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり」(1423ページ、通解──過去の慈父尊霊は、存命中に南無妙法蓮華経を唱えたのですから、即身成仏の人なのです)等と仰せのように、各人の成仏は生前の信心・実践によることを強調されています。大聖人の御教示を無視して、僧侶による葬儀が成仏のために不可欠である、などと言うこと自体、大聖人の仏法を歪める大罪となるのです。

⑥腐敗堕落
 大聖人は僧侶の在り方について「但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」(1056ページ、通解──ただ正法に対して素直で、少欲知足である僧こそが真実の僧である)と、欲望が少なく、わずかで満足する質素な振る舞いであるべきことを示されています。
 しかし、日顕をはじめ日顕宗の悪僧の実態は腐敗堕落を極め、大聖人の御教示とは全く逆のものになっています。
 大聖人は、こうした仏法利用の悪僧について「法師の皮を箸たる畜生」(1386ページ)、「食法がき(餓鬼)」(1111ページ)と厳しく破折されています。
 ◇
(略)
 その正邪はあまりにも明らかであり、大聖人の御遺命である広宣流布を実践する学会にこそ、日蓮仏法の本義は脈々と受け継がれているのです。
 私たちは、日顕宗の悪を断固、打ち破り、さらに世界広布の大きな流れを開いていきましょう。
 日顕宗を破すは設問こそ少ないですが、大事な部分です。
 6つの大罪を覚えるのは大変ですので、最低2つは覚えましょう。
 「スポーツカー持って豪邸に住んでる坊主が、葬式で僧侶が偉くて信徒は服従するんだと説法して、お金儲けしていた。それに従わない創価学会が気に入らないから破門した。『えっ、なんで破門すんの?』ってつっこまれたから、苦し紛れに法主は絶対なんだ。答えて宗門2%まで衰退。」とでも覚えましょう。(笑)

2010/11/21  2010年度任用試験 「創価学会の歴史」

 世界広布と創価学会「創価学会の歴史」

1.創価学会の歴史
(略)
 この地涌の菩薩の棟梁たる上行菩薩の使命を自覚し、法華経に示された広宣流布の仏意仏勅を自身の大願として、その実現のために立ち上がり、末法の衆生と時代を救済していく根本法と実践を確立された末法の御本仏が日蓮大聖人です。
 そして、現代において、大聖人の御精神を継承して、世界広宣流布の使命を深く自覚し、その実現のために真剣な実践を貫いてきた教団が創価学会です。また、現代における広宣流布の自覚と実践を確立してきた指導者が、牧口常三郎初代会長・戸田城聖第2代会長・池田大作第3代会長(現・名誉会長、SGI会長)の「三代会長」です。
 ここでは、広宣流布に生き抜いた三代会長の足跡、並びにそこに流れ通う師弟の精神を通して、創価学会の歴史を学びます。

牧口常三郎 初代会長の時代
 創価学会の淵源は、牧口常三郎初代会長と戸田城聖第2代会長の師弟に求められます。
 牧口先生と戸田先生は、ともに教育者でした。
(略)
 昭和5年(1930年)11月18日、牧口先生は『創価教育学体系』第1巻を発刊しました。この書は、牧口先生が構築された教育学の体系をとどめるもので全12巻が予定されていました。弟子である戸田先生が私財をなげうって出版を支え、また、牧口先生の教育理論のメモを整理・結集するなど全面的に協力しています。また、その奥付には、著者である牧口先生、発行兼印刷者である戸田先生の名前とともに、発行所として創価学会の前身となる「創価教育学会」の名が記されています。そこで、同書が発行された11月18日をもって、創価学会の創立記念日としています。
 「創価」とは「価値創造」の意味です。教育の目的、そして人生の目的は幸福の追求にあり、その内実は価値の創造であるという牧口先生の思想が込められ言葉です。
(略)
 当時、政府は神社参拝や神札を祭ることを国民に強要していました。昭和18年(1943年)6月、学会は権力の弾圧を恐れた宗門から「神札を受けるように」と言い渡されました。この宗門の態度は、謗法(正法を謗ること)容認の行為であり、日蓮大聖人、日興上人の教えに背くものでした。これに対して、学会は日蓮大聖人が示された謗法厳誡の教えを貫き、神札の受け取りを拒否しました。
 同年7月6日、牧口先生は地方折伏で訪れていた伊豆・下田で、同日、戸田先生は東京で、特高刑事に連行され、最終的に21人の幹部が逮捕されました。不敬罪と治安維持法違反容疑が、逮捕の理由でした。厳しい取肺リ調べのなかで、最後まで退転することなく信仰を貫き通したのは牧口先生と戸田先生の師弟だけでした。

戸田先生の獄中の悟達
 牧口先生は、取り調べに当たった検事や判事にも日蓮大聖人の仏法の教義を説きました。権力の弾圧に屈せず、仏法の正義を貫き通したのです。
 昭和19年(1944年)11月18日、牧口先生は、老衰と栄養失調のため、東京拘置所内で逝去しました。奇しくも「創立記念日」と同日に満73歳で殉教したのです。その生涯は、まさに御書に仰せの通りに不惜身命の実践を貫き、日蓮大聖人の民衆救済と妙法弘通の御精神を現代に蘇らせた尊い先駆の一生でした。
 戸田先生は、昭和19年初頭から、獄中で唱題に励むとともに、法華経を読み、思索していきました。そのなかで「仏とは生命である」との悟達を得ました。
 さらに唱題と思索を重ねていったとき、戸田先生は自身がまさに、法華経に説かれる虚空会の儀式で、釈尊の滅後に法華経を広宣流布していく使命を託された地涌の菩薩にほかならないことを悟り、「われ地涌の菩薩なり」との確信を得ました。昭和19年11月のことです。
 戸田先生は、この獄中の悟達で、日蓮大聖人の仏法への確信を不動のものとするとともに、広宣流布を自らの使命として自覚しました。戸田先生のこの「獄中の悟達」が戦後の創価学会発展の原点となりました。
(略)

第2代会長就任
 昭和26年(1951年)5月3日、苦境を勝ち越えた戸田先生は、多くの会員の推戴を受けて、第2代会長に就任します。そのあいさつで、75万世帯の折伏を達成するとの誓願を宣言しました。当時の学会員は実質約3000人。誰もが信じられない弘教の目標でした。
 そして、戸田先生は、会長就任に前後して広宣流布への布陣を整えます。
 会長就任直前の4月20日には機関紙「聖教新聞」が創刊され、戸田先生はその創刊号から、小説「人間革命」を執筆しました。
 「人間革命」とは、日蓮大聖人の仏法の実践によって、各自が自身の生命境涯を変革し、全人類の宿命転換を成し遂げていくことを意味しています。戸田先生は、生命論を基盤とする人間革命の理念を掲げ、日蓮大聖人の仏法を現代に蘇生させたのです。
(略)

池田大作 第3代会長SGI会長の時代
 戸田先生の逝去後、ただ一人の総務として実質的に学会の運営を担っていた池田先生は、昭和35年(1960年)5月3日に第3代会長に就任しました。
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して化儀の広宣流布をめざし、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」──戸閉先生の時と同じ「5・3」に行われた会長就任式における、池田先生のこの第一声の師子吼から、学会の新たな大前進が始まりました。
 昭和35年10月2日には南北アメリカへ出発。世界広布の第一歩を踏み出しました。翌36年(1961年)1月には香港、インドなどアジアを初訪問。同年10月にもヨーロッパを訪問するなど、世界広布の布石を打っていきます。日蓮大聖人が示された「仏法西還」「一閻浮提広宣流布」の本格的な第一歩が、池田先生によって印されたのです。
(略)
 今日、世界では192カ国・地域で学会員が喜々として日蓮大聖人の仏法を実践しています。
 各国のSGIでは仏法の人間主義の精神を基調に地道な社会貢献に取り組んでおり、各種展示など地域社会に根ざした活動を通して、大きな信頼と賞讃を受けています。
 創価学会の実践によって、日蓮大聖人の仏法は、いまや人類全体を照らす希望の光となっているのです。
 創価学会の歴史は範囲が広いので、覚えるのが大変だと思います。
 要点だけでも覚えましょう。
 牧口先生…創価教育学体系の発刊、謗法厳誡を貫かれた、殉教。
 戸田先生…獄中の悟達、75万世帯の折伏、御書発刊、学会組織各部の結成
 池田先生…世界広布の布石、文明間交流、識者指導者との対話、文化運動、教育機関の設立、牧口先生戸田先生の宣揚など。

 追記
 大白蓮華テキストでは「会長勇退」の言及がないので、斧節のhttp://d.hatena.ne.jp/sokaodo/19940424/p1「聞き書き4・24」へリンクしておきます。
 重要な部分なので、よく読んで下さいね。

2010/11/21  2010年度任用試験 教学入門「信心と生活」

 教学入門「信心と生活」

8.信心と生活
 日蓮大聖人の仏法は、現実の人生の中で「崩れざる幸福境涯」を築いていくための信仰です。そのためには日々の生活の中で信心の実践を積み重ねていくことが重要な意味をもってきます。信心は自らの生命の鍛錬にほかならないからです。(略)

信心即生活
(略)
 御書には「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(1295ページ)とあります。この御言をいただいた人にとって「御みやづかい」とは主君等に仕えることですが、今日の私たちの立場にあてはめれば、職業・仕事・生活にあたります。
(略)
 以上のように、大聖人の仏法においては信心と生活は一体です。ゆえに、創価学会の指導には、「信心即生活」といって、生活はその人の信心の表れであるととらえて、信頼される社会人として、生活に勝利していくべきことを説いています。

人の振る舞い
 仏法は「人間としての勝利」を教えた宗教です。
 日蓮大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174ページ)と仰せです。
 釈尊が仏法を説いたその根本の目的(釈尊の出世の本懐)は、特別なことではなく、人間としてどう生きるべきかを示すことにあったとの仰せです。
(略)
 最高の「人の振る舞い」とは、「人を敬う」行動です。すなわち、万人の生命の中に仏の生命があると捉えて、その仏の生命を尊重し、万人を敬っていく行動です。根本は、万人を仏にしていこうとする誓願の生き方です。具体的には、目の前の「一人」の人間を大切にしていく実践となって表れます。
 法華経では、万人の中に秘められている仏の生命を敬い、あらゆる人を礼拝していく、不軽菩薩の実践が説かれます。その人自身が自分の仏界をまだ自覚していなくとも、生命の可能性としては誰人も仏の生命をもっています。したがって、万人を「仏子(仏の子)」として尊重していく生命尊厳、万人平等こそが、仏法の精神となります。また、それゆえに、仏法から暴力は生まれません。社会にあっては、万人尊重の原理から、対話をもって社会の変革を実現していこうとするのが日蓮大聖人の仏法です。
(略)
 信仰を非日常にしても自己変革も、周囲の変革もありません。
 人生は他人からの評価の為に生きて行く訳ではありません。
 が、「他人からどう思われても、オレは関係ない、好きな様に生きるんだ」では、薄っぺらい幸せしか手に入りません。
 最高の人生を築き、一家和楽と浄土を構築するには、「目の前の一人(他人)を幸せにする行動」が第一歩です。
 しかし、自分の為でなく他人の為にする行動ならば、そこは「どう思われても関係ない」のです。
 一時的には「不当な評価」や「無評価」があるかも知れませんが、いつかは何倍もの福徳となって返って来ます。
 池田先生は、常に「誠実に」と仰しゃられています。
 善の連帯を広げ、人を軽視する悪を滅する実践が日常での信仰の姿です。

2010/11/20  2010年度任用試験 教学入門「宿命転換」

 教学入門「宿命転換」

7.宿命転換
 人生にはさまざまな苦難があります。日蓮大聖人の仏法は、生命を根源から変革して自身の運命を切り開き、現在と未来にわたって幸福境涯を確立する宿命転換の仏法です。ここでは、宿命転換の原理と、宿命を使命に変えていく真の仏法の実践を学びます。

宿命転換
 人生のなかで出あう悩みや苦難はさまざまです。そのなかには今世の自分自身の行動や判断が原因になって現れるものもありますが、なかには、今世に原因を見いだすことができないものもあります。"自分は何も悪いことをしていないのに、 なぜこのような苦しみを受けなければならないのか"と思うような苦難に直面しなければならない場合もあります。
(略)
 これに対して、「宿命の転換」を説くのが、日蓮大聖人の仏法です。
 大聖人は佐渡御書の中で、御自身が大難を受けているのは、仏教で一般に言われる通常の因果によるものではなく、過去において法華経を誹謗した故であると述べられています(960ページ)。
 これは、万人成仏・人間尊敬・自他共の幸福を説ききった正法である法華経を誹謗すること、すなわち謗法(正法を謗ること)こそが根本的な罪業であり、あらゆる悪業を生む根源的な悪であるということを教えられているのです。
(略)

転重軽受
 私たちは信心に励んでいても人生の苦難に直面することがあります。また、広宣流布のために戦うと、それを妨げようとする障魔が起こり、難にあいます。大聖人は、このような苦難に出合って宿命転換できるのは、むしろ「転重軽受」の功徳であると教えられています。
 転重軽受とは、「重きを転じて軽く受く」と読みます。過去世の重い罪業にしよって、今世だけでなく未来世にわたって重い苦しみの報いを受けていかなくてはならないところを、現世に正法を信じ、弘めると、その実践の功徳力によって重罪の報いを一時に軽く受けて、罪業をすべて消滅させることができるのです。ゆえに、大聖人は転重軽受の功徳について「地獄の苦みぱっときへて」(1000ページ)と仰せです。
(略)

願兼於業
 苦難に直面しても、信心を貫いて宿命転換する人にとっては、人生の意味が大きく変わります。
 法華経には、「願兼於業」(願いが業を兼ねる)の法理が説かれています。これは、偉大な福運を積んだ大乗の菩薩が、悪世で苦しむ人々を救うために、自らの清浄な業の報いを捨てて、わざわざ悪世に生まれることを願うのです。
 この場合、菩薩としての願いの力で悪世に生まれるのですが、業によって悪世に生まれた人と同じように悪世の苦しみを受けます。ここから難の意義をとらえ返すと、信心で難を乗り越える人にとっては、悪世に生きて苦難を受けるのは決して宿命ではなく、実は人を救う菩薩の誓願のゆえであり、苦難を共有し、それを乗り越える範を示すものであることになります。
 この願兼於業の法理をふまえた生き方を、池田名誉会長は「宿命を使命に変える」とわかりやすく示しています。
(略)
 宿命は運命論のように変えられないものではありません。
 また善因も悪因も宿命です。
 過去世に積んでしまった悪因の果を、今世で軽く受けて消すのが「転重軽受」の法門です。
 また、全く受けずに消す事はありません。
 これらの苦難を乗り越えた時に、その苦難は「願っていた業」になるのです。
 病気を乗り越えた人にしか、病苦の人に範を示せません。
 苦難をただの「嫌な事があった」で終わらせるのではなく、使命に変えていくのが願兼於業です。

2010/11/20  2010年度任用試験 教学入門「難を乗り越える信心」

 教学入門「難を乗り越える信心」

6.難を乗り越える信心
 人生には必ず苦難が伴います。また、広宣流布の戦いには必ず困難があります。ここでは、私たちが仏法を実践していく過程に必ず生じるさまざまな「難」について学び、「難を乗り越える信心」の在り方を確認します。

 一生成仏を目指す私たちは、生涯にわたって信心を貫いていくことが大事です。
 しかし、信心を持続するなかには、さまざまな難が必ず現れてきます。このことを知って、いかなる難にも崩されない自身の信心を確立していくことが肝要です。
(略)

三障四魔
 兄弟抄には次のように述べられています。
 「第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(1087ページ、通解──天台の摩詞止観の第5巻には次のように述べられている。「修行が進み、仏法の理解が深まってくると、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。……これに随ってはならない。恐れてもならない。これに随ったならば三障四魔は人を悪道に向かわせる。これを恐れたならば仏道修行を妨げられる」。この釈の文は日蓮の身に当てはまるだけではなく、、わが門流の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたって信心の糧とすべきである)
(略)

三障
 三障の「障」とは、障り、妨げということで、信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げる働きをいいます。
 これに、煩悩障、業障、報障、の三つがあります。煩悩障とは、貧り、瞋り、癡などの自身の煩悩が信心修行の妨げとなることをいいます。
 業障とは、悪業(悪い行い。仏法では五逆罪や十悪業などが挙げられる)によって生ずる信仰や仏道修行への妨げです。兄弟抄の御文では具体的に妻子等の身近な存在にしよって起こる妨げが挙げられています。
 報障とは、過去世の悪業の報いとして現世に受けた悪い境涯が仏道修行の障りとなることをいいます。兄弟抄の御文では国主・父母等、自分が従わなければならない存在によって起こる妨げが挙げられています。

四魔
 次に四魔の「魔」とは、信心修行者の生命から、妙法の当体としての生命の輝きを奪う働きをいいます。
 四魔とは、陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つをいいます。
 陰魔とは、信心修行者の五陰(肉体や心の働き)の活動の不調和が信心修行の妨げとなることです。
 煩悩魔とは貧り、瞋り、癡などの煩悩が起こって信心を破壊することです。
 死魔とは、修行者の生命を断つことによって修行を妨げようとする魔です。また、他の修行者等の死によって信心に疑いを生ずることも死魔に負けた姿といえます。
 最後に天子魔とは、他化自在天子魔の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による妨げであり、最も本源的な魔です。
 大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997ページ)と仰せです。
 すなわち、この魔は、生命の根本的な迷いから起こるものであり、権力者等の生命にあらわれるなど、いろいろな形をとり、あらゆる力をもって正しい修行者に迫害を加えてきます。

賢者はよろこび愚者は退く
(略)
 釈尊も、さまざまに起こる心の迷いを魔の働きであると見抜いて悟りました。私たちにとって、魔を打ち破るものは、何事にも紛動されない強い信心です。
 大聖人は「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋、と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091ページ)と仰せられています。
 三障四魔が出現した時こそ、成仏への大きな前進の時と確信して、むしろこれを喜ぶ賢者の信心で、乗り越えていくことが大切なのです。

三類の強敵
 法華経勧持品第13の二十行の偈(詩の形の経文)のなかには、末法に法華経を弘通する者に3種類の強い迫害者、すなわち三類の強敵が出現することが示されています。
 その強敵のそれぞれは、第1に俗衆増上慢、第2に道門増上慢、第3に僭聖増上慢(僣聖増上慢とも書く)、と名づけられています。増上慢とは、種々の慢心を起こし、自分は他の人よりも勝れていると思う人をいいます。
 第1の俗衆増上慢は、法華経の行者を迫害する、仏法に無智な衆生をいいます。法華経の行者に対して、悪口罵詈(悪口や罵ること)などを浴びせ、刀や杖で危害を加えることもあると説かれています。
 第2の道門増上慢は、法華経の行者を迫害する比丘(僧侶)を指します。邪智で心が曲がっているために、真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに執着し、自身が優れていると思い、正法を持った人を迫害してくるのです。
 第3の僭聖増上慢は、人々から聖者のように仰がれている高僧で、ふだんは世間から離れたところに住み、自分の利益のみを貧り、悪心を抱いて、法華経の行者を陥れようとします。
(略)
 このうち、第1と第2は耐え忍ぶことができても、第3の僭聖増上慢は最も悪質であるといわれています。なぜなら、僭聖増上慢の正体はなかなか見破り難いからです。
 この三類の強敵は、末法に法華経を弘通する時、それを妨げようとして必ず現れてくるものです。
 日蓮大聖人は、現実にこの三類の強敵を引き起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされたのです。
 信心は途中で止めてはいけません。
 信心を止めさせようとする働きが「三障四魔」や「三類の強敵」になります。
 これらには従っても、恐れてもなりません。
 魔を見破って悠々と乗り越えましょう。

2010/11/20  2010年度任用試験 教学入門「立正安国と広宣流布」

 教学入門「立正安国と広宣流布」

5.立正安国と広宣流布
 仏法を実践する目的は個人の一生成仏を実現するとともに、自他共の幸福を確立していくことにあります。日蓮大聖人は現実の社会に自他共の幸福を確立していく実践の指標として「立正安国」と「広宣流布」を説かれました。

立正安国
 日蓮大聖人の仏法は、各人の生命境涯を変革し、今世のうちに絶対的幸福境涯を開くことを可能にする教えです。それとともに、各人の生命境涯の変革を通して社会全体の平和を達成することを目指しています。大聖人は、平和実現のための原理を立正安国論のなかで示されました。
 「立正安国」とは「正を立て国を安んず」と読みます。(略)
 大聖人が当時の人々の苦悩を解決するため、立正安国論を著し、権力者を諌められたこと自体、仏法を行ずる者は、ただ自身の成仏を祈って信仰していればよいのではなく、仏法の理念・精神を根本にして、積極的に社会の課題に関わっていくべきことを身をもって示されたものと拝察できます。立正安国論では「汝須く一身の安堵を思わば先ず 四表の静謐を祷らん者か」(31ページ、通解──あなたは、一身の安泰を願うならば、まず周囲の平穏〈戦争の回避と世界の平和〉を祈るべきである)と仰せです。
(略)

広宣流布
 仏の悟りである正法を人々に流布し、万人を仏の境涯に導くことこそが仏法の目標です。それ故に法華経でも「我が減度の後、後の五百歳の中、閣浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ」(法華経601ページ、通解──私〈釈尊〉が入滅した後、末法において、全世界に正法を広宣流布して断絶させず、決して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼などの魔物につけ入らせてはならない)と説かれています。
 この経文は、「後の五百歳」すなわち末法に妙法を全世界(一閻浮提)に広宣流布していくべきことを述べたものです。
 また、法華経では、末法の広宣流布が「地涌の菩薩」に託されます。
(略)
 広宣流布について大聖人は次のように仰せられています。
 「大願とは法華弘通なり」(736ページ)
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(329ページ)
 まさに広宣流布こそ日蓮大聖人の根本精神です。

創価学会こそ広布の唯一の団体
 この大聖人の御精神を受け継いで、世界に妙法を弘通し、広宣流布を進めてきた和合僧(仏法実践者の集い)が創価学会です。
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(1360ページ)と仰せのように、大聖人のお心のままに妙法を弘めてきた創価学会こそ、広宣流布の使命を担う地涌の菩薩の団体にほかないりません。そして、日蓮大聖人の御精神を正しく継承する和合僧として、世界中に妙法を弘めてきたのです。
 自分一人の幸福だけを追い求めては小乗教になってしまいます。
 日蓮仏法は「自分」と「他人」と「国土」の幸せを築く仏法なのです。

 立正安国論は日蓮仏法の基本です。
 日蓮大聖人の最後の講義も立正安国論でした。
 国の平和と人々の幸福の為の広宣流布です。
 今の末法の時代に、法華経を広める我々は「地涌の菩薩」であることは間違いありません。

2010/11/18  2010年度任用試験 教学入門「信行学の実践」

 教学入門「信行学の実践」

4.信行学の実践
 ここでは、私たちが日蓮大聖人の仏法を実践していくうえでの三つの基本──信・行・学について学びます。

 自身の生命の変革を目指す、日蓮大聖人の仏法における修行の基本は、「信・行・学」の三つです。
(略)
 この三つのどれが欠けても、正しい仏道修行にはなりません。
 大聖人は、諸法実相抄で次のように「信・行・学」の在り方を示されています。
 「一間浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
(1361ページ、通解──世界第一の御本尊を信じなきい。よくよく心して、信心を強く持って、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の守護を得ていきなさい。行学の両面の修行を励んでいきなさい。行学が絶えたところに仏法はありません。自分も実践し、人にも教え、導いていきなさい。行学は信心から起こるのです。力があるならば、一文一句でも語っていきなさい)
 この御文は確実に暗記して下さい。
 漢字で書けなくても良いので、暗唱出来るまで繰り返し読みましょう。
 ①信
 「信」は信受ともいいます。仏の教えを信じて受け入れることです。仏の境涯に入るための唯一の道が信なのです。
 法華経には、釈尊の弟子のなかで智慧第一といわれた舎利弗も、ただ信受することによってのみ、法華経に説かれた法理を体得できたと説かれています。すなわち譬喩品には「汝舎利弗すら尚お此の経に於いては信を以て入ることを得たり」(法華経197ページ)とあります。これを「以信得入」といいます。(略)
 全ての基本が「信」です。
 南無妙法蓮華経・御本尊は「信」が無ければ理解して行く事が難しいのです。
 ②行
 「行」とは、御本尊を信受したうえでの具体的な実践のことです。
(略)
 この「行」には「自行」「化他」の両面があります。車の両輪のように、どちらが欠けても修行は成り立ちません。
 「自行」とは自分が法の功徳を得るために修行することです。「化他」とは他人に功徳を受けさせるために仏法を教える実践をいいます。
 日蓮大聖人は、「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(1022ページ)と仰せです。
 すなわち、自分が御本尊を信じて題目を唱えるとともに、人々にも御本尊の功徳を教え、信心を勧めていく、自行化他にわたる実践が、大聖人の仏法における正しい仏道修行になるのです。
 具体的には、自行とは勤行(読経・唱題)であり、化他とは弘教です。また広宣流布のための、さまざまな実践活動も、化他の修行となります。
(略)
 また、法華経には「能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」(法華経357ページ)とあります(如来とは仏のこと)。この文を踏まえて、大聖人は「法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり」(1121ページ)と仰せです。
 すなわち、私たちの化他行は、仏の使い(如来の使)として、仏の振る舞い(如来の事)を実践する最も尊い行為なのです。
 自行と化他行は、どちらも大切な実践修行です。
 なぜ、他人にも勧めるのか?
 それは自身が仏の境涯へと変革しながら、同時に他人も救い仏にならしむるからです。
 「自分さえ良ければ…」では、功徳も自己の生命変革もないからです。
 ③学
 「学」とは、教学の研さんであり、日蓮大聖人が教え遺された「御書」を拝読することを根本にして、正しい仏法の法理を学ぶことです。
 正しい仏法の法理を学ぶことによって、より深く完全な信に立つことができ、また正しい行を行うことができるのです。(略)
 より深く「信」ずるにも「学」ぶことが重要で、「行」ずるにも「学」んでなければ他人に勧められません。
 「信」「行」「学」のどれも得意な人は少ないと思います。
 得手不得手は有って当然です。
 大事なのは3つ、それぞれに挑戦すること。
 「信」だけでOKな仏法ではありませんからね。

2010/11/18  創立80周年

 本日は創価学会の創立80周年記念日です。
 誠におめでとうございます。
 100周年に向けての新たな創価青年学会の出発の日ですね。
 100周年の時、私は59歳。
 バリバリの壮年部でいるでしょうか?(笑)

2010/11/17  2010年度任用試験 教学入門「三証と五重の相対」

 教学入門「三証と五重の相対」

3.三証と五重の相対
 ここでは、人々を絶対的幸福に導く正法を判定する「基準」として、「三証」と「五重の相対」を取り上げ、大聖人の仏法こそ、末法の一切衆生の一生成仏を可能にする宗教であることを学びます。

 三証
 三証とは、「文証」「理証」「現証」の三つをいいます。
 「文証」とは、その宗教の教義が依りどころとする経文、聖典のうえで裏づけをもっているかどうか、ということです。(略)
 次に「理証」とは、その宗教の教義や主張が道理にかなっているかどうか、ということです。「仏法と申すは道理なり」(1169ページ)と仰せのように、仏法は あくまで道理を重んじます。(略)
 「現証」とは、その宗教の教義を実践した結果が生命や生活、そして社会にどのように現れたか、ということです。(略)
 日蓮大聖人は「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468ページ)と仰せです。この御文で、道理とは理証、証文とは文証のことです。この御文に明らかなように、大聖人が一番重視されたのが現証です。それは、本来、現実の人間を救うために仏法があるからです。
(略)
 この三証のどれか一つが欠けても正しい宗教とはいえません。
 理証(理屈)だけでも駄目ですし、現証だけでも駄目です。
 3つ揃って初めて「教判」出来るのです。
五重の相対
 五重の相対とは、内外相対、大小相対、権実相対、本迩相対、種脱相対の五つの相対(比較)をいいます。
 これは、日蓮大聖人御在世当時の日本で知られていた一切の思想、宗教、なかでも仏教の種々の教えを比較検討して、それらの浅深、高低を判定し、現実に苦悩を解決し、人々を絶対的幸福境涯に導く究極の正法を明らかにしていくものです。
(略)
①内外相対
 内外相対とは、内道と呼ばれる仏教と、仏教以外の教えとの相対です。大聖人御在世当時に知られていた仏教以外の教えとは、中国の伝統思想である外典(儒教・道教など)と、古代インドの諸宗教である外道(伝統的なバラモン教や釈尊と同時代に生まれた六師外道と呼ばれる諸思想など)です。
(略)
 この人間の幸・不幸に視点を当てた因果を的確に説いているのが仏教(内道)で、仏教以外の諸宗教はその因果を説かないか、説いても偏った因果観にとどまっています。
(略)
 内道・外道は比較的一般的な用語なので覚え易いと思います。
 内外相対の過去記事はこちら
②大小相対
 大小相対とは、仏教のなかで小乗教と大乗教を比較相対し、大乗教が小乗教よりも勝っていることを明かすものです。「乗」とは、乗リ物の意味で、仏の教えが、人々を迷いと苦悩から悟りの境地へと運び、導くので、乗リ物に譬えたのです。
(略)
 小乗教は、出家して修行し、自分だけが悟ることを目指す二乗(声聞、縁覚)のための教えです。これは小さな範囲の人々しか救えないという意味で、小さな乗り物に譬えるのです。
(略)
 大乗教は、自分も他人もともに幸福になろうとする菩薩のための教えです。大乗教は、自分の救いを求めるだけでなく、他の多くの人々を救うことを目指すので、大きな乗り物に譬えられるのです。
(略)
 大小は救える人数の差です。また、大乗経は自分以外の他人をも救う教えになります。
 大小相対の過去記事はこちら
③権実相対
 権実相対とは、大乗教を、仏の真実の悟りを明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備、方便として説かれた権大乗教に立て分け、権大乗教よりも実大乗教か勝ることを示したものです。権とは仮の意、実とは真実の意です(なお、小乗経と権大乗経は法華経以前に説かれた経,という意味で爾前経と呼ばれることもあります)。
(略)
 仏は本来、いかなる境涯の人をも成仏させる根本法を悟ったのですが、大乗経典のなかでも華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経などの法華経以外の諸経では、二乗(声聞・縁覚)の成仏や、悪人・女性の成仏を否定しています。これは結局、九界と仏界の断絶を説いていることになります。
(略)
 それに対して、実教である法華経は、一切衆生に仏としての境地(仏界)が本来的に可能性として具わっており、平等に成仏できるという究極の真実のすがた(諸法実相)を強調します。それに基づき、二乗作仏(権大乗教で決して成仏できないとされた声聞・縁覚の成仏)や悪人・女性の成仏を説いて十界互具が明かされ、九界と仏界の断絶がなくなるのです。
(略)
 大乗経を法華経と爾前経に分けたのが権実相対です。
 二乗・悪人・女性の不成仏を説いている爾前経より、当然に一切衆生の成仏を説いた法華経が勝ります。
 権実相対の過去記事はこちら
④本迹相対
 法華経は28品(章)からなり、その内容から前半14品と後半14品とに立て分けられます。
 法華経の前半14品では、教えを説く釈尊が権教と同じく衆生を教化するために現した姿(垂迹)のままなので迹門といいます。
 法華経の後半14品は、釈尊が仏としての本来の真実の境地(本地)をあらわしたので本門といいます。
 本迹相対とは、法華経の前半14品の迹門と後半14品の本門を比較相対して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。

「始成正覚」の立場で説かれた迹門
 法華経の前半14品では、二乗作仏、諸法実相を説いて一切衆生の成仏の法理を明かしましたが、教えを説く釈尊が、いくつもの生を繰り返し、長遠な期間の修行を経て、今世でインドの伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟り(正覚)を得た仏であるという権教と同様の成仏観・仏陀観のままです。この仏の立場を「始成正覚」(始めて正覚を成ず)といいます。

「久遠実成」を明かした本門
(略)
 それに対して後半の本門14品、特に要の寿量品では、釈尊はインドの伽耶城近くの菩提樹下で初めて成仏したのではなく、実は想像を絶するはるか久遠の昔に成仏して以来、十界の種々の姿を現して衆生を教化している永遠の仏であるという釈尊の真実の姿が明かされたのです。
 この仏の立場を「久遠実成」といいます。
 このように、本門で仏の生命の常住(過去・現在・未来の三世にわたって常に存在すること)が明かされたことによって、初めて、迷いの境地にある一切衆生の生命にも仏の境地が常に内在することが示されたのです。
 また、永遠の仏によって久遠の昔から衆生が教化されてきたことが説かれ、衆生の生命も、永遠の仏と共に常住であることが示されるのです。
(略)
 この本門において、自身に本来具わる仏界の生命を覚知して開きあらわすという真実の成仏観が明らかになったのです。
 法華経前半14品は迹門、仏の立場は「始成正覚」。
 法華経後半14品は本門、仏の立場は「久遠実成」。
 これだけは覚えて下さい。
 本迹相対の過去記事はこちら
⑤種脱相対
 末法の衆生は、釈尊の仏法では成仏できず、大聖人の仏法によって初めて成仏できることを明確に明かすのが種脱相対です。
 種脱相対とは、久遠実成を明かす法華経文上の本門(脱益)と、南無妙法蓮華経を明かす日蓮大聖人の文底独一本門(下種益)を相対したものです。
 文底独一本門とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている成仏の根本の法を明らかにした日蓮大聖人の仏法のことです。

(略)
 「種脱相対」の「種脱」とは、「下種益」と「脱益」のことです。
(略)
 そして、最終的に成仏することを「得脱」といい、それを実現させる利益を「脱益」といいます。

釈尊の仏法は「脱益」
 釈尊の真実の仏の境涯を明かした法華経文上の本門は、他の諸経や迹門の教えによって調熟されてきた衆生を、仏の悟りに至らせ、得脱させる「脱益」の働きがあります。すなわち、この本門の教えを聞いた人々は、自身の生命にも本来的に仏の偉大な生命が具わっていることを実感し、得脱できたのです。
(略)

大聖人の仏法は「下種益」
 日蓮大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せです。
 その法は、釈尊を成仏させ、また、あらゆる仏を成仏させる根本の因となる法です。この「仏種」を直ちに説き、衆生に本来具わる永遠の仏界の生命を直接に触発する教えが「下種益」の教法です。
(略)
 日蓮大聖人はこの仏種である根源の法を南無妙法蓮華経としてあらわし、弘められました。末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し、自ら唱え、他の人にも教え、勧めることにより、自身の生命に仏界が涌現し、即身成仏することができるのです。
 法華経本門が脱益にとどまるのに対し、南無妙法蓮華経は下種益の法です。
このことを日蓮大聖人は「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(249ページ)と述べられています。「彼」とは釈尊在世の法華経文上の本門、「此れ」とは末法の初めに弘められる文底独一本門のことです(「一品二半」とは法華経本門の中心となる部分で、寿量品の一品とその前後の半品ずつのこと)。
 このように、末法の衆生は釈尊の脱益仏法では成仏できず、大聖人の下種仏法によって初めて成仏できることを明かしたのが種脱相対です。
(略)
日蓮大聖人の仏法は、最も人間を信頼し、尊敬し、その可能性を開くことを教える仏法です。そして苦悩に満ちた現実世界に生きる私たちに、希望を与え、勇気を与え、生き抜く力を与える教えなのです。
 種脱相対は難しいので、繰り返し読んで下さい。
 久遠実成でも「文上の本門」と「文底独一本門」とに別れます。
 末法の衆生は下種されていない衆生ですので、下種が必要になるのです。
 下種とは「南無妙法蓮華経」の題目を、唱えさせる事になります。
 種脱相対の過去記事はこちら