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2009/02/21  わが勇気ある永遠の同志に贈る

池田先生、連日の長編詩
わが勇気(ゆうき)ある永遠(えいえん)同志(とも)(おく) 山本 伸一

青春は前進だ!
人生は勝利だ!


君よ
青春は前進だ!
前に進むのだ。
前進するのだ。
汝自身を鍛えながら
強い人間になることだ。

君よ
人生は勝利だ!
正義は
勝たねば正義ではない。

負ける人生は情けない。
そんな
意気地なしの人生を
諸天は護らない。
「仏法と申すは
 勝負をさきとし」と
仏が明言しておられる。

おお
今朝から
大雨が
嵐が
やってきている。

君よ
若き勇気の魂で
迎え撃つのだ!

君よ
見たまえ!
嵐を勝ち越えた
今日の
雲一つなき
大晴天の天空を!

君よ
見たまえ!
何ものをも
勝ち抜いた
偉大な人間の
魂の光を!

おお
今日は
晴天だ。
朝日の光が
眩しい。

君よ
晴天の心で
今日も勝つのだ!

どんよりした
薄曇の魂など
断じて
あってはならない。

十九世紀イギリスの作家
ブロンテ三姉妹の一人
エミリーは詠った。
「太陽が昇れば
 あの霧も晴れるだろう
 そしてこの魂も
 悲しみを忘れるだろう」

妙法蓮華経は
宇宙の大法則である。
生命の大法則である。

御義口伝には仰せだ。
「我等が
 頭は妙なり
 喉は法なり
 胸は連なり
 胎は華なり
 足は経なり
 此の五尺の身
 妙法蓮華経の五字なり」

わが生命
それ自体が
妙法蓮華経の当体として
尊極に輝きわたるのだ。

人生は
幸福になるためにあるのだ。
それには
不幸に
戦い勝っていかねばならない。

教育も
政治も
経済も
科学も
すべて
人間の幸福を
目的にしているはずだ。

その根本の目的を
見失って
慢心となり
無責任となり
自分勝手に
威張りゆく姿よ!

なんで
そこから
真実の後輩が
生まれ育ちゆこうか!

私が青年時代から
愛読してきた
ドイツの大文豪
ゲーテは断言した。

「人を生かしてこそ
 自分も生きる」
「打ちこわすことではなく、
 人類にうつくしい希望を
 あたえるような
 何ものかをつくること。
 これが一ばん肝要である」

戦いだ!
人の幸福を思う
信念を創ることは
最も大切な教育だ。
この思想は
今でも私の心に
息づいている。

そのためには
まず自らが
あらゆる不幸を
忍耐で乗り越えて
揺るぎない勝利の自分を
創り上げていくことだ。

「頂上を制覇する者は
 粘り強く歩む者である」とは
中央アジアの
カザフ民族に伝わる
英知の言葉である。

君よ
今日も
生き抜くのだ!
断じて負けるな!
あきらめは
敗者の情けない
上滑りの生き方だ。

御聖訓には
「苦をば苦とさとり
 楽をば楽とひらき」と
説かれている。

苦しい時は
苦しみを喜びとして
それに立ち向かうのだ。
その不屈の流転が
勝利の人生だ。

偉大なる
私の師匠・戸田城聖先生は
よくお話しになった。
「現代は五濁悪世である。
 ゆえに
 悩みがないわけがない。
 対話においても
 相手の悩みの中心に触れ
 相手が求めるものに
 応えていくのだ」

勇気の対話を!
信念の対話を!
確信の対話を!
声を惜しまず
賢く朗らかに
広げゆくことだ。

ドイツの哲学者
カントは喝破した。
「嘘つきは
 臆病な人間である」
「勇気ある人は
 真実を愛する」

真実ほど
強いものはない。
真実ほど
誇り高いものはない。

フランスの思想家
ボルテールも叫んだ。
「沈黙は
 恥ずべきことです」
「私は真実を述べ、
 述べつづけるでしょう」
「真実を述べるという喜びが
 私のすべてだったのです」

前進しゆく魂の
持ち主である
自分を鍛えよ!
さらに さらに
わが魂を鍛えよ!

それが
真実だ!
宗教だ!
哲学だ!
教育だ!
芸術だ!

フランスの
印象派の大画家
クロード・モネは
胸を張って語った。
「僕は
 不可能なことに
 取り組んでいる」

可能なことは
誰にでもできる。
不可能に
青年が挑みゆくからこそ
壁を破れるのだ。
これが
人類の創造の歴史である。

どうすれば
この一瞬の美を
この妙なる光を
表現できるのか?
モネは
猛烈な勉強と精進を重ねた。

遣を開くには
徹する以外にない。
一心不乱に
突き進む以外にない。
今ある境地に止まらず
前へ前へと
新たなる挑戦を
始める以外にないのだ。

勇敢に前進する魂は
数多の非難にも
打ち砕かれることはない。
いな攻撃があればあるほど
いやまして闘志を
燃え上がらせるのだ。

モネは
わが友の名誉のためにも
敢然と戦った。
不遇のなか
亡くなった同志の
正当な評価を
勝ち取るために奔走した。
それゆえに
圧迫を受けようとも
モネは奮然と言い放った。
「あとは最後まで
 徹底的に戦うだけです」
麗しき友情の名画である。

良き友を持った
青春に停滞はない。
真の友と励まし合う
人生に敗北はない。

フランスの名宰相
クレマンソーは
モネの若き日からの
親友であった。
晩年 失明の不安のなか
創作に取り組むモネを
彼は支え力づけた。

「これまであなたは、
 成功の危機と
 自信喪失を
 何度も経験して来ました。
 それはあなたの
 勝利の条件でさえあります」
「あなたは
 モネではないですか」

友の激励に
モネは奮起し
描きに措き抜いた。
そして
ついに「睡蓮」の
世界的に有名な大傑作を
完成させたのである。

友情の深さ!
誠実な行動!
同志の心のつながり!
これこそ
人生の究極の魂だ。

戸田先生は
大事な幹部との懇談の折
厳然と言われた。
古い学会本部の
二階の会長室であった。

「不知恩の輩は
 断固 追放せよ!」
「師弟を忘れた幹部は
 断じて追放せよ!」
そして
「負けるなよ!
 この一生を
 勝利者と飾るのだ!」

師匠への
深い報恩の決意と
深い目標を待った
弟子こそが
深い価値ある人間として
生き抜いていけるのだ。

それは
先生の人生の最終章に入った
昭和三十二年
四月の頃であった。
私は一人
会長室に呼ばれた。

先生は布団を敷かれ
横になっておられた。
先生は言われた。
「大作!
 大作のような弟子をもって
 俺は本当に嬉しい。
 大作!
 おまえも
 俺も勝った……」
静かな声であられたが
力強く
先生は言い残された。

先生のお体は
大変に弱り果てておられた。
私の手を握りながら
先生は
「君よ
 世界広布を頼むよ!」と
仰せになられた。

私は泣いた。
涙が溢れた。
偉大な師匠の目にも
笑顔と同時に
涙が見えた。

あまりにも小さい
会長室であった。
今のような暖房なども
整っておらず
寒い感じがしていた。

それから
先生は静養され
いったん回復なされたが
体力の衰えは否めなかった。
二年間の獄中闘争は
あまりにも先生の身体を
痛めつけていたのである。

そして翌年
明るい光の春--
桜花に包まれるなか
常楽我浄の旅立ちの
あの四月二日を
迎えられた。

仏法の真髄には
「師弟不二」の法理が
明かされている。

「弟子は枝葉の如く
 師は根の和し」
「弟子は流れの如く
 師は源の如し」
「弟子は火の如く
 師は薪の如し」
「弟子は草木の如く
 師は大地の如し」

弟子の栄光こそが
師匠の栄光である。
弟子の勝利こそが
師匠の勝利である。

近代経済学の父
アダム・スミスは
青春時代
スコットランドの名門
グラスゴー大学で
恩師ハチスン博士から
若き英知を鼓舞された。

「人類の幸福」のために
何が重要か?
それに向かって学べ!
探究せよ! と。

のちに スミスは
傑出した知性となって
師が自分を育んでくれた
大恩ある母校へ舞い戻った。
師と同じ教壇に立って
青年の育成に臨んだのだ。

自らが総長となっても
「あの決して忘れえぬ
 ハチスン博士」と
終生 恩師に感謝し
深く慕い続けたという。

崇高な師弟の劇が
幾重にも織り成されてきた
このグラスゴー大学から
私は名誉博士号を拝受した。
一九九四年の六月--
その荘厳なる儀式は
一生涯
忘れることはできない。

大学評議会のマンロー議長が
おごそかに
「推挙の辞」に立たれた。
壮麗なビュート・ホールに
幾たびも幾たびも
「ジョウセイ・トダ」と
わが師の名前が
高らかに響きわたった。

それは
戸田大学に学び
薫陶を受けた私が
永遠の師に捧げゆく
報恩の栄誉となった。
不二の宝冠となった。

私が会見の話を
いただいていた
アメリカの
若き第三十五代
ケネディ大統領は語った。
「歴史は、
 人間が作るものである」

自分自身の歴史は
自分自身が創るものだ。
いかなる苦労も
いかなる苦難も
いかなる戦いも
いかなる怒涛も
自分自身に与えられた
希望であり
宿命であり
わが人生の教科書だ。

恐れなく
それらを乗り越え
勝ち越えゆく信念を
一段と持ちながら
努力の魂を磨いた人間が
勝利者となるのだ。

さらに
ケネディ大統領は言った。
「もしわれわれが
 つかの間でも休止するならば
 過去の業績に
 甘んじているならば
 進歩の歩調に
 さからうならば
 危険に陥るだろう。
 時と世界は
 じっとしていないからだ。
 変化は生命の法則である」

たしか
このような文言であったと
私は記憶する。

人生は過去に
囚われるものではない。
いな
囚われてはいけない。

ゆえに
青年よ
君たちよ!
未来を常に見つめて
歩むのだ!
戦うのだ!
断固として進むのだ!

宇宙の森羅万象は
たゆみなく動いている。
その一切を
より良く変化させていく
究極の力が妙法である。
そして
この大宇宙をも包みゆく
偉大なる生命力は
わが胸の中にあるのだ。

さあ
朝が来た!
太陽が輝き昇る。
我らの心も
太陽のようでなければ
ならないはずだ。

青年よ
生き抜くのだ!


戦い抜くのだ!
勝ち抜くのだ!
一人ももれなく
幸福になるのだ!
そのための
一日一日である。

充実の一日とは
汝自身に勝つことだ!
人のため
社会のため
未来のために
大いなる魂を
燃え上がらせることだ!
悩み苦しむ友を
励まし救い
不滅の希望を
贈りゆくことだ!

さあ!
わが勇気ある
永遠の同志よ!
青春は前進だ!
人生は勝利だ!

 二〇〇九年二月十八日

  学会本部・師弟会館にて
  青年・勝利座談会を
         記念して

       桂冠詩人
       世界桂冠詩人
       世界民衆詩人
※フロンテの言葉は中岡洋訳、ゲーテの言葉は内藤道雄訳、大山定一訳、カントの言葉は御子柴善之訳、ポルテールの言葉は高橋安光訳、モネとクレマンソーの言葉は高階秀爾監訳、渡辺隆司・村上伸子訳、スミスの言葉は鈴木亮訳、ケネディの言葉は高村暢児編。
2009年2月20日付聖教新聞
池田先生の苦闘時代のエッセンスが込められています。

今、苦しい状況にあって答えが見つからず右往左往しない様に指針を示して頂いています。
苦労も、悩みも、苦難も、戦いも全て人生の勝利の為にある。

友を励まし自身に勝ってこそ幸せになれる。
大勝利のご報告をして、誉れの2月に致します。

2009/02/19  忘れ得ぬ 戦時の青春

池田先生の長編詩
忘れ得ぬ 戦時の青春 山本 伸一

我らは戦う!
人権と平和と
幸福のために


我らは戦う!
人権と
平和と
幸福のために!

人間の尊厳を侵し
青年の生命を奪い
そして
母たちを苦しめる
ありとあらゆる
権力の魔性と
我らは
断固と戦い続ける!

わが師・戸田城聖先生と
幾たびとなく語り合った
大事な一書が
フランスの大思想家ルソーの
『エミール』である。

その鮮烈な一節に
「圧制と戦争こそ
 人類の
 もっとも大きな
 災厄ではないか」とあった。

私が十七歳の時
あの暗い暗い
苦しい苦しい
第二次世界大戦は
日本の大敗北で終わった。
時に--
昭和二十年(一九四五年)の
八月十五日である。

この年の弥生三月まで
わが家は
もう老い始めた父が
老後を楽しく
暮らすために作った
まあまあ立派な
大きな庭のある
屋敷であった。

蒲田の糀谷二丁目五四六番地
行き交う人びとも
「ずいぶん立派な家だな」
と感じながら
見上げておられた。
その風景は
今でも忘れ得ぬ
若き日の一つの思い出と
心に残っている。

ところが
この父の誉れの家も
度重なる大空襲の
類焼を防ぐための
あの忌まわしい
国家権力による
強制疎開で
ぶち壊されてしまった。

行く所がなくなった
家族は
近くの
強制疎開を免れた家々に
下宿させていただいた。

都会は空襲で危ないので
母の妹がいる
大森の西馬込に
新しく家を作って
疎開することになっていた。
当時の西馬込は
まだまだ静かな
広々とした
田園が残る土地であった。

その新しい家で
計画通り生活していけると
皆が楽しみにしていたが
でき上がった
まさに その日の
暗い暗い晩
けたたましい
空襲警報が鳴った。

あちら こちらで
群衆が見上げる夜空から
低空飛行の爆撃機B29が
焼夷弾をばらまき落とした。

何百人もの人びとが
「わあーわあー」と
大声をあげながら
逃げ惑っていった。
その地獄の苦しみの泣き声が
今もって耳朶から離れない。

私たち家族は
静かな裏山の
防空壕に入って
爆撃を逃れた。

この時の大空襲で
西馬込に完成したばかりの
わが家は
直撃を受け
燃え尽きてしまった。
それは昭和二十年
五月二十四日の夜であった。

蒲田の矢口にあった
私の妻の実家も
この一カ月前の空襲で
全焼していた。
妻は疎開先の岐阜でも
大空襲に遭っている。

わが家は
働き盛りの兄四人が
次々に召集されて
国家の命令通りに仕えていた。

私が敬愛する
長兄の喜一は
最後は
ビルマ(現・ミャンマー)方面の
派遣隊となって
その地で戦死した。

長兄が外地へ発ったのは
昭和十四年の初春であった。
その出立を前にして
家族との面会が
東京駅の近くの
広場でなされた。

戦地である中国へ行く
総勢二、三百人ほどの
軍服姿の兵隊たちであった。
父や母や新妻などと
別れを告げゆく面談が
賑やかに広がっていった。

しかし
見送りの家族のいない
兵士も多かった。
みな寂しそうであった。
急遽の命令のゆえ
遠く離れた
国元への連絡は
間に合わなかったのか。
交通も不便な時代である。
駆けつけたくても
お金を工面できぬ家も
少なくなかったであろう。

百名近くの兵士たちは
面会者もなく
談笑の輪から離れて
お茶を飲んだりして
出発までの時間を
過ごしていた。
あの打ち沈んだ瞳を
私は いまだに
忘れることができない。

私の母は
そうした方々へ
「こちらへ
 いらしてください。
 ご一緒に、どうぞ!」と
親しく声をかけた。
わが家の海苔を巻いた
おにぎりを
たくさん用意してきた
母であった。
遠慮がちな兵士たちには
私が走っていって
おにぎりを差し上げた。

「人間性の根源は、
 母性にあり、
 隣人愛の根源は
 母性愛にあり、
 善良さの根源は
 女性らしさにある」
これは
後に私が深き交友を結んだ
ヨーロッパ統合の父
クーデンホーフ・
カレルギー伯の洞察であった。

ともあれ
あの東京駅での
わびしい残酷なる別れの姿は
まだ十一歳だった私の胸に
今もって焼きついている。

期待に応えて
一家を支えながら
人生を生き生きと走り

自らの歴史を創りゆく
優秀な青年たちが
国の奴隷の如く
心寂しく戦地に向かいゆく
あまりにも切ない場であった。
惜別の涙と涙の
悲しみの笑顔はあったが
明るい爆笑などは
一つもなかった。

この 本当に人の良い
紅顔の青年たちを!
未来に希望を燃やしながら
人生を生きてゆかんとする
若人たちを!
国家権力は
微塵の慈悲もなく
愛する家族から断ち切り
地獄の戦場に向かわせた。
その責任は
どこにあるかと思うと
今なお 私の胸は痛い。

インドの大詩人タゴールは
痛切に訴えた。
「権力者こそ
 最大の責任を
 負わなければならない、
 そして
 権力の座という
 立場から考えるとき、
 彼が犯すいかなる悪行も
 最大限の非難に値すべきだ」

面会を終えて
東京駅から帰る道すがら
「あの人たちは若いのに
 皆 お父さん お母さんを
 悲しませてしまって
 可哀想だ。可哀想だ」と
涙ぐんで語る母の姿は
私の瞼から
一生 消えることはない。

わが家では
長男・喜一に続いて
次男・増雄も
三男・開造も
四男・清信も徴兵された。
そのたびに
父も母も力が弱っていった。
母は涙が無くなるくらい
寂しがって泣いていた。

兄弟四人は
一人はビルマの戦線へ
あとの三人は
中支派遣軍などとして
国家より出征を
命じられていたのだ。
ほとんど文通はなかった。

日本にいた兵士たちは
終戦と同時に
たくさんの荷物を持って
復員してきた。
けれども
中国で敗戦を迎えた
三人の兄たちは
終戦の翌年になって
何も持たず
みすぼらしい
憔悴しきった格好で
ようやく帰ってきた。

長男・喜一は
戻ってはこなかった。
「日本軍はひどすぎる。
 中国の人たちが
 あまりにも可哀想だ!」と
憤怒していた兄であった。
戦死公報が届いたのは
終戦から二年も
経ってからであった。

戦地へ行く時
私に向かって
「父母や弟妹を頼むよ」と
託した言葉が遺言になった。

長兄の言葉を胸に
私は十四歳の春から
鉄工所に勤め始めた。
三男の開造が
出征する前まで働いていた
ディーゼル機関を製造する
蒲田の軍需工場である。

肺病を患い
血痰を吐く身であった。
辛くとも
苦しくとも
血を吐いても
いくら熱があっても
家での青年の静養は
非難の的であった。
若いくせに戦争に行かず
何を自分の家で
楽をしているのかと
罵られるばかりであった。

無敵日本
勝利勝利の
大日本帝国--
政治家も軍人も
報道機関も
華やかに動いていた。
しかし
全部が大嘘であった。

苦しみを耐え忍び
勝たねばならぬと決意して
国民は生き抜いていった。
ところが指導者たちには
国民を煽り
口先は上手であっても
狡賢い
弱い信念の姿が見え始めた。

ドイツの法学者
イェーリングは喝破した。
「歴史はいつでも、
 大声ではっきりと、
 こう教えているのだ。
 国民の力は
 国民の権利感覚の力に
 ほかならず、
 国民の権利感覚の涵養が
 国家の健康と力の涵養を
 意味する、と」

ともあれ
誰も信じられない。
心ある人びとは
自分自身で
生き抜く方法を求めた。
そして自分自身に
勝つ以外なかった。

老いた父も
まことに可哀想であった。
人生の総仕上げのために
立派な邸宅を作り
子どもたちが働いて
自分を助けてくれると
信じていた。

母も同じ心であった。
一家で一人だけなら
まだしも
頼りにしていた
四人の息子が次々に
危ない戦地に行かされた。

「国って
 どうなっているのだろう」と
独り言を
真剣に厳しく
自分自身に言い聞かせて
いるようであった。

時代は
この母たちの希望を
ことごとく打ち砕き
暗黒の天地に変えてしまった。

戦争の犠牲になったのは
出征した兄たちだけではない。
残された父母も
私も同じであった。
いくら
父母を励まそうとしても
その親子の心情さえも
通じていかないほど
無惨な人生に
追いやられてしまった。

国家とは何か?
政治とは何か?
戦争とは何か?
どうすれば
一日も早く家族と
楽しみゆく時が来るのか?
どうすれば
平和な日本になるのか?
幸福な人類になるのか?

お先は真っ暗となっていた。
軍人だけが
胸を張って歩いている姿が
皆の心の奥に焼きついた。

肺病の私は
本を読むのが好きであった。
いな
本だけが楽しみであった。

「良書を読むのは
 良い人との交りに
 似ている」とは
アメリカ・ルネサンスの旗手
エマソンの言葉である。

「良書は
 最良の大学の
 かわりをする」
この哲人エマソンの確信を
オーストリアの作家
ツヴァイクは
若き日の向学の指針とした。

私が夜遅くまで
読書をしていると
母からは
「身体に悪いよ」と
いつも心配された。

父からも
--兄たちは戦争から
いつ帰ってくるか わからぬ。
おまえだけは健康に--と
静かに本を閉じる
仕草をされた。

疎開先の西馬込から
詩情豊かな森ケ崎海岸の
近くの家へ移ったのは
終戦の直後であった。

この家は
もともと父の持ち家で
人に貸していたのである。
長く二組の知人が
父の配慮で入っていた。
そこが焼け残っていたのだ。
やがて この方々も
深く感謝しながら
他の家に移って行かれた。
父も母も
ほっとしたようだった。
私もほっとした。

二所帯分の大きい家である。
父は私にも
わりあい広い部屋を
使わせてくれた。
今でも感謝している。

戦時中
防空壕に入れて守った
多くの本なども どんどん
その部屋へ置くようにした。

一冊また一冊
宝の如く集めた蔵書を
私は後に
わが創価大学へ寄贈した。
これが
七万冊の池田文庫である。

正しき活字文化を
興隆させゆくことは
野蛮な暴力に
打ち勝つ道であると
私は信じてきた。

当時 どの本から見つけたか
ある英知の言葉があった。
「波浪は
 障害にあうごとに
 その頑固の度を増す」

さらにまた
ある賢人の言には
「艱難に勝る教育なし」

いずれも
わが青春の座右の銘と決めた。
私は私の部屋に
この言葉を書いて飾った。

この忘れ得ぬ読書も
終戦の年
十七歳の時であったと
記憶する。
青春時代の思い出は
あまりにも懐かしく蘇る。

私が永遠の師と仰ぐ
戸田先生にお会いできたのは
この二年後の八月十四日
二回目の終戦記念日の
前夜であった。
「立正安国論」を講義される
座談会であった。

あの戦乱の嵐の時代に
わが師は
軍国主義と戦い
二年間の投獄を耐え抜かれた。

先師・牧口常三郎先生に
「あなたの慈悲の広大無辺は
 わたくしを牢獄まで連れて
 いってくださいました」と
心から感謝なされていた。

この師弟にこそ
いかなる魔性にも屈しない
最も強く
最も誇り高き
人間生命の尊厳の道がある。

この師弟にこそ
人類の悲劇の流転を止めゆく
最も正しく
最も希望に燃えた
平和と幸福の創造の力がある。

十九歳の私は
そう心に決定して
師と共に
大闘争を開始した。

権力ではなく民衆を!
暴力ではなく対話を!
狂信ではなく哲学を!
蛮性ではなく文化を!
命令ではなく教育を!
独善ではなく連帯を!
罵声ではなく歌声を!
権威ではなく青年を!

戦争の世の善悪を
一つ一つ大転換しながら
創価の人間主義の光は
今や世界百九十二の国々へ
地域へと広がった。

御聖訓には仰せである。
「大悪は
 大善の来るべき瑞相なり、
 一閻浮提うちみだすならば
 閻浮提内広令流布は
 よも疑い候はじ」

庶民の絶望を希望へ!
母たちの悲嘆を歓喜へ!
そして
青年の落胆を勇気へ!
蘇らせながら
我らは行進する。

我らは戦う!
人権と
平和と
幸福のために!
正義の勝利のために!

 二〇〇九年二月十三日
  学会本部・師弟会館にて
       桂冠詩人
       世界桂冠詩人
       世界民衆詩人

※ルソーの言葉は今野一雄訳。クーデンホーフ・カレルギー伯の言葉は鹿島守之助訳。タゴールの言葉は森本達雄訳。イェーリングの言葉は村上淳一訳。エマソンの言葉は入江勇起男訳。ツヴァイクは原田義人訳。
2009年2月18日付聖教新聞
民衆・対話・哲学・文化・教育・連帯・歌声・青年と、明るく朗らかに歓喜の前進をして行きます!
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