2010/11/21  2010年度任用試験 まとめ

 いよいよ後、一週間になりました。
 今回の任用試験は今までと比べ、細かいかも知れません。
 年号や仏法用語が難しく、混乱するかも知れませんが、解らない時は『声に出して大白蓮華を読む』と良いです。
 黙読よりも音読の方が記憶力理解力が発揮出来ます。
 また、脳の血流を増やすのも効果的なので、半身浴しながらとかも効果があるそうです。
 (なんならその場でスクワットして血流上げるのも良いよ。)

 要点
 宝塔とは?
 まことの時とは?
 大願とは?
 国主諫暁は誰にした?
 三災七難とは?
 龍口の法難の経緯
 人本尊開顕の書とは?
 法本尊開顕の書とは?
 大聖人の出世の本懐は?
 大聖人は誰に付属された?
 十界を全て言える?
 「成とは開く義なり」ってどういう意味?
 三証を全て言える?
 五重相対を全て言える?
 種脱相対の「種」って何?
 「信行学」基本は何?
 地涌の菩薩って何?
 三障四魔全て言える?
 三類の強敵で一番手強いのは?
 転重軽受の読み下しは言える?
 願兼於業を池田先生は判りやすく「宿命を□□に変える」と示している?
 「御みやづかい」今日の私たちでは何にあたる?
 「人の振る舞い」とは「人を○○」の行動?
 3代会長の足跡は何?
 日顕宗をなぜ責めるのか?

 これらにすらすら答えられたら大丈夫。
 時間が無くて記事のアップが遅れてすみませんでした。
 今回も練習問題を作りたかったのですが、時間が取れないのでゴメンナサイ。
 時間が出来たら、アップします。時間革命しなくちゃ(^^;

2010/11/21  2010年度任用試験 「日顕宗を破す」

 世界広布と創価学会「日顕宗を破す」

2.日顕宗を破す
 ここでは、広宣流布を妨害しようとする魔性を現した日顕宗(前法主の日顕によって邪教と化した日蓮正宗宗門のこと)の邪義を明らかにし、破折を学びます。

悪と戦う
 日蓮大聖人は立正安国論で、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(24ページ、通解──災難を根絶するには、かの千万の祈りを修めるよりは、この一凶を禁じなければならない)と仰せです。仏法を正しく実践するうえで大事なことは、成仏を妨げる悪縁となる「一凶」と戦い抜いていくことです。
 また、「いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」(1494ページ、通解──どのような大善をつくり、法華経を千万部も読み、書き写し、一念三千の修行を成就した人であっても、法華経の敵を責めなければ、仏道を得ることはできないのである)とある通り、日蓮大聖人は、どんなに仏道修行を重ねても、「法華経の敵」を責めなければ成仏することはできないと仰せです。
(略)
 すなわち現代の「一凶」「法華経の敵」謗法(正法を謗ること)の法主・日顕であり、日顕及びその後継者が支配する現宗門「日顕宗」にほかな恥りません。
(略)

宗門事件の経過
 日蓮大聖人の広宣流布の精神と実践は日興上人に正しく継承されました。しかし、時代が経るごとに、日蓮正宗宗門では、そうした精神と実践が形骸化して「葬式仏教」と化し、僧侶の権威化が進み、僧俗の差別が行われるようになってしまいました。創価学会が創立されるころには、まさに法滅という状況でした。
 創立以来、広宣流布の実現を目指す大願を貫いてきた創価学会は、宗門に対して正すべきは正しながら、宗門を支えてきました。戦後、宗門が経済的に疲弊していた時から赤誠の真心で宗門を守り、350以上もの寺院を建立して寄進してきました。
(略)
 ところが、日顕が法主になって以来、広宣流布のために宗門を支えていこうとする学会の誠意を踏みにじって僧侶が宗教的権威をふるう信徒蔑視の体質が一層強まりました。"僧侶が上で在家の信徒は下"と見下す日顕は、世界宗教へと飛躍する創価学会と、その指導者であり、各界から賞讃される池田名脊会長への嫉妬に狂い、これまで宗門を護り支えてきた学会を破壊しようと画策したのです。
 平成2年(1990年)、日顕は、学会を切り捨てて一部の会員信徒を宗門に隷属させるために、「創価学会分離作戦」(C作戦)という陰謀を企て、実行に移しました。すなわち、同年12月、宗門は宗規(宗門の規約)を一方的に変更し、池田名誉会長に対して、法華講(宗門の信徒団体)総講頭の役職罷免を通告してきたのです。
(略)

日顕宗の大罪と邪義
 日顕宗では法主を絶対とする、誤った法主信仰を根幹としています。その前提として、法主だけに流れ通う"神秘的"な血脈があるなどとします。そうした考えを生む根本には、信徒蔑視の体質があります。
(略)

①広布破壊の謗法
 広宣流布の団体・学会を破壊しようと、C作戦を推進していた日顕宗は、平成3年(1991年)11月、学会に「破門通告書」を送ってきました。そこには御書の引用もなく、学会を破門する教義上の根拠も全く示されていませんでした。単に"学会が宗門に服従しないから"という権威的・感情的な主張が繰り返されていたに過ぎません。
 「大願とは法華弘通なり」(736ページ)、「広宣流布の大願」(1337ページ)と仰せのように、広宣流布は日蓮大聖人の御遺命です。
(略)

②法主信仰の邪義
 日顕宗が終始、主張しているのは"法主は絶対であるから、ともかく法主に従え"という「法主絶対論」「法主信仰」です。
 法主が絶対であるなどという教義は、大聖人の御言にも日輿上人の御教示にも一切なく、完全に大聖人の教えから逸脱した「邪義」です。
 日興上人は日興遺誠置文で「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(1618ページ、通解──たとえ、時の貰首であっても、仏法に背いて、勝手な自説を立てた場合には、これを用いてはならない)と、仏法に背いた法主を用いてはならないと戒められています。この戒め自体が法主絶対論を否定しています。

③誤った血脈観
 日顕宗では前の法主から相承を受けるだけで、仏の悟りが次の法主に伝えられるという神秘的な血脈観を主張しています。
 しかし、このような血脈観も日蓮大聖人や日興上人の教えとは全く関係のない「邪義」に過ぎません。
 大聖人が生死一大事血脈抄で「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(1337ページ、通解──日本国の一切衆生に法華経を信じさせて、仏に成る血脈を継がせようとしている)と仰せのように、本来、血脈とは万人に開かれたものであり、一部の人だけが独占するものではありません。
 同抄で「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(1338ページ、通解──信心の血脈がなければ、法華経を持っていても功徳はないのである)と仰せのように、血脈の本質は信心であり、血脈とは正しい信心の異名にほかなりません。
(略)

④僧俗差別
 日顕宗は、"僧侶が上で在家は下""僧侶が師で在家は弟子"などと主張し、僧侶と在家を露骨に差別しています。
 しかし、日蓮大聖人は「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ」(1134ページ、通解──この世の中で法華経を持つ者は、男女・僧尼を問わず、一切衆生の主に当たると、仏は御覧になっているであろう)と僧俗平等こそ本来の僧俗関係であることを示されています。
(略)

⑤化儀の悪用
 日顕宗の大罪の一つとして、葬儀、法要、戒名、塔婆などの化儀を悪用し、仏法を金儲けの道具にしてきたことが挙げられます。
 現在、宗門が行っているような僧侶による葬儀、法要、戒名などの化儀は、大聖人御自身が定められたものではなく、後の時代に作られたものに過ぎません。宗門は僧侶による葬儀が成仏のために不可欠であるなどと主張していますが、そのようなことを大聖人は一切言われていません。
 むしろ、「過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり」(1423ページ、通解──過去の慈父尊霊は、存命中に南無妙法蓮華経を唱えたのですから、即身成仏の人なのです)等と仰せのように、各人の成仏は生前の信心・実践によることを強調されています。大聖人の御教示を無視して、僧侶による葬儀が成仏のために不可欠である、などと言うこと自体、大聖人の仏法を歪める大罪となるのです。

⑥腐敗堕落
 大聖人は僧侶の在り方について「但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」(1056ページ、通解──ただ正法に対して素直で、少欲知足である僧こそが真実の僧である)と、欲望が少なく、わずかで満足する質素な振る舞いであるべきことを示されています。
 しかし、日顕をはじめ日顕宗の悪僧の実態は腐敗堕落を極め、大聖人の御教示とは全く逆のものになっています。
 大聖人は、こうした仏法利用の悪僧について「法師の皮を箸たる畜生」(1386ページ)、「食法がき(餓鬼)」(1111ページ)と厳しく破折されています。
 ◇
(略)
 その正邪はあまりにも明らかであり、大聖人の御遺命である広宣流布を実践する学会にこそ、日蓮仏法の本義は脈々と受け継がれているのです。
 私たちは、日顕宗の悪を断固、打ち破り、さらに世界広布の大きな流れを開いていきましょう。
 日顕宗を破すは設問こそ少ないですが、大事な部分です。
 6つの大罪を覚えるのは大変ですので、最低2つは覚えましょう。
 「スポーツカー持って豪邸に住んでる坊主が、葬式で僧侶が偉くて信徒は服従するんだと説法して、お金儲けしていた。それに従わない創価学会が気に入らないから破門した。『えっ、なんで破門すんの?』ってつっこまれたから、苦し紛れに法主は絶対なんだ。答えて宗門2%まで衰退。」とでも覚えましょう。(笑)

2010/11/21  2010年度任用試験 「創価学会の歴史」

 世界広布と創価学会「創価学会の歴史」

1.創価学会の歴史
(略)
 この地涌の菩薩の棟梁たる上行菩薩の使命を自覚し、法華経に示された広宣流布の仏意仏勅を自身の大願として、その実現のために立ち上がり、末法の衆生と時代を救済していく根本法と実践を確立された末法の御本仏が日蓮大聖人です。
 そして、現代において、大聖人の御精神を継承して、世界広宣流布の使命を深く自覚し、その実現のために真剣な実践を貫いてきた教団が創価学会です。また、現代における広宣流布の自覚と実践を確立してきた指導者が、牧口常三郎初代会長・戸田城聖第2代会長・池田大作第3代会長(現・名誉会長、SGI会長)の「三代会長」です。
 ここでは、広宣流布に生き抜いた三代会長の足跡、並びにそこに流れ通う師弟の精神を通して、創価学会の歴史を学びます。

牧口常三郎 初代会長の時代
 創価学会の淵源は、牧口常三郎初代会長と戸田城聖第2代会長の師弟に求められます。
 牧口先生と戸田先生は、ともに教育者でした。
(略)
 昭和5年(1930年)11月18日、牧口先生は『創価教育学体系』第1巻を発刊しました。この書は、牧口先生が構築された教育学の体系をとどめるもので全12巻が予定されていました。弟子である戸田先生が私財をなげうって出版を支え、また、牧口先生の教育理論のメモを整理・結集するなど全面的に協力しています。また、その奥付には、著者である牧口先生、発行兼印刷者である戸田先生の名前とともに、発行所として創価学会の前身となる「創価教育学会」の名が記されています。そこで、同書が発行された11月18日をもって、創価学会の創立記念日としています。
 「創価」とは「価値創造」の意味です。教育の目的、そして人生の目的は幸福の追求にあり、その内実は価値の創造であるという牧口先生の思想が込められ言葉です。
(略)
 当時、政府は神社参拝や神札を祭ることを国民に強要していました。昭和18年(1943年)6月、学会は権力の弾圧を恐れた宗門から「神札を受けるように」と言い渡されました。この宗門の態度は、謗法(正法を謗ること)容認の行為であり、日蓮大聖人、日興上人の教えに背くものでした。これに対して、学会は日蓮大聖人が示された謗法厳誡の教えを貫き、神札の受け取りを拒否しました。
 同年7月6日、牧口先生は地方折伏で訪れていた伊豆・下田で、同日、戸田先生は東京で、特高刑事に連行され、最終的に21人の幹部が逮捕されました。不敬罪と治安維持法違反容疑が、逮捕の理由でした。厳しい取肺リ調べのなかで、最後まで退転することなく信仰を貫き通したのは牧口先生と戸田先生の師弟だけでした。

戸田先生の獄中の悟達
 牧口先生は、取り調べに当たった検事や判事にも日蓮大聖人の仏法の教義を説きました。権力の弾圧に屈せず、仏法の正義を貫き通したのです。
 昭和19年(1944年)11月18日、牧口先生は、老衰と栄養失調のため、東京拘置所内で逝去しました。奇しくも「創立記念日」と同日に満73歳で殉教したのです。その生涯は、まさに御書に仰せの通りに不惜身命の実践を貫き、日蓮大聖人の民衆救済と妙法弘通の御精神を現代に蘇らせた尊い先駆の一生でした。
 戸田先生は、昭和19年初頭から、獄中で唱題に励むとともに、法華経を読み、思索していきました。そのなかで「仏とは生命である」との悟達を得ました。
 さらに唱題と思索を重ねていったとき、戸田先生は自身がまさに、法華経に説かれる虚空会の儀式で、釈尊の滅後に法華経を広宣流布していく使命を託された地涌の菩薩にほかならないことを悟り、「われ地涌の菩薩なり」との確信を得ました。昭和19年11月のことです。
 戸田先生は、この獄中の悟達で、日蓮大聖人の仏法への確信を不動のものとするとともに、広宣流布を自らの使命として自覚しました。戸田先生のこの「獄中の悟達」が戦後の創価学会発展の原点となりました。
(略)

第2代会長就任
 昭和26年(1951年)5月3日、苦境を勝ち越えた戸田先生は、多くの会員の推戴を受けて、第2代会長に就任します。そのあいさつで、75万世帯の折伏を達成するとの誓願を宣言しました。当時の学会員は実質約3000人。誰もが信じられない弘教の目標でした。
 そして、戸田先生は、会長就任に前後して広宣流布への布陣を整えます。
 会長就任直前の4月20日には機関紙「聖教新聞」が創刊され、戸田先生はその創刊号から、小説「人間革命」を執筆しました。
 「人間革命」とは、日蓮大聖人の仏法の実践によって、各自が自身の生命境涯を変革し、全人類の宿命転換を成し遂げていくことを意味しています。戸田先生は、生命論を基盤とする人間革命の理念を掲げ、日蓮大聖人の仏法を現代に蘇生させたのです。
(略)

池田大作 第3代会長SGI会長の時代
 戸田先生の逝去後、ただ一人の総務として実質的に学会の運営を担っていた池田先生は、昭和35年(1960年)5月3日に第3代会長に就任しました。
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して化儀の広宣流布をめざし、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」──戸閉先生の時と同じ「5・3」に行われた会長就任式における、池田先生のこの第一声の師子吼から、学会の新たな大前進が始まりました。
 昭和35年10月2日には南北アメリカへ出発。世界広布の第一歩を踏み出しました。翌36年(1961年)1月には香港、インドなどアジアを初訪問。同年10月にもヨーロッパを訪問するなど、世界広布の布石を打っていきます。日蓮大聖人が示された「仏法西還」「一閻浮提広宣流布」の本格的な第一歩が、池田先生によって印されたのです。
(略)
 今日、世界では192カ国・地域で学会員が喜々として日蓮大聖人の仏法を実践しています。
 各国のSGIでは仏法の人間主義の精神を基調に地道な社会貢献に取り組んでおり、各種展示など地域社会に根ざした活動を通して、大きな信頼と賞讃を受けています。
 創価学会の実践によって、日蓮大聖人の仏法は、いまや人類全体を照らす希望の光となっているのです。
 創価学会の歴史は範囲が広いので、覚えるのが大変だと思います。
 要点だけでも覚えましょう。
 牧口先生…創価教育学体系の発刊、謗法厳誡を貫かれた、殉教。
 戸田先生…獄中の悟達、75万世帯の折伏、御書発刊、学会組織各部の結成
 池田先生…世界広布の布石、文明間交流、識者指導者との対話、文化運動、教育機関の設立、牧口先生戸田先生の宣揚など。

 追記
 大白蓮華テキストでは「会長勇退」の言及がないので、斧節のhttp://d.hatena.ne.jp/sokaodo/19940424/p1「聞き書き4・24」へリンクしておきます。
 重要な部分なので、よく読んで下さいね。

2010/11/21  2010年度任用試験 教学入門「信心と生活」

 教学入門「信心と生活」

8.信心と生活
 日蓮大聖人の仏法は、現実の人生の中で「崩れざる幸福境涯」を築いていくための信仰です。そのためには日々の生活の中で信心の実践を積み重ねていくことが重要な意味をもってきます。信心は自らの生命の鍛錬にほかならないからです。(略)

信心即生活
(略)
 御書には「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(1295ページ)とあります。この御言をいただいた人にとって「御みやづかい」とは主君等に仕えることですが、今日の私たちの立場にあてはめれば、職業・仕事・生活にあたります。
(略)
 以上のように、大聖人の仏法においては信心と生活は一体です。ゆえに、創価学会の指導には、「信心即生活」といって、生活はその人の信心の表れであるととらえて、信頼される社会人として、生活に勝利していくべきことを説いています。

人の振る舞い
 仏法は「人間としての勝利」を教えた宗教です。
 日蓮大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174ページ)と仰せです。
 釈尊が仏法を説いたその根本の目的(釈尊の出世の本懐)は、特別なことではなく、人間としてどう生きるべきかを示すことにあったとの仰せです。
(略)
 最高の「人の振る舞い」とは、「人を敬う」行動です。すなわち、万人の生命の中に仏の生命があると捉えて、その仏の生命を尊重し、万人を敬っていく行動です。根本は、万人を仏にしていこうとする誓願の生き方です。具体的には、目の前の「一人」の人間を大切にしていく実践となって表れます。
 法華経では、万人の中に秘められている仏の生命を敬い、あらゆる人を礼拝していく、不軽菩薩の実践が説かれます。その人自身が自分の仏界をまだ自覚していなくとも、生命の可能性としては誰人も仏の生命をもっています。したがって、万人を「仏子(仏の子)」として尊重していく生命尊厳、万人平等こそが、仏法の精神となります。また、それゆえに、仏法から暴力は生まれません。社会にあっては、万人尊重の原理から、対話をもって社会の変革を実現していこうとするのが日蓮大聖人の仏法です。
(略)
 信仰を非日常にしても自己変革も、周囲の変革もありません。
 人生は他人からの評価の為に生きて行く訳ではありません。
 が、「他人からどう思われても、オレは関係ない、好きな様に生きるんだ」では、薄っぺらい幸せしか手に入りません。
 最高の人生を築き、一家和楽と浄土を構築するには、「目の前の一人(他人)を幸せにする行動」が第一歩です。
 しかし、自分の為でなく他人の為にする行動ならば、そこは「どう思われても関係ない」のです。
 一時的には「不当な評価」や「無評価」があるかも知れませんが、いつかは何倍もの福徳となって返って来ます。
 池田先生は、常に「誠実に」と仰しゃられています。
 善の連帯を広げ、人を軽視する悪を滅する実践が日常での信仰の姿です。