2009/11/29  初級・3級教学試験 本日本番

 いよいよ試験当日です。
 受験者の皆さん、受験票を持ちましたか?
 筆記用具や消しゴムを忘れてませんか?
 昼の部の受験の方、あと半日です。
 夜の部の受験の方、仕事の決着を!
 皆さん、遅刻をしないように御祈念致します。

 試験勉強の担当者様、お疲れ様です。
 会場に送迎の方、無事故で!
 みんな、ガンバレ~~!

2009/11/27  而二と而二不二

 依正不二や色心不二、師弟不二の「而二」「而二不二」について、仏教哲学大辞典を引いてみる。

にに 【而二】
 而(しか)も二にしての意。而二不二のことで、もともと一つであるが、また二でもあることをいう。たとえば生命の本質は、色(肉体)と心(精神)とに分けられるべきものではなく、色と心を具えた一体のものであるが、また色と心であることも真実である。この場合、色と心を而二といい、不二を生命というのである。木絵二像開眼之事(四六九㌻)には「人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども入をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされぱ意(こころ)が声とあらはる意は心法・声は色法・心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり」とある。

ににふに 【而二不二】
 「而も二にして二ならず」とよむ。一往は二つのものであるが、再往これをみれぱ、別のものではなく一体であること。
1.法華経において事と理の差別を認め、しかもその本体は不可分で一体であることをいう。十八円満抄(一二六二㌻)に「事理円満とは一法の当体而二不二にして闕減(けつげん)無く具足するが故に……」とある。
2.一念三千の三干は而二、一念は不二である。
3.色心不二の生命論において、色心は而二であり、一極は不二である。御義口伝(七〇八㌻)に「色心不二なるを一極と云うなり」とある。
4.本迹において、迹門は而二、本門は不二である。御義口伝上(七八二㌻)に「迹門は空を面と為す故に不二の上の而二なり……本門は而二の上の不二なり而二不二・常同常別・古今法爾の釈之を思う可し」とある。内外にもこの原理はあてはまる。
5.権実において、開権顕実の妙法の義により権実二法は不二となる。すなわち九界を権とし、仏界を実として、九界即仏界を論ずるので権実不二である。
6.因果倶時において、因果は而二、倶時は不二である。当体義抄(五一三㌻)に「因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」とある。
7.自他において、自とは仏界、他とは九界の衆生である。仏界と九界の衆生は二にして、しかも不二である。御義口伝下(七六九㌻)に「仍て法界が法界を礼拝するなり自他不二の礼拝なり」とある。
8.染浄の二法において、染浄は而二、法性真如は一理であるので不二である。当体義抄(五一〇㌻)に「法性の妙理に染浄の二法あり染法は薫じて迷と成り浄法は薫じて悟となる悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も法性真如の一理なり」とある。
9.依正不二において、依正は而二であり、依正の二法というけれども不二であるので而二不二という。瑞相御書(一一四〇㌻)に「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもって此れをつくる」とある。
10.境智冥合において、境智は而二であり、冥合は不二である。四条金吾殿御返事(一一一七㌻)に「是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にして、しかも境智不二の内証なり」とある。受潤不二門について、能受の行人と能潤の教益と、たがいに融合混合するので而二不二という。
11.修性不二について、修得と性得が一体であるゆえに不二という。御義口伝上(七四七㌻)に「竜女が手に持てる時は性得の宝珠なり仏受け取り給う時は修得の宝珠なり、中に有るは修性不二なり」とある。
12.三業不二について、身口意の三業をはなれず仏道を行じて仏に加るので而二不二である。四条金吾殿御返事(一一八一㌻)に「或は身はをちねども心をち或は心は・をちねども身はをちぬ」とある。
13.人法一箇。日蓮大聖人の仏法においては、人法は而二であり、一箇は不二である。文底秘沈抄(富要三巻八五㌻)に「人法名殊なれども大理別ならず人即法の故に」とある。

 うーん、難しいな。(^^)
 「不二の上の而二なり」「而二の上の不二なり」…理解出来ない…。(°.°;
 「不二」に差別があっても、不可分の一体とするのは理解出来るけど、その差別は優劣・勝劣かは判らない。
 もう少し研鑽を続けるか…。

2009/11/22  初級・3級教学試験 研鑽問題(2009年)解答例

 各2点×50間100点

問一
 一、イ、慈悲 未来 天台
   ロ、師
 二、イ、法華経兵法事(もしくは剣形書)
   ロ、法華経の兵法 信心 臆病
   ハ、薬王
 三、イ、3
   ロ、師子王 仏 日蓮
   ハ、3
   ニ、(例) 正法を弘通しようとする時、政治的権力が宗教的権威と結託して、法華経の行者を迫害する。
 四、イ、魔 三障四魔 悪道 正法
   ロ、魔が競い起こらないならば、正法であると知ることができない。

問ニ
   イ、5
   ロ、1
   ハ、4
   ニ、3
   ホ、2

問三
 一、イ、師子吼
   ロ、弟子
   ハ、師弟
 二、イ、5 2
   ロ、4 1
   ハ、3 6
 三、3

問四
 一、イ、日興上人
   ロ、1.御書をすきかえした(または、御書を焼いた)
     2.御書の刊行を禁止した(または、御文の削除をした)
 二、イ、1
   ロ、3
   ハ、2
 三、イ、3
   ロ、4
   ハ、1
   ニ、2

問五
 一、破和合僧
 二、一凶
 三、3 2
 四、(例1)日蓮大聖人の仏法における血脈とは、本来、万人に開かれたものであり、特定の人間のみが独占するものではない。
   (例2)日蓮大聖人の仏法における血脈とは、「信心の血脈」のことであり、日顕宗の特権的・神秘的な血脈観は、邪義である。


 範囲外の問題もありますので100点は難しいかも…。

2009/11/22  初級・3級教学試験 研鑽問題(2009年) その5

 練習問題です。

問五 「日顕宗を破す」(教学入門)について、一~四の問いに答えなさい。
 一、仏意仏勅の教団である創価学会の破壊を企てた日顕の罪は、仏法上の大罪である「五逆罪」のうち、何にあたるか答えなさい。
  (       )の罪
 二、左の御文の[   ]に正しい言葉を書き入れなさい。
 「如かず彼の万祈を修せんよりは此の[   ]を禁ぜんには」(立正安国論)
 三、次の御文の(   )に入る正しい言葉を選び、その番号を丸で囲みなさい。
 「信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり(1.大乗経  2.小乗経  3.法華経)を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも(1.悪知識  2.法華経の敵  3.謗法)をだにも・せめざれば得道ありがたし」(南条兵衛七郎殿御書)
 四、”相承を受けた法主にだけ仏の悟りが伝わる”とする、日顕宗の血脈観を簡潔に破折しなさい。
 (                 )

2009/11/22  初級・3級教学試験 研鑽問題(2009年) その4

 練習問題です。

問四 「地涌の使命と実践」(教学入門)について、一~三の問いに答えなさい。
 一、次の文章について、間いに答えなさい。
 日蓮大聖人の御入滅後、五老僧は大聖入の御深意を知らず、御書をないがしろにした。これに対して、大聖人の著作をずぺて「御書」と呼んで尊重し、後世のために収集、書写に努められたのが[   ]である。この精神を受け継ぎ、創価学会では、昭和27年(1952年)4月28日、戸田城聖第2代会長の発願により、『日蓮大聖人御書全集』を発刊。これに比べて日蓮正宗宗門は、戦時中、国家神道と結びついた軍部権力の弾圧を恐れて、大聖人門下としてあってはならない誤りをした。
  イ、右の[   ]に、もっとも適切な人物名を書き入れなさい。
  ロ、2カ所の太文字に関して、御書を軽視した1.五老僧、2.宗門が犯した誤りの具体例を、それぞれ一つ挙げなさい。
   1.五老僧(            )
   2.宗門(            )

 二、次の仏法用語に関連する内容を1~3の中から透び、(   )に書き入れなさい。
  イ、諸天善神(   )
  ロ、善知識(    )
  ハ、随方昆尼(    )
  1.梵天、帝釈、日天、月天、明星天、天照大神、八幡大菩薩など、正法を受持する人とその国土を守護する一切の天、神のこと。
  2.仏法の根本の法理に違わない限り、各国・各地域の風俗や習慣、時代の風習を尊重し、それに随うべきであるとした教えのこと。
  3.正しく仏道に導いてくれる師匠や、仏道修行を励ましてくれる同志のこと。

 三、次のイ~二の文章を読んで、もっとも関係の深い御文を1~4から選び、(   )に書き入れなさい。
  イ、日々の生活、現実の社会が、そのまま仏道修行の場、信心成長の場になることを教えられている。
  ロ、信心こそが、時代・社会の相違を超えて、人生の根本的な勝利、真の幸福を勝ち取っていく源泉である。
  ハ、仏法といっても、人間としての生き方を離れてはありえない。
  ニ、邪義に鞍着し、正法を破壊しようとする者に対しては厳しく破折しなけれぱならない。
(御文)
  1.「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(崇峻天皇御書)
  2.「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(曾谷殿御返事)
  3.「御みやつかいを法華経とをぼしめせ、『一切世間の治生産業は皆実頼と相達背せず』とは此れなり」(檀越某御返事)
  4.「仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(四条金吾震御返事)

2009/11/22  初級・3級教学試験 研鑽問題(2009年) その3

 練習問題です。

問三 次の一~三の問いについて、それぞれ答えなさい。
 一、左のイ、ロの御文の[   ]に正しい言薬を書き入れなさい。
  イ、「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は[   ]の如しいかなる病さはりをなすべきや」(経王殿御返事)
  ロ、「師とは師匠授くる所の妙法、子とは[  ]受くる所の妙法・吼とは[  ]共に唱うる所の音声なり」(御義口伝)

 二、次のイ~ハの御文の(   )に入る正しい言薬を(語群)から選び、その番号を書き入れなさい。
  イ、「過去の因を知らんと欲せば其の(   )を見よ、未来の果を知らんと欲せば其の(   )を見よ」(開目抄)
  ロ、「我が弟子等心みに(   )のごとく身命もおしまず修行して此の度(   )を心みよ」(撰時抄)
  ハ、「其の国の仏法は(   )にまかせたてまつり候ぞ、仏種は縁に従って起る、是の故に(   )を説くなるべし」(高橋殿御返事)

(語群)1.仏法  2.現在の因  3.貴辺  4.法華経  5.現在の果 6.一乗

 三、「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、[   ]」(華果成就御書)の御文について、[   ]に入るもっとも適切な内容を、次の1~3の中から選び、丸で囲みなさい。
  1.自分なりに師匠の教えを受け止めていくことが大切である。
  2.良い弟子を多くもつことは師匠にとつて幸せなことである。
  3.師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできないのである。

2009/11/22  初級・3級教学試験 研鑽問題(2009年) その1

 練習問題です。

問一 次の一~四の御文について、それぞれの問いに答えなさい。
一、「日蓮が[  ]曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・[  ]までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・[  ]にも超へ竜樹迦葉にもすぐれたり」(報恩抄)
 イ、右の御文の[  ]に正しい言葉を書き入れなさい。
 ロ、「日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」との仰せは、主師親の三徳でいえぱ、どれにあたるか答えなさい。(  )の徳

二、「なにの兵法よりも[          ]をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく[   ]をとり給へ、あへて[   ]にては叶うべからず候」(四条金吾殿御返事)
 イ、この御書の別名を答えなさい。 (       )
 ロ、右の御文の[  ]に正しい言葉を書き入れなさい。
 ハ、「諸余怨敵・皆悉摧滅」は、法華経何品の言葉か答えなさい。 法華経(   )品

三、「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は[   ]の如くなる心をもてる者必ず[   ]になるべし例せば[   ]が如し」(佐渡御書)
 イ、「智者」とは、ここではだれのことをさしているか。次の1~3から選びなさい。
  1.釈尊  2.極楽寺良観  3.日蓮大聖人
 ロ、右の御文の[  ]に正しい言葉を書き入れなさい。
 ハ、「強敵を伏して始て力士をしる」とは、どういう意味か。次の1~3から適切なものを選びなさい。
  1.強敏に随えば、カある人と知り合うことができる。
  2.強敵に倒されることで、相手の力量を知ることができる。
  3.強敵に勝ってこそ、力ある人物であると証明することができる。

2、日蓮大聖人は「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方入をなして智者を失はん時」と、”弾圧の構図”を示されている。「政治的権力」「宗教的権威」の二語を用いて、法華経の行者への弾圧の構図について、簡潔に述ぺなさい。
(                        )

四、「此の法門を申すには必ず[   ]出来すべし(          )、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば[   ]紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして[   ]に向わしむ之を畏れば[   ]を修することを妨ぐ』等云云」(兄弟抄)
 イ、右の御文の[   ]に正しい言葉を書き入れなさい。
 ロ、(   )に入る御文の趣旨を書きなさい。(            )

2009/11/22  初級・3級教学試験 教学入門 まとめ

 教学入門の範囲は広く、難しい用語もあると思います。
 中には日常的に使われている語句もありますね。

 各章で出て来る御書の御文は暗記をして下さい。
 年号や日付も覚えた方が良いでしょう。
 漢字で回答しなくても、大丈夫です。
 ひらがなでも不正解にはなりませんよ。
 「日顕宗を破す」は範囲が狭いが、配点が高いので必ず覚えましょう。

 試験の肝要は「師弟不二」「報恩」「難を乗り越える信心」「不惜身命」「異体同心」です。
 御書と大白テキストは書込んでボロボロにしましょう。

2009/11/22  初級・3級教学試験 教学入門 その6

6.日顕宗を破す



悪と戦う
 日蓮大聖人は、「立正安国論」のなかで「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(24ページ)、「須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」(25ページ)と仰せです。仏法を正しく実践していくうえで一番大事なことは、人々の心を惑わす根本の悪縁である「一凶」と戦い抜くことです。
 「信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」(1494ページ)
 どんなに善根を作って、仏法の修行を重ねても、「法華経の敵」を責めなければ成仏は叶わないと仰せです。
 「法華経の敵」とは、人々に法華経を捨てさせ、万人の成仏の道を塞ぐ者をいいます。法華経は誰人の生命にも仏性があると説く、究極の「人間尊敬」の思想です。この法華経の考えを否定し、「生命尊厳」「万人平等」「民衆根本」の思想に逆行し、法華経の行者を迫害する者が「法華経の敵」にあたります。
 日蓮大聖人御在世当時であれば、権力と結託して、弾圧を企て日蓮大聖人を迫害した僭聖増上慢・極楽寺良観が「法華経の敵」となります。
 そして、現代であれば、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を担う仏意仏勅の団体を破門し、破壊しようと企てた日顕が「法華経の敵」に当たります。
 日顕が犯した最大の罪は、この「破和合僧」の罪です。広布を推進してきた創価学会の組織破壊の謀略を企てたことは、日蓮大聖人の御遺命に違背した最大の謗法であるといえます。

日顕宗の主な邪義

(1)日顕宗の中心教義「法主信仰」
 現宗門を、なぜ「日顕宗」と呼ぶのか。それは、日顕宗の教義が、法主を信仰の対象としているからです。
 「日興遺誡置文」には、次のようにあります。
 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(1618ページ)
 この遺誡は、たとえ法主であろうとも仏法から逸脱して、白分勝手な主張をする場合は、それを用いてはならないと断言されているものです。また、この仰せからうかがえるように、日興上人は、後代の法主が誤りを犯すこともありうると想定されていたのです。
 この「遺誡置文」に照らしても、法主を絶対視することは、日蓮大聖人・日興上人に完全に違背した邪義であることは明白です。

(2)神秘的血脈の嘘
 もともと「血脈」とは、真言密教や日本天台宗で盛んに用いられた言葉で、師匠から弟子へ法門が受け継がれることを、血管に血が流れていることに譬えたものです。
 それに対して日蓮大聖人は、「生死一大事血脈抄」に「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとする」(1337ページ)と仰せになり、成仏の血脈は特定の人間のみが所持するものではなく、万人に開かれるものであることを明確に示されています。
 そして、日蓮大聖人の仏法においては、「血脈」といっても、結論は「信心の血脈」という表現にあるように「信心」のことです。

(3)「僧俗差別義」の時代錯誤
 日顕および日顕宗の僧侶に共通しているのは、”僧が上で信者は下”という、信徒に対する抜きがたい「差別思想」です。
 日蓮大聖人は「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ」(1134ページ)、「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(1448ページ)と、明確に僧俗の平等を説かれています。
 日顕宗がこうした平等観を真っ向から否定する背景には、江戸時代を中心に日本の仏教が葬式仏教化し、檀家制度が普及したことがあげられます。
 その檀家制度の弊害を体質として深く残している時代錯誤の集団が日顕宗です。僧俗差別義はその象徴といえるのです。

2009/11/22  初級・3級教学試験 教学入門 その5

5.地涌の使命と実践



御書
 五老僧たちのなかには、仮名交じりの御書は大聖人の恥であるとして、御書をすきかえして(水に溶かして再び紙にすること)しまったり、焼いたりする者もいました。これは、五老僧たちが、大聖人を末法の御本仏と拝することができなかったからです。
 これに対して日興上人は、大聖人の著作をすべて「御書」と呼んで尊重し、散在していた御書の収集を図られ、後世に残すため書写に努められました。
 この日興上人の精神を継いで、創価学会では、戸田城聖第2代会長の発願により、昭和27年(1952年)4月28日に『日蓮大聖人御書全集』を発刊しました。
 堀日亨上人の研究成果を踏まえ、正しい法理に基づいて御書を集大成したことは、700年間誰人も成し得なかった快挙であり、御書を信仰の根本とする創価学会の信心を示した大事業でした。
 これに比べて日蓮正宗宗門は、戦時中、国家神道と結びついていた軍部権力の弾圧を恐れて、時勢に照らして支障のある御書の御文を削除するという、大聖人門下としてあってはならない誤りを犯したのです。
 昭和16年(1941年)8月に、御書の刊行を禁止する院達を出し、さらに同年9月には、宗務院教学部長名で計14カ所に及ぶ御文の削除を通達したのです。
 「御書根本」を貫く創価学会と、御書を軽視し続けてきた宗門と、その相違は明確です。

信心と生活
 御書には「御みやつかいを法華経とをぼしめせ」(1295ページ)と仰せです。
 「御みやつかい」とは、今日の私たちの立場にあてはめれば、職業・仕事・生活にあたります。
 したがって、この御文は、日々の生活、現実の社会が、そのまま仏道修行の場、信心成長の場となることを教えられています。
 さらに御書には「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(1169ページ)、「仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(1165ページ)と仰せです。
 ”仏法は勝負”であり、信心こそが、時代・社会の相違を超えて、人生の根本的な勝利、真の幸福を勝ち取っていく源泉です。したがって、どのような状況にあっても、信心を根本として、勝利の実証を示していくことが大切です。

善知識と悪知識
 「知識」とは元来、仏教用語では友人・知人を意味する言葉です。「知識」のなかでも正しく仏道に導いてくれる師匠や、仏道修行を励ましてくれる同志を「善知識」といい、その逆に、仏道修行を妨げ、人を迷わして悪道に導く者を「悪知識」といいます。
 「種種御振舞御書」には「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(917ページ)と説かれ、「富木殿御返事」には「諸の悪人は又善知識なり」(962ページ)と述べられています。

諸天善神
 この諸天善神は、私たちの生命と別に、それ自体の意思をもって存在しているものではありません。
 私たちの生命の力、一念の働きが社会や環境などの依報のうえに反映し、それがさまざまな働きとして顕れてくるのです。
 このことについて日蓮大聖人は「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997ページ)と仰せになっています。
 すなわち、私たちの生命に具わる根本の悟りの生命(=元品の法性)が、諸天善神の守護の働きとして顕れ、逆に根本の迷いの生命(=元品の無明)が、第六天の魔王の働きとして顕れるのです。

謗法厳誡・随方毘尼
(1)謗法厳誡
 謗法とは、「誹謗正法」すなわち正法を誹謗する(=謗る、悪口を言う)ことをいいます。
 正法に背き、正法を信じようとしない不信は謗法となりますから、謗法は自ら厳しく戒めなければなりません。
 それとともに、成仏のためには自ら謗法を犯さないようにするだけでなく、他の謗法を責めていく折伏の実践が、謗法厳誡の肝要となります。
 大聖人は「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(1056ページ)と仰せです。

(2)随方毘尼
 「随方」とは、地域の風習に随うこと、「毘尼」とは、戒律の意味です。
 日蓮大聖人は「此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり」(1202ページ)と仰せです。
 要するに、正法という根本基準を立てたうえで、成仏・不成仏という仏法の根本原理に関する事柄でなければ、一般の風俗、世間の普通の約束事を尊重し、用いていくことを説いているのが大聖人の仏法です。

2009/11/21  初級・3級教学試験 教学入門 その4

4.御本尊と受持即観心



御本尊の意義
 私たちが拝する御本尊は、あらゆる仏を成仏させる「根源の法」であり、一切衆生の胸中にある「仏種」である南無妙法蓮華経を顕された御本尊です。
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(1124ページ)と仰せになられているように、御本尊は、根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得された日蓮大聖人の御生命を顕されたものなのです。
 また大聖人は、御本尊について「法華弘通のはたじるし」(1243ページ)と仰せです。すなわち、御本尊への信を広げていくことが、万人成仏を説く法華経を広めることになり、広宣流布の指標になるのです。

受持即観心
 「観心本尊抄」には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(246ページ)と述べられています。
 このように、大聖人の仏法においては、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することが、そのまま成仏の根本の原因の修行、すなわち観心となります。このことを「受持即観心」といい、御本尊を「観心の本尊」と言います。
 私たちにとっての「受持」とは、御本尊を信じ、唱題に励むことです。
 また、この「唱題」も、ただ自分で行ずるだけでなく、人にも勧め唱えさせていく自行化他にわたる唱題でなければならないと大聖人は仰せです。

2009/11/21  初級・3級教学試験 教学入門 その3

3.一念三千と十界互具



一念三千の構成
 一念三千とは、法華経に説かれている一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が「摩訶止観」のなかで、体系化して説明したものです。
 「一念」とは、我々の瞬間瞬間の生命のことで、この一念に、すべての現象、働きを意味する三千の諸法が具わっていることを説いたのが一念三千の法理です。
 「三千」とは、十界互具と十如是、そして三世間を合わせて総合したものです。(百界×十如是×三世間=三千)。十界と十如是と三世間という、それぞれ異なった角度から生命をとらえた法理を総合し、私たちの生命の全体観を示したものです。

(1)十界互具
 十界は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種類の生命の境涯のことです。
 これら10種の生命境涯は、十界いずれの衆生にも欠けることなく具わっています。このように十界のおのおのの生命に十界が具していることを「十界互具」といいます。
 
 分けることができます。例えば、毎日苦しんでばかりの人は「地獄界」の境涯。いつも争ってばかりの人は「修羅界」の境涯と言えます。
しかし、地獄界の人にも、たまには喜ぶ時(天界)があるでしょうし、修羅界の人にも自分の子供を慈しんだりする時(菩薩界)があります。これを十界互具と言います。つまり、どのような境涯の衆生にも成仏する可能性があることを説いたのが十界互具です。

(2)十如是
 十如是とは、十界の衆生に共通して具わる生命の10種類の側面を示したものです。
 私たちが、日々読誦している法華経方便品第2の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の10種です。

(3)三世間
 三世間とは、五陰世間、衆生世間、国土世間の三つをいいます。「世間」とは、差異・差別のことで、十界の差異は、この三つの次元に現れます。

 以上の十界互具・十如是・三世間の法理を総合して成立したのが一念三千の法門です。

一念と三千
 「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」(238ページ)
 ここで、わずかでも私たちの「一念の心」があるところ、そこに「三千の諸法」が具わるということが示されています。
 三千の諸法」とは。先ほどの三千の構成で示された、全宇宙に起こりうる、あらゆる現象です。
 要するに瞬間瞬間のわが生命に、”無限の可能性”が秘められている、という希望の原理が一念三千の法理です。

凡夫成仏・即身成仏・一生成仏
 日蓮大聖人は「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり」(1446ページ)と仰せです。
 法華経以外の諸経では、「成仏」が説かれていても、少なくとも二つのことが条件とされていました。
 一つは衆生が悪人であったならば善人に生まれ変わることが必要があり、女性であったならば男性に生まれ変わることが必要であるということです。
 悪人や女性が、そのまま成仏することはできないとされていたのです。
 それに対して、法華経では十界互具が説かれることにより、成仏とは「仏という特別な存在に成る」ことではなく、自身の九界の身に「仏界の生命を開く」ことであると説いたのです。
 成仏の「成」について「成とは開くの義なり」(753ページ)と仰せです。
 なお凡夫の身のままで成仏できることを即身成仏、一生のうちに成仏できることを一生成仏をいいますが、どちらも同じ法理を表現した言葉です。

煩悩即菩提・生死即涅槃
 この即身成仏の法理を別な角度から表したのが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。
 小乗教の考え方では、凡夫は煩悩を断じて、初めて悟り(菩提)を得て成仏するとされています。
 また、権大乗経では一応、煩悩即菩提を説きますが、九界を離れて初めて仏になると説くので、実質的には小乗教と同じ悟りの考え方になってしまいます。
 これに対し、法華経では、凡夫のもっている煩悩を断ずることなく、直ちに仏の菩提(=悟り)が得られることが明かされました。
 「御義口伝」に「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」(710ページ)とあるように、悩みを避けたり、悩みから逃げたりするのではなく、信心を根本に、煩悩に真っ向から取り組んでいくとき、煩悩を縁として悟りの智慧が現れて、煩悩をコントロールしていけるのです。
 この「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法理に立脚するとき、あらゆる苦悩を自身の成長と幸福の因に転じていく積極的な生き方が可能になるのです。

2009/11/19  初級・3級教学試験 教学入門 その2

2.日蓮大聖人と法華経



末法の法華経の行者
 日蓮大聖人は、法華経の経文通りに実践し、大難を越えて妙法を弘通した御自身のことを、「法華経の行者」と仰せになっています。
 法華経には、釈尊の滅後において、法華経を信じ、行じ、広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されています。

 法師品第10には、「如来現在猶多怨嫉。況滅度後」と説かれています。
 見宝塔品第11では、六難九易を説いて、滅後に法華経を受持し、広めることが困難であることを強調し、菩薩たちに、釈尊滅後に法華経を弘通する誓いを立てるように勧めています。
 また、勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者には俗衆、道門、僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起るとしています。
 このように見ると法華経は、末法における大聖人の出現とその振る舞いを予言した経典ととらえることができます。
 逆に大聖人が法華経を身読されたことによって、法華経が虚妄にならずにすみ、釈尊の言葉が真実であることを証明したことになります。
 「猶多怨嫉・況滅度後」「六難九易」「三類の強敵」の用語をしっかり覚えましょう。

上行菩薩
 日蓮大聖人は、外用(=外面の姿、働き)としては、釈尊から付嘱を受けた、地涌の菩薩の上首(=最上の導師)上行菩薩として振る舞われましたが、御内証(=内心の悟りの境涯)においては、久遠元初の自受用報身如来にほかなりません。
 大聖人は、法華経の行者として幾重もの大難を乗り越え、文永8年9月12日の竜の口の法難の時に、この久遠元初自受用報身如来の境地を御自身の凡夫の胸中に顕され、その根源の仏の生命を南無妙法蓮華経の御本尊として御図顕されたのです。
 また、末法において法華経を弘通したと言っても、大聖人が広められた「法」は、釈尊の残した法華経28品ではありません。
 「今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546ページ)と仰せのように、大聖人は法華経の肝心(文底)である三大秘法の南無妙法蓮華経を顕し、広められたのです。そこに末法の御本仏たるゆえんがあります。

2009/11/19  初級・3級教学試験 教学入門 その1

1.法華経



万人の成仏の経典
 釈尊の説いた仏教の教えは、さまざまな経典として残されていますが、「万人の成仏」を実現する完全な教えを説いた経典は「法華経」だけです。他の経典は部分的な教えにとどまっています。
 例えば、爾前経(法華経以前のさまざまな経典)では、声聞・縁覚の二乗や、女人や悪人は成仏できないと説き、一切衆生の成仏を明かしていません。

法華経のあらすじと構成
 法華経は、8巻28品(章)から成り立っています。天台大師(6世紀の中国で法華経を宣揚した人)は、この28品のうち、前半14品(序品第1~安楽行品第14)を「迹門」、後半14品(涌出品第15~普賢品第28)を「本門」と分類しました。
 迹門の中心は、方便品第2で説かれた「諸法実相」です。また、譬喩品第3から人記品第9までで最も強調されているのは「二乗作仏」(二乗の成仏)です。これらの教えによって、一切衆生の成仏を可能にする十界互具・一念三千の法理が明らかになります。
 法師品第10からは、釈尊入滅後の未来、とりわけ末法に、この法華経をだれが弘通するのか、だれが悪世に生きる人々を救うのかいうテーマのもとで展開していきます。
 まず宝塔品第11では、7種の宝で飾られた巨大な宝塔が大地から涌現して空中に浮かびます。その宝塔の中にいた多宝如来が、釈尊の法華経の説法は真実であると証明します。続いて十方の仏土、すなわち全宇宙から一切の仏や菩薩が来集します。そして、釈尊が宝塔の中に入り、多宝如来と並び座ります(二仏並坐)。法華経の説法の場である霊鷲山にいた大衆も、仏の神通力によって虚空(=空中)に浮かび、虚空での説法が始まります。(虚空会・二処三会)
 この虚空会で釈尊は、釈尊滅後の悪世における法華経の弘通を勧めます。
 (「六難九易」や「三類の強敵」が説かれて)悪世に法を弘通する困難さを示しています。
 そうした大難を覚悟して多くの菩薩が弘通を誓いますが、釈尊はそれらを制止し、涌出品第15で滅後弘通の真の主体者として無数の「地涌の菩薩」を大地の下方から召し出されます。
 この地涌の菩薩の出現から、本門が始まります。
 そして、寿量品第16で久遠実成を説いて真実の仏の境地を明らかにしたうえで、神力品第21で地涌の菩薩のリーダーである上行菩薩に法華経の肝要を付嘱し、未来を託します。
 この付嘱の儀式の後、舞台は再び霊鷲山に戻り、薬王・妙音・観世音・普賢菩薩などの振る舞いを通して、人々を救う菩薩の姿を説きます。また、薬王品第23などで後五百歳(末法)に一閻浮提(全世界)に法華経が広宣流布することを予言され、さらには、諸天善神が正法を弘通する者を守護することを誓い、法華経の説法が終了します。

諸法実相と久遠実成
 法華経迹門の中心的法理は「諸法実相」と「二乗作仏」です。この諸法実相は方便品第2の中で説かれます。
 諸法実相の「諸法」とは、この現実世界において、様々な姿をとってあらわれている”すべての現象”です。「実相」とは”究極の真理”です。
 この諸法と実相とが別々のものではなく、諸法はそのまま実相の現われであり、実相は決して諸法から離れてあるものではないというのが諸法実相です。
 方便品では、諸法がすべて十如是の姿をとっていることを示して実相を指し示しています。しかし日蓮大聖人は実相とは妙法蓮華経であると明確に明かされています。

 法華経本門の中心的法理は「久遠実成」です。この久遠実成は、寿量品第16の中で説かれます。
 すなわち、「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」と説かれます。これによって、釈尊が今世ではじめて成仏した(始成正覚)というこれまでの考え方を打ち破り、釈尊は実は五百塵点劫というはるか久遠の昔に成仏して以来、この娑婆世界に常住してきた仏であることが明かされます。
 また、釈尊は、「私がもと菩薩の道を実践して(我本行菩薩道)、成就したところの寿命は、今なお尽きていない」と示します。

地涌の菩薩
 地涌の菩薩とは、涌出品第15で釈尊が滅後弘通のために大地から呼び出した無数の菩薩をいいます。
 この地涌の菩薩には、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩という4人の導師(=衆生を導くリーダー)に率いられています。
 そして、上行菩薩らは、神力品第21において、仏の滅後に大法を広めることを誓います。これを受けて釈尊から滅後の弘教を付嘱されます。
 この付嘱通りに末法の初めに、南無妙法蓮華経を弘通された日蓮大聖人が上行菩薩にあたります。
 また、「諸法実相抄」に「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」(1360ページ)と仰せのように、日蓮大聖人の教えを信受して、大聖人の御精神の通り広布の実践に励む私たち一人一人も全て地涌の菩薩であり、末法の御本仏・日蓮大聖人の本眷属なのです。

不軽菩薩
 仏の滅後の悪世に、正法を弘通する実践の在り方を示したのが、不軽品第20に説かれる不軽菩薩の実践です。
 不軽菩薩は、釈尊の過去世の修行の姿で、「二十四文字の法華経」を説いて、一切衆生を礼拝し続けました。
 悪世末法は、「争い」の時代であります。その争いの時代を変革するためには、一人一人が「自他の仏性」を信じ、「人を敬う」行動を続ける以外にありません。「人を敬う」という、人間としての最高の振る舞いを説き、万人が同じ実践を貫くように教えたのが仏教です。
 大聖人は「人の振る舞い」について次のように仰せです。
「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174ページ)
 自他を信じ、現わしていく不軽菩薩の実践に象徴されるような「人の振る舞い」こそ仏法の目的であることが明確に示されています。

2009/11/09  初級・3級教学試験 「兄弟抄」(下)まとめ

 兄弟抄の御書講義のまとめ。

 一念三千の法門が仏教の肝心である。
 三障四魔が必ず起きる事。
 三障四魔に随ってはならない。
 三障四魔はいろいろな形で出て来る。
 魔性と戦うには「師弟不二」と「異体同心」です。
 「心こそ大切なれ」
 でも、自分の心を師としてはならない。
 魔の分断を見抜き打ち破る「団結」。
 「賢者はよろこび」の信心。
 師弟不二の難を乗り越える信心。

2009/11/09  初級・3級教学試験 「兄弟抄」(下)その3

 前回の御書講義続き。

本文
 心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり。設ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし

通解
 「心の師とはなっても、自分の心を師としてはならない」とは、六波羅蜜教の文である。
 たとえ、心を煩わせる、どのようなことがあっても、夢と思って、ただ法華経のことだけに専念していきなさい。

解説
 「心こそ大切なれ」(1192ページ)です。
 「心こそ大切に候へ」(1326ページ)です。
 「心」には、生命に無上の尊極性を開く力があります。一方で、無明につき動かされ堕落するのも「心」です。したがって「心」の変革こそが一切の根幹となります。
 その時に、凡夫の揺れ動く自分の「心」を基準にしては、三障四魔の烈風が吹く険しき尾根を登ることはできません。絶対に揺るがない成仏の山頂を見据えて、「心の師」を求め抜くしかありません。それが「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」との一節です。
 「心の師」──断固として揺れ動くことのない不動の根拠とは「法」しかありません。したがって、「法」を悟り弘める仏の説き残した「経典」が大事になります。私たちで言えば、「御本尊根本」「御書根本」の姿勢が「心の師」を求めることになります。
 そして、「法」と私たちを結びつけるのが、仏法実践の「師匠」の存在です。自分中心の慢心ではなく、師弟不二の求道の信心に生き抜くことが「心の師」を求める生き方にほかなりません。
 現代において、「只法華経事のみ」という「心の師」を求める生き方を堅実に歩んできた学会員は皆、見事に勝利の実証を示しています。日本中・世界中に庶民の信心の英雄は数多くおられます。その方たちこそ、「広宣流布の宝」です。また、「人類の宝」です。「法」を根幹として、また「師弟不二」に徹して、自身の宿命を転換し、何ものにも揺るがぬ幸福境涯を確率されています。


 「法」という永遠の存在に軸足にして行けばブレることはありません。
 「どうしたらいいのか?」「なにをすれば良いのか?」。ここで自分の「心」を師にしては無明に入って迷ってしまいます。

本文
 中にも日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし、設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず、(中略)此の御文は別してひやうへの志殿へまいらせ候、又太夫志殿の女房兵衛志殿の女房によくよく申しきかせさせ給うべしきかせさせ給うべし

通解
 なかでも日蓮の法門は、昔には信じることが難しかったが、今は前々から言っておいたことが的中しているので、理由もなく誹謗した人々も、悔いる心が起きているであろう。たとえ、これより後に信仰する男女があっても、あなたがたに替えて思うことはできない。(中略)
 このお手紙は、特に兵衛志殿にあてたものである。また太夫志殿の夫人、兵衛志殿の夫人にも、よくよく言い聞かせてください。言い聞かせてください。

解説
 本抄の結びに、あらあためて「師弟不二」の重要性を教えられています。
 人間の心の動きは千差万別です。なかには、大聖人の予言的中の現証を見て、誹謗していたことを撤回して悔いる心をもつ人もいました。反対に、信心をしていながら迫害を恐れて退転し、あまつさえ、もともと誹謗していた人よりも一層激しく毀謗する心をもつ人も多くいました。
 心浅き人間。退転反逆の輩。臆病な者たち。人間の心は恐ろしいものです。だからこそ、大聖人は、まっすぐに師弟の道を歩み通した池上兄弟と夫人たちに「設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず」とまで仰せくださったと拝されてなりません。
 どんな嵐が吹き荒れても、いささかも微動だにせずに、背信の者たちを悠然と見おろし、ただ広宣の大道を貫いてきた門下たちこそ真の弟子であると、大聖人は最大に賛嘆なされております。「師弟」こそ、人生の無上の価値です。
 戸田先生は、次のように語られたことがあります。
 「一生成仏という大空に悠々と舞い上がっていくには、難という烈風に向かって飛び立たねばならない。難に負けない信心こそが、永遠の幸福の城を築きゆく力なのだ。信心で越えられぬ難など、断じてない」
 この戸田先生の決然たるご確信こそ、学会精神であり、折伏精神であり、魔と戦う攻撃精神です。
 どこまでも大事なのは信心です。
 大聖人は池上兄弟に対して、「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091ページ)と仰せになられました。
 「賢者はよろこび」の信心に立てば、三障四魔の激しき風は、わが生命を覆う宿命の「雲」を吹き払います。澄み切った天空に、大歓喜の虹がかかることは絶対に間違いありません。そこにこそ「正義」と「幸福」と「勝利」の太陽の光が燦然と輝くことを確信して、大難に対して威風堂々と挑んでいくことです。三障四魔を打ち破る弟子の勝利こそ、師匠の祈りであり、喜びなのです。


 世間でも師弟の絆は尊ばれます、まして広布の師弟ならば尚更です。
 この厳粛な師弟は創価学会の中にしかありません。

2009/11/09  初級・3級教学試験 「兄弟抄」(下)その2

 前回の御書講義続き。

本文
 之に随えば将に人をして悪道に向わしむと申すは只三悪道のみならず人天九界を皆悪道とかけり、されば法華経を除きて華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等なり、天台宗を除きて余の七宗の人人は人を悪道に向わしむる獄卒なり、天台宗の人人の中にも法華経を信ずるやうにて人を爾前へやるは悪道に人をつかはす獄卒なり

通解
 「これに随うならば、必ず人を悪道に向かわせる」(摩訶止観)というのは、ただ地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道だけではなく、人界や天界、そして仏界以外の九界をすべて悪道と書いているのである。それゆえ、法華経を除いて華厳経・阿含経・方等経・般若経・涅槃経・大日経などが、これに当たるのである。天台宗を除いて、他の七宗の人々は、人を悪道に向かわせる地獄の鬼である。天台宗の人々のなかでも、法華経を信じているようにみえて、実は人を法華経以前の教えへと向かわせる者は、やはり人を悪道に追いやる地獄の鬼なのである。

解説
 大聖人は再び、「摩訶止観」の「之に随えば将に人をして悪道に向わしむ」の文を引かれます。
 人々を三障四魔によって悪道に堕としていくのは、悪知識である諸宗の悪僧たちです。そうした輩は、三悪道へ、爾前経の九界へと人々を向かわせる「獄卒」にほかならないと喝破されています。
 この建治年間、大聖人はいよいよ、日本中の法華経謗法の根本の因を作った天台座主の慈覚・智証に対して、破折の舌鋒を鋭くされていきます。法華経を守るべき彼らが、自宗に真言を取り入れ、「法華経をころす人」(1081ページ)となってしまった。
 毒気深入の一国謗法と化した時代に、いわば「敵前上陸」して、人々が智者としてよりどころとしている僧を「根源の悪」として責めるのです。「仏と魔王との合戦にも・をとるべからず」(313ページ)との原理のままに、三障四魔が激しく出来するのは必然です。
 その矢面に立つ日蓮大聖人と共に立ち上がっているのが、池上兄弟をはじめとする真正の弟子たちです。大聖人は、「正義」を弘める師弟の「共戦」をあらためて強く呼びかけられていると拝されます。


 弱気になって三障四魔に従ってしまうと、あっと言う間に三悪道に堕ちてしまいます。
 同じ法華経の天台宗でも獄卒になってしまうほど、小さな差ですが、結果は大きな差になるのです。

本文
今二人の人人は隠士と烈士とのごとし一もかけなば成ずべからず(中略)此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ、一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ末代悪世の女人の成仏の手本と成り給うべし、此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも日蓮が二聖二天十羅刹釈迦多宝に申して順次生に仏になしたてまつるべし

通解
 今、あなたがた二人の兄弟は、隠士と烈士のようである。一人でも欠けるならば、仏道を成就することはできない。(中略)
 この法門のためには、たとえ夫から害を受けるようなことがあっても後悔してはならない。御夫人がたが心を合せて夫の信心を諫めるならば、二人は竜女の跡を継ぎ、末法悪世の女性たちの成仏の手本となることであろう。このように振る舞われるならば、たとえどのようなことがあっても、日蓮が、二聖・二天・十羅刹女・釈迦・多宝に申し上げ、次の世には、かならず成仏の境涯を得させるであろう。

解説
 魔性と戦う信心の要諦は、「師弟不二」と「異体同心」です。
 魔は分断を企みます。今回の勘当事件も、父親が兄弟二人を同時に勘当するのであれば、親と子の信仰上の軋轢であり、誤解がとければ解決する問題であると言えます。しかし、兄を勘当して、弟に家督相続を誘惑する。この事件は明らかな離間策であり、まさに第六天の魔性の働き以外なにものでもありません。
 魔を打ち破ることのできるのは、「善の連帯」しかありません。
 さらに大聖人は、兄弟の夫人たちにも、勇気ある信心を貫き通すべきことを御指導されます。
 いざという時、女性の信心がどれほど大切か。深く拝すべき御文です。そのうえで、一家和楽の信心を築くにあたって、焦る必要は全くありません。ただ一人でも妙法を持つことは、家族・一族全員を照らす太陽が昇ったのと同じです。その功徳は、眷属全員に及びます。大切なのは、「全員を幸せにしてみせる」という祈りであり確信です。
 大聖人は、「物に随って物を随える身なり」(1088ページ)、「一同して夫の心をいさめば」と仰せられております。夫人たちが聡明に毅然たる信心を貫けば、魔を必ず破り、家族一同に成仏の大境涯をあらわすことができると励まされているのです。兄弟の父が遂に正法に帰依できた陰には、大聖人の御指導通りに振る舞う夫人たちの賢い支えがあったことも拝察されます。


 団結が大事と判っていても、馬が合わなかったりするでしょう。見栄やプライドが邪魔をするかもしれません。でも信心根本の団結の前には些細な事です。よくよく話し合いましょう。

2009/11/01  初級・3級教学試験 「兄弟抄」(下)その1

 池田名誉会長 御書講義

背景と大意
 本抄で、日蓮大聖人は、池上宗仲・宗長の兄弟に、「難を乗り越える信心」について教えられています。
 池上兄弟は、立宗宣言から3年後の建長8年(1256年)ごろ入信したと伝えられる草創からの門下です。しかし、父・康光は念仏の強信者で、極楽寺良観の信奉者でもあり、兄弟の信心に反対し続けました。
 良観は、幕府権力に取り入って、大聖人に迫害を加えていた黒幕でした。特に大聖人の身延入山後は、迫害の刃を大聖人の門下に向けていきます。
 本抄は、兄弟が入信してはぼ20年となる文永12年(1275年、異説もある)、父 ・ 康光が兄の宗仲を勘当したことを受けて送られた御書です。この勘当の背後にも良観の陰謀があったと考えられます。池上家は幕府の建設・土木関係を担う家柄であり、勘当されれば、こうした地位を引き継ぐ権利が奪われ、生活が根底から脅かされます。
 大聖人は、兄よりも、弟・宗長の信心が動揺することを心配され、さまざまな角度から激励されています。
 まず、難の本質について、第六天の魔王が取りついた悪知識が引き起こしたものであると述べられています。また、難にあうのは、過去世の謗法の重罪の報いを現世に軽く受けて消滅させるためであるという転重軽受の法門を説かれます。さらに、諸天善神が兄弟に試練を与えているのだ、と難の意義を教えられます。
 そして、紛然と競い起こる三障四魔と最後まで戦い抜く信心の大切さを訴えられ、兄弟と夫人たちが、信心の団結で一切を乗り越えていくよう渾身の励ましを送られています。
 こうして弟の宗長も、兄とともに信心を貫くことを決意し、兄弟は数年後、見事、父の入信を勝ち取るのです。(背景と大意は大白2005年2月号のものです)

本文
 されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし(中略)其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。

通解
 さて、天台大師の摩訶止観という書は、天台の生涯における大事であり、釈尊一代の教えの肝要を述べたものである。(中略)摩訶止観の第五巻に説かれる一念三千の法門は、もう一重深く立ち入った法門である。この法門を説く時には、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらないならば、正法であると知ることができない。
 摩訶止観の第五巻には「仏法の修行が進み、その理解が深まれば、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。…だが、この三障四魔に、決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、必ず人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」とある。この摩訶止観の釈は、日蓮の身に当てはまるばかりではなく、わが一門の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたる糧とすべきである。

解説
 大聖人は、大難に直面した池上兄弟に対する「兄弟抄」を結ぶにあたって、三障四魔の出現を説く「摩訶止観」の文を通して、断じて魔に破られてはならないと御指導されています。
 まず、大聖人は、天台大師の「摩訶止観」第五の巻を取り上げられ、「一念三千の法門」こそ仏教の肝心であることを示されます。
 「一念三千」とは、万人成仏を示す法華経の思想の真髄を、観心という生命変革の実践の指標として表現した法理です。
 天台大師は「摩訶止観」第五の巻の「正修止観」の章の冒頭で、いよいよ仏法の極理である一念三千法門を説き明かすにあたって、まず、三障四魔を恐れて退転してはならないとの警鐘を鳴らしています。この点に、大聖人は鋭く注目されます。
 すなわち「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」と仰せのように、正しい仏法の実践には必ず魔が出来する。その確信と覚悟のもとで敢然と魔を打ち破り、生命変革を勝ち取っていかなければならない。その真剣勝負の指標が、ここに説かれているのです。
 まず、「行解既に勤めぬれば」とあります。これは、経典に対する理解が深まり、その理解に基づいての修行が整った時、という意味です。すなわち、いよいよ生命変革のための本格的な修行に入る時だからこそ、三障四魔が競い起こる。
 次に、三障四魔は「紛然として競い起る」とあります。「紛然」とは、入り乱れているさま、ごたごたしているという意味です。まさしく「紛然として競い起る」とは、三障四魔が入り交じって争うように出てくるさまであるといえましょう。三障四魔は、不意を突き、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させる等、紛然たる策動を働かせてくる。
 この三障四魔に立ち向かう信心の要諦を、天台大師は明快に2点、挙げています。それが、「随う可らず」、そして「畏る可らず」です。魔に随えば、その人は悪道に引き落とされてしまう。魔を畏れれば、正法を修行することの妨げとなってしまう。
 結論を言えば、「智慧」と「勇気」が勝利への根幹です。魔に従わず、魔を魔と見破る「智慧」。魔を恐れず、魔に断固立ち向かっていく「勇気」。要するに、南無妙法蓮華経の唱題行が、魔を破る「智慧」と「勇気」の源泉となるのです。妙法の力用が、「無明」を即「法性」へ転じ、「難来るを以って安楽」(750ページ)と言う境涯を開いていくからです。
 三障四魔と戦うことで信心が磨かれるのです。それはあたかも、金山がますます輝き、大海がますます豊かになり、火がますます燃え盛り、求羅がますます大きくなるようなものです。法華経への強盛な信心こそ、変毒為薬の妙用をもたらします。「災い」を変じて「幸い」へと変えるのです。
 「法華経の行者は火と求羅との如し薪と風とは大難の如し」(1136ページ)、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(1448ページ)と仰せです。大難は、法華経の行者の生命を強くします。大難に雄々しく立ち向かってこそ、仏界の生命は、いやまして光り輝いていくのです。
 大聖人は、この「難即成仏」の軌道を示して、池上兄弟に最後まで戦う覚悟を促されていると拝されます。
 ありがたいことに、三障四魔と戦い、勝ち切っていく軌道は、師匠であられる御本仏・日蓮大聖人御自身が歩んでこられた道です。まさに「日蓮が身に当る」実践です。
 そして、師に続いて同じ栄光の大道を歩めと、池上兄弟に呼びかけられているのです。それが「日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり」との仰せです。
 また、池上兄弟が実践し、勝利した姿が、後に続く門下たちの未来永遠の手本となります。ゆえに「謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」と仰せられているのです。


 どんな人でも難のない人生はありません。三障四魔の難を受けきって乗り越えれば、その難は成仏になります。
 だれしも苦難は避けたいものですが避けられません、妙法を根本に勝ち切る要諦がここにあります。

本文
 此の釈に三障と申すは煩悩障業障報障なり、煩悩障と申すは貪瞋癡等によりて障礙出来すべし、業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし、又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し今日本国に我も止観を得たり我も止観を得たりと云う人人誰か三障四魔競へる人あるや

通解
 この釈にある「三障」というのは、煩悩障・業障・報障のことである。煩悩障というのは、貪・瞋・痴などによって妨げが現れるのである。業障というのは、妻子らによって妨げが現れるのである。報障というのは、国主や父母らによって妨げが現れるのである。
 また、「四魔」のなかで天子魔というのも同様である。今の日本国で、「私も止観を体得した」「私も止観を体得した」と言っている人々のなかで、いったいだれに、三障四魔が競い起こっているであろうか。

解説
 続けて大聖人は、池上兄弟のために、三障四魔の具体的な姿を教えておられます。
 そして、現実に三障四魔と戦い続ける大聖人と門下だけが、真の正法実践の継承者であることを明かされます。
 大聖人は本抄において、業障を「妻子による妨げ」、報障を「国主父母による妨げ」というように、具体的に示されています。これは現実に池上兄弟が直面している事態に即して明瞭に言われたものであると拝されます。
 ただし、ここで確認しておかなければならないことは、妻子や国主・父母が信仰の妨害をすることは、あくまで自身の信心を妨げる「悪縁」にすぎません。退転してしまうかどうかは、自分自身の心の問題です。妻子・国主・父母そのものが絶対的な悪の存在だということなどではありません。自身が勝利すれば一切が善知識となります。さらに言えば、自分自身を変革することで、他者の生命を変革していくことも可能になるのです。
 経論によって種々の魔が説かれますが、「大智度論」等では、煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔の四魔が挙げられています。「煩悩魔」とは、煩悩が衆生の心を悩乱し智慧の命を奪うことです。「陰魔」とは、五陰(肉体や心)の不調和から心に懊悩(おうのう)が生じて信心を破壊することで、病魔なども含みます。「死魔」は、修行者自身の生命が奪われることと、修行者の死によって周囲の者が信心に疑いを生ずることです。そして「天子魔」は他化自在天子魔、すなわち第六天の魔王による信心の破壊です。
 ここで、大聖人は四魔のうち天子魔のみを取り上げられています。これは池上兄弟が現実に直面している課題にかかわる点に絞られたゆえであると拝されます。
 ここでは、この三障四魔を起して、打ち破ることができるのは、日蓮大聖人及び大聖人門下しかいないことを強調されていきます。
 創価教育学会の第5回総会(昭和17年11月)で、牧口先生は「兄弟抄」のこの一節を引かれ、このように師子吼されました。
 「従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい」
 「魔が起こらないで、人を指導しているのは『悪道に人をつかはす獄卒』でないか。しからば、魔が起こるか起こらないかで、信者と行者の区別がわかるではないか。
 自分の一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起こらない。これに反して、菩薩行という大善生活をやれば、必ず魔が起こる」
 「我々は、蓮華が泥中よりぬけ出でて清浄の身をたもつがごとく、小善中善の謗法者の中に敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているようなものであれば、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるがゆえに行者といわれるのである」
 一生成仏そして広宣流布という大利益のため、身命を賭して三障四魔との戦いに挑む人こそ、真の「行者」です。そして、わが学会員の皆様こそ、現代における誉れの「行者」なのです。


 我々学会員はむしろ難を競い起して行くのです。大変と思うかもしれませんが、そこが大事なのです。臆病な勇者はいません。人生の勇者になりましょう。