2009/01/19  十界と十界互具

十界

五重の相対が開目抄で明かされた日蓮仏法の根幹であるとすれば、この十界論は、三大秘法と共に、観心本尊抄(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)で展開されたという意味で、やはり、日蓮仏法の根幹であるといえます。
また、五重の相対も十界論と密接に関連しています。

一念三千論を学習する前提となるのも、十界論です。法華経の智慧でも池田先生が縦横に展開されておられますが、この十界論こそが、折伏の際に最も有効な武器となります。
ですから、十界論についてはいくらでも論じることができるのですが、ともかくまずは十界をすらすら言えるように。

十界とは
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界
のことです。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏
『じごく・がき・ちくしょう・しゅら・にん・てん・しょうもん・えんかく・ぼさつ・ぶつ』という感じですらすら言える様になりましょう。

十界というのは、一瞬一瞬の生命の状態を十種類のカテゴリに分類したものです。
それでは、生命の状態というのは十種類しかないのかというと、そういうわけでもないのですが、仮に十種類に分類すると、このようになるということだと思ってください。

「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」を六道(ろくどう)といいます。
そして、「声聞、縁覚、菩薩、仏」を四聖(しせい)といいます。


六道輪廻
もともとは仏教以前のバラモン教で六種類に分類していたものを、内外相対する中で、四聖が成立したのが十界論です。
その際注意すべきは、もともと六道というのは、生命の一瞬一瞬の状態のことをさす言葉ではなく、生まれた時に決まるものでした。
つまり、地獄界に生まれたら一生地獄界、修羅界に生まれたら一生修羅界だったのです。そして、生まれ変わる度に、その時の行いによって、次に生まれる生命の状態が決まるわけです。これを六道輪廻といいます。

仏教においても、法華経が説かれる前は、そのように捉えられていたのです。
ですから、仏界といえば釈尊だけの事だったのです。
畜生界に生まれたら、絶対に一生の内には成仏できなかったのです。
浄土宗で、死んでから、極楽浄土に行くとか仏に成るとかいうのは、その影響です。
それに対し、日蓮大聖人は、六道について、
観心本尊抄
瞋(いか)るは地獄・貪(むさぼ)るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・諂曲(てんごく)なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり(P241)
といわれており、生命の一瞬一瞬の状態として捉えているのです。

まず、地獄、餓鬼、畜生でひとかたまりとして覚えましょう。
『じごく・がき・ちくしょう』

この地獄、餓鬼、畜生をまとめて「三悪道(さんあくどう)」といいます。「瞋(いか)るは地獄・貪(むさぼ)るは餓鬼・癡(おろか)は畜生」ですから、「貪瞋癡(とんじんち)の煩悩」に振り回される境涯です。
そこに修羅界を含めて「四悪趣(しあくしゅ)」といいます。


地獄界が一番低い境涯であることはすぐに判りますが、餓鬼、畜生、修羅は区別しにくいのでしっかりと覚えてください。
「生きること自体が苦しく辛いのが地獄界」
「欲望の奴隷が餓鬼界」
「本能のままに生き忘恩の畜生界」
「慢心があり攻撃的なのが修羅界」

畜生界については、
佐渡御書
畜生の心は弱きをおどし強気をおそる(P957)
という御文は有名です。
修羅界については「諂曲(てんごく)なるは修羅」といわれていますが、へつらい曲っている心が修羅界であり、本心を見せずに相手に媚びへつらい、内心は自分が優れ相手が劣っていると思うのです。
煩悩や本能には振り回されないので、畜生界よりは優れています。

『じごく・がき・ちくしょう・しゅら』まで覚えたら、次は、人界天界です。
『にん・てん』で、ひとかたまりにして覚えましょう。

全ての生命から見た時、私達はすべて人界です。
崇峻天皇御書
賢きを人と云いはかなきを畜といふ(P1174)
とあるように、物事の善悪を判断する力があります。
「平らかなるは人」と言われています。

天界とは、天、つまり神々の世界のことです。
満たされた満足の状態が天界です。「喜ぶは天」と言われています。
満たされる欲望にもいろいろな種類がありますので、それによって、天界も区別されるのですが、欲望を満たされた頂点の生命状態を「第六天の魔王」といいます。

欲望を満たされた喜びというものははかないものです。
これを「天人五衰(てんにんごすい)」といいます。天界は喜びがあります。
キリスト教などの他宗で神への祈りに喜びがあるのも、この天界の状態です。
しかし、生命の因果を知らず、生老病死という根本的苦悩を解決してはいません。
ですから、仏教以外の宗教では天界までにしか至れないのです。

環境に左右される人生なのです。

環境に左右されない永遠に崩れない幸福を仏道修行によって獲得しようというのが、「声聞、縁覚、菩薩、仏」の四聖です。だから内外相対されるのです。

繰り返します『じごく・がき・ちくしょう・しゅら・にん・てん』
ここまでが六道です。


四聖
声聞界・縁覚界は小乗教で得られる境涯です。「二乗(にじょう)」といいます。仏の声を聞くのが声聞界、事象を縁として無常を覚るのが縁覚界です。
『しょうもん・えんかく』が二乗であると、一括りで覚えるとよいでしょう。

無常に囚われ煩悩に苦しむのが「六道」で、無常を悟り煩悩を滅しようとするのが「二乗」です。自分の悟りに囚われ自分中心の利己(エゴイズム)が二乗(小乗)です。だから大小相対されるのです。

菩薩界は仏の悟りを求める「求道」と他者にも悟りを伝えようとする「利他」の実践があります。
利己が「二乗」であるのに対し利他が「菩薩」です。
「菩薩界の根本は慈悲」です。大乗仏教で得られる境涯であるともいえます。
しかし、仏の生命も自身の生命に備わる事が説かれていない。
利他を強調し利己の二乗を否定しました。十界互具がわからない。だから、権実相対されるのです。

日蓮大聖人は
観心本尊抄
世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり(P241)
といわれ、十界が互具していること。
人界にも二乗界が備わり、三悪道にも菩薩界が備わることを判りやすく示されています。

仏界は仏の境涯です。
宇宙と生命を貫く根源の法を悟った人のことです。釈尊、多宝如来、日蓮大聖人は仏です。
宇宙には本来、仏界の生命が備わり、九界の衆生の生命にも仏界が備わるのですが、それを悟るのが仏界であり、迷うのが衆生です。
「本来すべての生命に仏界の生命がある」といっても、宇宙を貫き三世永遠に仏界があることを示していないので、本迹相対され、三世永遠に仏の生命があるといっても、どうやれば仏の生命を現実にあらわすかの方法が説かれていないので、種脱相対されるのです。

仏といっても日蓮大聖人は凡夫の姿です。これは全ての衆生が仏になれる事を示す為なのです。

仏の生命を、弘安二年十月十二日に一閻浮提総与の大御本尊として御図顕されたのも、永遠に全世界の衆生を仏の境涯に悟らせるためです。御本尊に唱題すれば、仏界は現れます。
「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人)なのです。
法華経を信じることは誰にでもできるのです。絶対的な幸福境涯になれます。

整理しますと、このようになります。

三悪道  地獄界、餓鬼界、畜生界
四悪趣  地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界
六道   地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界
四聖   声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界
二乗   声聞界、縁覚界

参考
三乗   声聞界、縁覚界、菩薩界
一仏乗  仏界


十界互具(じゅっかいごぐ)
法華経において初めて、一人の人間の生命に十界が全て含まれている事が証されました。
つまり、爾前経(にぜんきょう、法華経より前)までは、修羅界に生まれた人は一生修羅界であったのですが、その修羅界の人でも、仏界があるということを示したのです。
十界の生命の中に十界が具わっているので十界互具といいます。
十界互具が明かされたからこそ、私たちは、現世の凡夫のままでも仏の境涯を開ける可能性があることが証明されたのです。
どんな境遇に悩んでいる人でも仏界を開ける可能性があることが明らかになったのです。
ここにきてはじめて、生命が本質的に平等であるという法華経の真髄にいたるのです。
王も庶民も、僧も俗も、すべての生命は本質的に平等なのです。聖職者にも特権などないのです。


つまり間断ない悩み苦しみにさいなまれている人(地獄界の人)でも、地獄界から仏界までの生命状態を備えている。
善人の仮面をかぶってはいるが内実は自分の事しか考えていない人(修羅界)も、地獄界から仏界までの生命状態を備えている。
この法理によって、現在どんな境涯にある人でも、そのままの姿で仏界を現す(成仏する)ことができることが明かされた。十界互具とは「境涯革命」の法理である。

2009/01/13  三障四魔

この信心をしていれば「三障四魔」が起ります。
逆に言うと『起らなければ』信心がないと言う事。
兄弟抄
此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。(P1087)
有名な御文です。
特に『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る』という天台大師の言葉は有名です。

魔は「紛然」として顕れるのです。紛らわしいのです。
「まさか?」と思う所に魔はつけ入ります。
また、魔が顕れるのは、「此の法門を申す」時、「行解既に勤め」た時、信心が深まった時なのです。


三障
信心の実践を妨げる働きの事、障害です。信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げる働きをいいます。
煩悩障、業障、報障の3つです。

兄弟抄
三障と申すは煩悩障(ぼんのうしょう)・業障(ごうしょう)・報障(ほうしょう)なり、煩悩障と申すは貪瞋癡(とんじんち)等によりて障礙(しょうげ)出来すべし、業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし、又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し(P1088)

・煩悩障とは、餓鬼・修羅・畜生などの三毒(貧り、瞋り、癡)などの自身の煩悩が信心修行の妨げとなることをいいます。

・業障とは、五逆罪や十悪業などによって自身の生命に刻まれた悪業が信仰を妨げるものです。この御文では具体的に妻子等の身近な存在によって起こるとされています。

・報障とは、地獄・餓鬼・畜生等の三悪道や誹謗正法等の報いとして起こってくる障りをいいます。この御文では国主・父母等、自分が従わなければならない存在によって起こるとされています。


四魔
四魔の「魔」とは、能奪命者(のうだつみょうしゃ)、殺者(さつしゃ)、破壊(はえ)などと訳されるように、信心修行者の生命の内側から、妙法の当体としての生命の輝きを奪う働きをいいます。

四魔とは陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つです。
・陰魔とは五陰が魔によって冒されること。五陰とは、五感だと思ってください。体調不良によって信心活動を妨げることです。
・煩悩魔とは貪瞋癡、つまり本能的欲求に振り回されて信心が破壊されること。
・死魔とは、修行者の生命を断つことによって修行を妨げようとすることです。また、他の修行者等の死によって信心に疑いを生ずることも死魔に負けた姿といえるでしょう。
・天子魔とは、他化自在天子魔(たけじざいてんしま)の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による働きであり、最も本源的な魔です。

大聖人は
治病大小権実違目
元品(がんぽん)の無明(むみょう)は第六天の魔王と顕(あら)われたり(P997)
と仰せです。
すなわち、この魔は、生命の根本的な迷いから起こるものであり、権力者等の身に入るなど、あらゆる力をもって修行者に迫害を加えてきます。


兵衛志殿御返事
しおのひると・みつと月の出(い)づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違(そうい)する事あり凡夫(ぼんぷ)の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者(けんじゃ)は喜び愚者(ぐしゃ)は退(しりぞ)くこれなり(P1091)
季節の変わり目のように、変化するときには、必ずいつもと違うことが起きる。凡夫が仏になる時も、三障四魔が顕れるのは道理です。
「賢者は喜び愚者は退く」は特に大事な御金言です。だから、勇気が大切なのです。