2010/10/30  2010年度任用試験 教学入門「十界論と一生成仏」

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 教学入門「十界論と一生成仏」

 前に書いた「 十界と十界互具」も参考までに。

2.十界論と一生成仏
 (略)
 十界
 「十界」とは、生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものです。十界の法理を学ぶことによって、境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの境涯を変革していく指針を得ることができます。
 「十界」それぞれの名を挙げれば、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。
 このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩蘇・仏をまとめて「四聖」といいます。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したものです。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯です。
 法華経以外の経典では、地の下に地獄があると説いたり、遠く離れた所に浄土(清らかな国土)を求めるなど、十界は全く別々に存在する世界としてとらえられていました
 しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、九界の衆生に仏界が具わっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯が具わることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命に具わる10種の境涯であることを示したのです。したがって、今の瞬間に十界のいずれか一界の姿を現している生命にも十界がすべて具わっており、縁によって次の瞬間に他の界の境涯をも現しうることが明らかになります。これを十界互具といいます。
 十界の名称・順番を覚えましょう。
 六道は、仏道修行をしなくても、その境涯になりますが、四聖は仏道修行を行う事によって、その境涯になるので、その差を覚えましょう。
 日蓮大聖人は、「浄土と云うも地獄と云うも外には候はず、ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏、といふ・これにまよふを凡夫と云う」(1504ページ、通解──仏の浄らかな国土といっても、地獄といっても、外にあるのではありません。ただ我々の胸の間にあるのです.このことを悟るのを仏といい、このことに迷うのを凡夫というのです)と述べられています。
 凡夫と仏の違いは何か覚えましょう。
 それでは、十界のそれぞれの境涯について述べます。まず、私たちの生命に具わる六道について、大聖人は観心本尊抄で次のように述べられています。
 「数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(241ページ)
 この御文に基づき、六道の一つ一つについて述べていきます。
 ①地獄界
 (略)
 大聖人は、観心本尊抄で「瞋るは地獄」と仰せです。「瞋り」とは、思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心です。苦の世界に囚われ、どうすることもできない生命のうめき声が瞋りです。いわば「生きていること自体が苦しい」、「何を見ても不幸に感じる」境涯が地獄界です。
 ②餓鬼界
 大聖人は「餓鬼悲むくし飢渇にうへて子を食ふ」(1439ページ)、「貧るは餓鬼」と仰せです。飢えて子まで食べるというような貧り、すなわち際限のない欲望にふりまわされ、そのために心が自由にならず、苦しみを生じる境涯のことです。
 もちろん、欲望そのものには善悪の両面があります。(略)しかし、欲望を創造の方向に使えず、欲望の奴隷となって苦しむのが餓鬼界です。
 ③畜生界
 (略)
 大聖人は「癡は畜生」と説かれています。因果の道理が分からず、正邪・善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動してしまう境涯です。
 また「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」(957ページ)、「畜生は残害(傷つけ殺すこと)とて互に殺しあふ」(1439ページ)といわれるように、畜生界の生命は、理性や良心を忘れ、自分が生きるためには他者をも害する弱肉強食の生存競争に終始していく境涯です。目先のことしか見えず、未来を思考できない愚かさの故に、結局は、自己を破滅させ、苦しむのです。
 (略)
 ◇
 地獄界・餓鬼界・畜生界の三つは、いずれも苦悩の境涯なので「三悪道」といいます。

 ④修羅界
 (略)
 自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強くもっているのが修羅界の特徴です。
 (略)
 自分をいかにも優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人をよそおい、謙虚なそぶりすら見せることもありますが、内面では自分より優れたものに対する妬みと悔しさに満ちています。このように内面と外面が異なり、心に裏表があるのも修羅界の特徴です。
 故に、大聖人は「諂曲なるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは「諂い」「曲がった」心のことで、「諂」も「曲」も「心が曲がっている」ことです。「諂い」とは、具体的には「自分の本心を見せないで従順をよそおう」ことです。
 ◇
 この修羅界は、貪瞋痴の三毒(貪り、瞋り、癡という三つの根本的な煩悩)にふりまわされる地獄・餓鬼・畜生の三悪道と異なり、自分の意思で行動を決めている分だけ三悪道を超えているといえます。しかし、根本は苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣」ともいいます。
 三悪道と四悪趣の違いを覚えましょう。 どちらかは試験で出る確率が高いです。
 ⑤人界
 人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯をいいます。大聖人は「平かなるは人」と仰せです。
 この人界の特質は、因果の道理を知り、物事の善悪を判断する理性の力が明確に働いていることです。大聖人は「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174ページ)と言われています。善悪を判別する力を持ち、自己のコントロールが可能になった境涯です。
 (略)
 また人界の生命は「聖道正器」といわれ、仏道(聖道)を成ずることができる器であるとされています。
 人界は悪縁にふれて悪道に堕ちる危険性もある半面、修行に励むことによって四聖への道を進むことができる可能性をもっているのです。
 ⑥天界
 (略)
 仏法では、天界を生命の境涯の一つとして、欲望を満たした時に感じる喜びの境涯として位置づけています。大聖人は「喜ぶは天」と仰せです。
 (略)さまざまな欲望が満たされ、喜びに浸っている境地が天界です。
 しかし、天界の喜びは永続的なものではありません。時の経過とともに薄らぎ、消えてしまいます。ですから天界は、目指すべき真実の幸福境涯とはいえないのです。

 六道から四聖へ
 以上の地獄界から天界までの六道は、結局、自身の外の条件に左右されています
 たまたま欲望が満たされた時は天界の喜びを味わったり、環境が平穏である場合は人界の安らぎを味わえますが、ひとたびそれらの条件が失われた場合には、たちまち地獄界や餓鬼界の苦しみの境涯に転落してしまいます。
 環境に左右されているという意味で、六道の境涯は、本当に自由で主体的な境涯とはいえないのです。
 これに対して、その六道の境涯を超え、環境に支配されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行です。
 そして仏道修行によって得られる境涯が声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境涯です。
 六道と四聖の違いは、環境に影響されるか、されないかの違いです。
 そして四聖は仏道修行で得られるのです。
 ⑦声聞界
 ⑧縁覚界

 声聞界と縁覚界の二つは、仏教のなかでも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びます。
 声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な悟りを獲得した境涯をいいます。
 これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、自らの力で仏法の部分的な悟りを得た境涯です。
 (略)
 私たちも日々の生活の中で、自分自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがあります。ゆえに大聖人は「世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや」(241ページ)と言われ、人界に二乗界が具わっているとされたのです。
 この二乗の境涯は、仏教のなかでも小乗教が目標としたもので、二乗の境涯を得た小乗教の聖者は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとしました。しかし、そのために自分自身の心身のすべてを消滅させるという誤った道(灰身滅智といわれる)に入ってしまいます
 二乗が得た悟りは、仏の悟りから見れば、あくまでも部分的なものであり、完全なものではありません。(略)
 また、二乗は自らの悟りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。
 このように、「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。
 ⑨菩薩界
 菩薩とは、仏の悟りを得ようとして不断の努力をする衆生という意味です。二乗が仏を師匠としていても、自分たちは仏の境涯には至れないとしていたのに対し、菩薩は、師匠である仏の境涯に到達しようと目指していきます。
 また、仏の教えを人々に伝え弘めて人々を救済しようとします。
 すなわち、菩薩の境涯の特徴は、仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。
 (略)
 この菩薩界の境涯の根本は「慈悲」です。大聖人は、観心本尊抄で 「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」(241ページ)と仰せです。他人を顧みることのない悪人ですら自分の妻子を慈愛するように、生命には本来、慈悲が具わっています。この慈悲の心を万人に向け、生き方の根本にすえるのが菩薩界です。
 ⑩仏界
 仏界は、仏が体現した尊極の境涯です。
 仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法を覚った人のことです。(略)
 日蓮大聖人は、末法の一切衆生を救うために、一個の人間として御自身の生命に仏界の境涯をあらわし、一切衆生の成仏の道を確立された末法の御本仏です。
 仏界とは、自身の生命の根源が妙法であると悟ることによって開かれる、広大で福徳豊かな境涯です。この境涯を開いた仏は、無上の慈悲と智慧を体現し、その力で一切衆生に自分と等しい仏界の境涯を得させるために戦い続けます。
 仏界は、私たちの生命に本来、具わっています。ただ、それを悩み多き現実生活の中で現すことは難しいので、大聖人は人々が仏界の生命を現していくための方途として御本尊を顕されました。「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ……日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124ページ)と仰せのように、御本尊に末法の御本仏・日蓮大聖人の仏界の御生命があらわされているのです。その真髄が南無妙法蓮華経です。私たちは御本尊を信じて自行化他にわたる唱題に励むときに、自身の生命の仏界を現すことができるのです。
 仏界の生命と信心との深い関係について大聖人は、観心本尊抄で「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(241ページ)と言われています。法華経は万人が成仏できることを説く教えですが、その法華経を信ずることができるのは、人間としての自分の生命の中に本来、仏界が具わっているからです。
 また、この大聖人の仰せを受けて日寛上人は「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と述べています。
 この法華経とは末法の法華経である御本尊のことで、御本尊を信じて生き抜く「強い信心」そのものが仏界にほかならないということです。
 この仏界の境涯を現代的に言うならば、何ものにも侵されることのない「絶対的な幸福境涯」といえましょう。戸田第2代会長は、信心によって得られるこの境涯について「生きていること自体が幸福であるという境涯」と述べています。
 また仏界の境涯は、しばしば師子王に譬えられます。どのような状況下でも師子王のように恐れることのない、真の安心立命の境涯であるといえます。
 声聞縁覚はなぜ「二乗」と言われるのか?
 菩薩界の境涯の根本の「慈悲」は悪人にも具わっている事。
 仏界は、末法の御本仏・日蓮大聖人が書き顕した御本尊を信受し、自行化他にわたる唱題を励む時に、その境涯になれます。
 「仏界」という「絶対的幸福」について次の「一生成仏」で学びます。
 一生成仏
 信心の根本的な目的は、私たち自身が仏の境涯を得ることです。
 御本尊を信受して純真に自行化他の実践に励むならば、どのような人でも必ず一生のうちに成仏の境涯を得ることができるのです。これを「一生成仏」といいます。
 自行化他の「自行」とは、自分自身が利益を受けるために修行すること。「化他」とは、他人に利益を受けさせるために教え導くことです。
 日蓮大聖人は「法華経の行者は如説修行せぱ必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、警えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む」(416ページ、通解──法華経の行者は、仏の説いた通りに修行するならば、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができる。譬えば、春、夏に田を作るのに、早く実る品種と遅く実る品種の違いがあっても、どちらも一年のうちには必ず収穫できるようなものである)と述べられています。
 (略)
 また成仏とは、他の世界に行くことではなく、あくまでもこの現実世界において、なにものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいうのです。
 御書に、「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」(784ページ、 通解──桜、梅、桃、李のそれぞれが、その特質を改めることなく、そのままの姿で無作三身の仏であると見るのである)と仰せのように、成仏とは、自分自身が本来持っている特質を生かしきって、自身をもっとも充実させていく生き方をすることです(「無作三身」とは何も飾らないそのままの姿で仏の特質をすべて具えている真実の仏のこと)。
 すなわち、仏の境涯、とは、生命の全体が浄化され、本来もっている働きを十分に発揮して、様々な困難に直面しても動揺しない、力強い境涯になることをいいます。
 また、成仏とはゴールに到達するということではありません。妙法を受持して、悪を減し善を生ずる戦いを続けていく、その境涯が仏の境涯なのです。間断なく広宣流布に戦い続ける人こそが仏なのです。

 相対的幸福と絶対的幸福
 戸田第2代会長は、幸福には「相対的幸福」と「絶対的幸福」があると述べています。
 相対的幸福とは、物質的に充足したり、欲望が満ち足りた状態をいいます。しかし、欲望には際限がないし、たとえ、一時は満ち足りたようでも永続性はありません。外の条件が整った場合に成立する幸福なので、条件が崩れた場合には、その幸福も消えてしまいます。
 これに対して、絶対的幸福とは、どこにいても、また、何があっても、生きていること自体が幸福である、楽しいという境涯をいいます。それは外の条件に左右されることのない幸福なので、絶対的幸福というのです。成仏とは、この絶対的幸福境涯をいいます。
 現実世界に住んでいる以上、人生にさまざまな苦難はつきものです。(略)あらゆる困難を乗り越えていく生命力と智慧を身につけた人にとっては、困難が渦巻く現実世界そのものが、充実感に満ちた価値創造の場となるのです。
 また、環境に依存する相対的幸福が「死」によって途絶えるのに対し、絶対的幸福である仏の境涯は、「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(724ページ、通解──我が身が、妙法の大地を生死生死とめぐり行くのである)と仰せのように、死をも超えて存続していくのです。
 相対的幸福(六道天界の幸福や二乗・菩薩の幸福)では揺らいでしまいます。
 最高の仏界境涯の「絶対的幸福」を目指す事が生死を超え、自他共に揺るがない境涯を築けるのです。

 十界は基本法門です。
 誰しも仏界を持ち、その境涯になれるのです。(十界互具)
 そして仏界境涯になると言う事は、自行化他の唱題をして「一生成仏」する事も明かです。
 全ては繋がっている事を覚えて下さい。

10:00:00

コメント

Posted on 2010/11/03 23:02:34 by 速水長三郎

うむ??
土俵部屋??
びっくりしたぁ~(-^〇^-) ハハハハ

Posted on 2010/11/05 12:24:31 by JunkDark

 胸を貸しますが、如何ですか?(笑)

 フンドシを取られない様に日々研鑽中です。(^^)

Posted on 2010/11/07 21:52:32 by 日蓮

パラダイムシフト

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。
だから自我は客体認識の反射作用としてある。
これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。
すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと
なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。
それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。
だから本来これを別別のものとみなすことはありえない。
いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。
あれは空, それは山, これは自分。

しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。
山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。
自分というものはない。
自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。
それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。
鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。
なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。
言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。
そんなものはどこにも存在していない。
神, 霊, 悪魔, 人。
そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。
私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。

Posted on 2010/11/08 11:18:17 by JunkDark

 よく判りませんなぁ。(^^)
 独り善がりな文章はチラ裏って言われますよ。

Posted on 2010/11/08 21:46:01 by 甲斐

何にしても、独り善がりの自己満足に過ぎない。

他者の存在も、自分の存在も証明できない。宗教だって同じだ。
日蓮だの、仏陀だの、キリストだの信じて何になるよ。ばかばかしい。もうそんな色付けやめて全て物質になればいいのに。

そうさ、普遍の知を永遠に探究りゃあいいのさwww

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