2009/10/24  初級・3級教学試験 「佐渡御書」(上)その3

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 前回の御書講義続き。

本文
 畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる

通解
 畜生の心は、弱い者を脅し、強い者を恐れる。今の世の僧たちは、畜生のようなものである。知者の立場が弱い事を侮り、王の邪悪な力を恐れている。こびへつらう臣下とは、このよな者をいうのである。強敵を倒して、はじめて力ある者であるとわかる。

解説
 正義を妬み、弾圧する末法の社会的様相を明かされた個所です。
 竜の口の法難・佐渡流罪は、幕府権力(悪王)と、極楽寺良観ら(邪法の僧等)が結託して、大聖人とその一門を殲滅せんとした宗教弾圧でした。
 「畜生の心」とは、極楽寺良観ら諸宗の僧らの本質を指しています。かれらは「智者(=大聖人)」を侮蔑し、「王法の邪(=邪悪な権力)」を恐れていたのです。これが、大聖人一門への大弾圧を生んだ当時の日本社会の精神土壌でした。しかし大聖人は、「強敵を伏して始て力士をしる」──強い敵を倒してこそ、真に力のある力士である──と、この大難を厳然と受けて立たれたのです。

 現代においても同じ社会的様相ですね、立場や権力に屈伏し正義が蔑ろにされるのです。
 実生活においても「強敵」を倒して行かないと世間の波に飲まれます。
 その強敵も色々ですけどね。

本文
 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし

通解
 悪王が正法を破ろうとし、邪法の僧たちがその味方をして、智者をなきものにしようとする時は、師子王の心を持つ者が必ず仏になるのである。例を挙げれば、日蓮である。
 これは、おごりによるもののではない。正法を惜しむ心が強盛だからである。

解説
 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時」──これは、政治的権力と宗教的権威の野合です。正義を抑え込もうとする”弾圧の構図”は、いつの世も変らない。
 轟然たる迫害の嵐。この「時」に、大聖人は、一歩も退かれずに「師子王の心」で挑まれたのです。「畜生の心」を悠然と見下ろし、打ち破るのが「師子王の心」です。仏法でいう「師子王」とは、仏の異名にほかならない。この心で立ち上がる人こそが、必ず仏になる。「例せば日蓮が如し」──私を見よ! これは決して傲って言うのではない。「正法を惜む心」が強盛だから言うのである──。
 この正義の大確信を、よくよく拝すべきです。わが命よりも「正法を惜む心」が強盛だからこそ、誰にも怖じることなく、堂々と正義を主張する勇気を持てるのです。ここに信心の極意があると言ってもよい。
 先程の「不惜身命」の精神と、この「師子王の心」とは、表裏一体です。

 不惜身命と師子王の心を出す勇気の根本は信心ですよ。

本文
 おごれる者は強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し

通解
 おごっている者は、強敵にあうと必ず恐れる心が出てくるものである。例を挙げれば、おごり高ぶった阿修羅が帝釈に攻められて、無熱池の蓮の中に身を縮めて隠れたようなものである。

解説
 「傲れる者」の正体は「エゴ」です。自分中心だから、強敵に対して自分の身を案じる。それゆえに「恐れる心」が出てくる。これに対して「師子王の如くなる者」は、どこまでも「法根本」に生きる。不惜身命だから、法を破る者に対して厳然と立ち向かっていく勇気が、ますますわいてくるのです。

 恐れを抱かせたら、必ず勝てる。
 逆に言うと、自身が傲ってしまっては負けてしまいます。
 謙虚に誠実に堂々と、胸を張りましょう。

本文
 正法は一字一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。

通解
 正法は、一字一句であっても、時と機根にかなった実践をすれば、必ず成仏するのである。どれほど多くの経文や論書を習い学んだとしても、時と機根に相違していれば、決して成仏はできない。

解説
 折伏は、「師子王の心」で悪を責め、正義を語り抜くことです。その「師子王の心」があれば、一字・一句を語るだけでも、必ず成仏の功徳があると断言されています。この根本の魂、すなわち「正法を惜しむ折伏精神」がなければ、たとえ千経・万論を学んでも成仏はできません。
 戸田先生は、法華経の「不自惜身命」の経文を講義され、指導されました。「不自惜身命の心がなかったならば、題目は唱えられません」「皆さんも、折伏に言って賞められたおぼえがないでしょう。ですから、自ら身命を惜しまずの心がなかったならば、広宣流布はできません。人に悪口をいわれたり、なぐられたくらいで、へこんでしまうくらいなら、最初からやらないほうがいいのであります」これが折伏の大師匠・戸田先生の大精神です。草創以来、学会の同志はこの通りの勇敢にして健気なる実践を貫いてきました。

 今この時の実践は「折伏」です。
 語る内容がたとえ「一字一句」でも良いのです。
 「法の為」「社会の為」「友人の為」に出来る対話をしましょう。


16:00:00

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