2008/12/26  平均寿命は24歳。

日蓮大聖人ご在世の鎌倉時代の人たちの寿命はどれくらいだったのか?

 聖マリアンナ医科大学の平田和明教授が、鎌倉時代に墓地があった鎌倉市の由比ヶ浜南遺跡から出土した人骨を分析しました。
 歯や骨の分析が可能な260体について、亡くなった年齢を調べた結果、15歳未満の子どもとみられるものが77体と全体の3割を占めた一方で、55歳以上は5体にとどまりました。
 平均寿命の推定値は24歳になりました。
 このころの日本人の平均寿命は、分析可能な記録や人骨が乏しいため研究がほとんど行われておらず、奈良時代と江戸時代の記録に基づく研究結果から推定して、30歳前後とされていました。
 平田教授は「平均寿命の短さに驚いた。戦乱や災害、都市の劣悪な環境などさまざまな要因が重なっていると考えられ、中世の都市、鎌倉に住む人たちの多難な暮らしぶりがうかがえる」と話しています。
日蓮大聖人の時代はホント生死が身近な時代だったんですね。
生死一大事血脈抄
妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり(P1336)
日蓮大聖人は「妙は死」「法は生」と仰せになり、妙法に生死は含まれる。
真っ正面から生死に向き合い末法の世に正法正義を打ちたてられた。

蓮華は因果倶時、すなわち原因と結果が今の一瞬の生命に備わっている事を表します。
日蓮大聖人は「依報・正報に現れる因果は、全て蓮華の法である」と言う天台大師の釈を引かれて、依報(環境)と正報(生命)も当体蓮華だと仰せです。
歴劫修行の果てに新たな正報を得る事の出来ると爾前経では説かれてました。
それを「蓮華の法」=「因果倶時の妙法」は、生命が本来持つ無限の潜在的可能性を開き三世にわたる自由自在の境涯をえる事ができると。

2%程しか老人になれない時代では、希望がなくなり念仏称名の世になるのは必然か?
いや、白法隠没したから希望がないのか?

周りがバタバタ死ぬ国土では、「一刻も早く正法を広めねば」と思うよね。

2008/12/26  妙法蓮華経如来寿量品第十六

長年未活動な部員さんからの質問がありました。

『なんで、創価学会は五座三座をしなくなったの?』と
色々と説明したが納得行かない様子なので、お経本と御書を紐解いてみた。

日蓮正宗教学小辞典(創価学会教学部編)
・自我偈
 法華経の如来寿量品第十六にある有名な偈で、自我得仏来から速成就仏身までをいう。

 偈とは偈他の略称で、仏の徳、仏の教えを賛嘆する詩のこと。
 偈他は梵語で、訳せば頌(じゅ)という。
 また偈には通偈と別偈があって、別偈のなかの重頌(じゅうじゅ)というのは、長行の説いたのを、さらに重ねて、偈頌(げじゅ)をもって説くのをいう。
 自我偈はこれにあたり、寿量品の肝心を再び述べたものである。
また
妙法蓮華経如来寿量品第十六
 爾時世尊 欲重宣此義 而説偈言(爾の時に世尊 重ねて此の義を宣べんと欲して 偈を説いて言わく)

寿量品長行と自我偈の義が同じであるとお経本に書いてある。

日蓮大聖人は仰せです。
法蓮抄
 今の施主十三年の間毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏乃能究尽なるべし、夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす、自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千大千三千世界の微塵の数をこそあげて候へ、其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり(P1049)
同じ法蓮抄には、以下の様にも仰せです。

「されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し」
「法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし」

幾重にも自我偈の重要性を述べられています。
松野殿御返事
御文に云く此の経を持ち申して後退転なく十如是自我偈を読み奉り題目を唱へ申し候なり(P1381)

十如是(方便品)と自我偈を読んで題目を唱えなさい。と仰せになってますね。

御書全集の中に出てくる「寿量品」は161ヶ所、「自我偈」は24ヶ所、「寿量品の長行」はたったの1ヶ所しかない。
絶対に長行を読誦しなければならない訳でないのは、ここからもわかると思う。

それに何も創価学会は「長行を読んではいけない」とは言っていないしね。(私も偶に長行読みますよ、意外に忘れない物ですね。)
さも謗法の様に言う人に惑わされていた模様です。

何とか納得して頂いたのは寿量品長行と自我偈の義は同じ。
創価学会の教学小辞典の掲載云々以前に法華経の寿量品自体に説かれている。
寿量品長行に三大秘法の義が存在するのだから、論理的に自我偈にも三大秘法の義が存在する。
日蓮大聖人のご在世時には五座三座は無かった事も大きいですね。

まだまだ宗門に毒されている方はいらっしゃいますね。

2008/12/23  還著於本人(げんじゃくおほんにん)

還著於本人とは、法華経観世音菩薩普門品第二十五の偈の文、「還(かえ)って本人に著(つ)きなん」と読む。

宗教の祈りによって身を害せられようとした者も、正法を信ずれば少しも害を受けず、還って反対に祈った本人が大罰をまねくということである。
すなわち末法の法華経の行者、御本尊を持つ者を謗り害そうとする者はかえって、自らの身にそれを受けることになる。

日蓮大聖人は、承久の乱の時に朝廷方が真言のあらゆる邪法を用いて鎌倉方を祈祷調伏したが、反対になにも祈りをかけなかった鎌倉方に、さんざんに敗れた。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流され、討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。
また真言の僧等は切られたことを、還著於本人の見本として御書に引かれている。
種種御振舞御書
弘法大師の邪義慈覚大師智証大師の僻見をまことと思いて叡山東寺園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ、武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ(P921)
兵衛志殿御書
人王八十二三四隠岐の法皇阿波の院佐渡の院当今已上四人座主慈円僧正御室三井等の四十余人の高僧等をもて平の将軍義時を調伏し給う程に又還著於本人とて上の四王島島に放たれ給いき(P1095)
それに真言の邪法をもって蒙古調伏等を行なえば、かえって日本の国が滅びると仰せられ真言宗を徹底的に破折されている。
下山御消息
而るを今大蒙古国を調伏する公家武家の日記を見るに或は五大尊或は七仏薬師或は仏眼或は金輪等云云、此れ等の小法は大災を消すべしや還著於本人と成りて国忽に亡びなんとす(P363)

日蓮大聖人を害そうとした東条景信や、平左衛門尉等が、あるいは落馬し、あるいは謀叛の罪によって斬殺された等、四条金吾殿を主君に讒言して失脚させようとした同僚らが、後に追放され、四条金吾殿は三倍の加増を賜った事は、還著於本人と言える。

随筆「人間世紀の光」 声仏事を為す
 アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンは洞察した。
 「胸奥(きょうおう)より湧き出(い)でたる温かき言葉は、予(よ)を富裕ならしめる」
 人に誠実な声をかければ、それだけ自分の生命が豊かになり、弾んでいくものだ。
 いわんや、広宣流布のために語った声は、大宇宙の妙(たえ)なる常楽我浄の律動に融合しながら、わが生命に歓喜の谺(こだま)となって戻ってくるのである。
 反対に、「おごれる者たちの驕慢(きょうまん)な言葉はおそろしい不幸の報酬を受ける」とは、フランスの女性思想家シモーヌ・ベーユが書き留めたギリシャ悲劇の一節であった。
 思い上がって、正法正義(しょうほうしょうぎ)の人に浴びせた誹謗の言葉は、必ず自分自身に還(かえ)ってくる――法華経に説かれる「還著於本人(げんじゃくおほんにん)」(還(かえ)って本人に著(つ)きなん)の原理である。
 なかんずく人生の総決算の時に、因果の理法の上から、容赦なく断罪される。
 日寛上人の「臨終用心抄」には――
 「他人を譏(そし)り、その心を傷つけてきた者は、それが因となって、臨終のさい、全身の各所を鋭い刀で刺し刻まれるような断末魔の苦しみを受けずにはおられない」(趣意)と峻厳(しゅんげん)に説かれている。

日蓮大聖人の仏法を実践する我々は、人から怨嫉嫉妬され、悪口罵詈されようとも諸天の加護を得て、還って怨嫉嫉妬し、謗った本人が害を受ける。
また仏法は道理ですから、人生の晩年に全ての結果が出てくると池田先生も仰せです。
「誠実に、着実に」とよく池田先生は言われる。その短い言葉に人生の指針が込められている。

2008/12/20  十界互具 魔の生命

今回はかなり重い話です。
年齢制限を設けます、未成年(20歳未満)若しくは20歳以上でも精神年齢がそれ未満の人はスルーしてください。

まずは元記事の引用からです。
2007年夏、ウクライナの都市ドニプロペトロウシクにて、わずか一ヶ月の間に3人のティーンエイジャー(現在は20歳)によって21人もの人々が殺害されるという事件が発生した。

犠牲者の中には老人や女性は勿論のこと、数人の子供達も含まれており、殺害の方法は一貫して鉄パイプやハンマーなどの鈍器による撲殺だったという。また、青年達は一部の犯行を行う際、その凄惨な場面を携帯電話で撮影していたそうだ。

彼らは皆、裕福な家庭で生まれ育っており、いずれの犯行も面白半分で行ったことを認めているという。2000年3月よりウクライナでは死刑制度が廃止されているため、この3人は現在も刑務所に服役中である。
犯人は面白半分に女子供ホームレスを襲撃し短期間に大量の殺人を犯した。
殺人を携帯で録画する神経も信じられないが、単独犯でなく3人だった点にも注意したい。

なにが彼らを犯行に駆り立てたのだろう?
どうして3人の内、一人でも止めに入らなかったのだろう?
犯行に及んだ心情は理解できない。まさしく奪命者そのものだ。
日本でもホームレスの襲撃などがニュースで流れることがある、その笑いながら襲撃する魔の生命に人種は関係ない。

だが、彼らのその残虐な生命は「我々」も持っている事だ。
また信じにくいが、そんな残虐な彼らにも「仏性」はあるのだ。
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
問うて曰く六道に於て分明ならずと雖も粗之を聞くに之を備うるに似たり、四聖は全く見えざるは如何、答えて曰く前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。(P241)
無顧の悪人とは、悪事をかえり見る事の無い人の事。
妙法尼御前御返事
悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候(P1403)
法華経を信受する人はこんな悪人でも成仏すると仰せです。
日蓮大聖人のご時世では夜盗追い剥ぎ山賊は沢山居た時代です。
今よりも凄惨な事件は多かったでしょう。
当時の記録では埋葬する風習もあまり無かったので京の都でもそこら中に遺体が打ち捨てれられていたとの事。
その世相の中で悪人成仏はインパクトがあると思います。

件のウクライナは冷戦終結後、壊滅的な経済状況で教育がおざなりになりました。
彼らの幼少期はかなり過酷な時代だったでしょう。
日本でも少年犯罪が多かったのは昭和37年前後だそうです。やはり戦後の教育空白期が影響していると思われます。

未来部の育成が、まさしく良い未来の構築になると思います。



最後に
比較的グロ映像に耐性のある私だが最後まで映像を見る事は出来なかった。
途中までの映像でも、何とも言えない気持ちになる。
マスコミでは自主規制で流れないニュースだと思います。
死刑制度の事や教育の事、色々な問題提議してくれる事件だと思います。
そして世の中には、こんな世界がある事を学んでほしい。
元の記事&映像です。見たい方はコピペでどうぞ。(グロ映像なんでリンクは張りません、また未成年や影響される人は見ちゃいけません)
http://www.scaryblog.org/archives/1691