2008/12/23  還著於本人(げんじゃくおほんにん)

還著於本人とは、法華経観世音菩薩普門品第二十五の偈の文、「還(かえ)って本人に著(つ)きなん」と読む。

宗教の祈りによって身を害せられようとした者も、正法を信ずれば少しも害を受けず、還って反対に祈った本人が大罰をまねくということである。
すなわち末法の法華経の行者、御本尊を持つ者を謗り害そうとする者はかえって、自らの身にそれを受けることになる。

日蓮大聖人は、承久の乱の時に朝廷方が真言のあらゆる邪法を用いて鎌倉方を祈祷調伏したが、反対になにも祈りをかけなかった鎌倉方に、さんざんに敗れた。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流され、討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。
また真言の僧等は切られたことを、還著於本人の見本として御書に引かれている。
種種御振舞御書
弘法大師の邪義慈覚大師智証大師の僻見をまことと思いて叡山東寺園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ、武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ(P921)
兵衛志殿御書
人王八十二三四隠岐の法皇阿波の院佐渡の院当今已上四人座主慈円僧正御室三井等の四十余人の高僧等をもて平の将軍義時を調伏し給う程に又還著於本人とて上の四王島島に放たれ給いき(P1095)
それに真言の邪法をもって蒙古調伏等を行なえば、かえって日本の国が滅びると仰せられ真言宗を徹底的に破折されている。
下山御消息
而るを今大蒙古国を調伏する公家武家の日記を見るに或は五大尊或は七仏薬師或は仏眼或は金輪等云云、此れ等の小法は大災を消すべしや還著於本人と成りて国忽に亡びなんとす(P363)

日蓮大聖人を害そうとした東条景信や、平左衛門尉等が、あるいは落馬し、あるいは謀叛の罪によって斬殺された等、四条金吾殿を主君に讒言して失脚させようとした同僚らが、後に追放され、四条金吾殿は三倍の加増を賜った事は、還著於本人と言える。

随筆「人間世紀の光」 声仏事を為す
 アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンは洞察した。
 「胸奥(きょうおう)より湧き出(い)でたる温かき言葉は、予(よ)を富裕ならしめる」
 人に誠実な声をかければ、それだけ自分の生命が豊かになり、弾んでいくものだ。
 いわんや、広宣流布のために語った声は、大宇宙の妙(たえ)なる常楽我浄の律動に融合しながら、わが生命に歓喜の谺(こだま)となって戻ってくるのである。
 反対に、「おごれる者たちの驕慢(きょうまん)な言葉はおそろしい不幸の報酬を受ける」とは、フランスの女性思想家シモーヌ・ベーユが書き留めたギリシャ悲劇の一節であった。
 思い上がって、正法正義(しょうほうしょうぎ)の人に浴びせた誹謗の言葉は、必ず自分自身に還(かえ)ってくる――法華経に説かれる「還著於本人(げんじゃくおほんにん)」(還(かえ)って本人に著(つ)きなん)の原理である。
 なかんずく人生の総決算の時に、因果の理法の上から、容赦なく断罪される。
 日寛上人の「臨終用心抄」には――
 「他人を譏(そし)り、その心を傷つけてきた者は、それが因となって、臨終のさい、全身の各所を鋭い刀で刺し刻まれるような断末魔の苦しみを受けずにはおられない」(趣意)と峻厳(しゅんげん)に説かれている。

日蓮大聖人の仏法を実践する我々は、人から怨嫉嫉妬され、悪口罵詈されようとも諸天の加護を得て、還って怨嫉嫉妬し、謗った本人が害を受ける。
また仏法は道理ですから、人生の晩年に全ての結果が出てくると池田先生も仰せです。
「誠実に、着実に」とよく池田先生は言われる。その短い言葉に人生の指針が込められている。