2009/05/27  同志誹謗

最近の学会員同志の論争に対し「同志誹謗では?」との疑問をぶつける人を見うけます。
たしかに、一見同志誹謗を犯している様に見えますが、少し間を置いてROMって頂きたい。

若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん(開目抄下P230)
普賢菩薩勧発品第二十八の文。
法華経を受持する者を、それが事実(実)であれデマ(不実)であれ、互いに謗ってはならないとの戒めがある。
では、謗り・誹謗とは何でしょうか?
答えて云く誹謗正法とは其の相貌如何外道が仏教をそしり小乗が大乗をそしり権大乗が実大乗を下し実大乗が権大乗に力をあわせ詮ずるところは勝を劣という法にそむくがゆへに謗法とは申すか(妙一女御返事P1259)
教判で劣っている方が優れてる方を誹るのが「誹謗」の様です。
謗法の者にも浅深軽重の異あり、法華経を持ち信ずれども誠に色心相応の信者能持此経の行者はまれなり、此等の人は介爾ばかりの謗法はあれども深重の罪を受くる事はなし(阿仏房尼御前御返事P1307)
また、信心強き者は多少の謗法があっても重く受ける事はない、とも仰せです。

文証を出しての論争なのか?
感情に任せての悪口罵詈なのか?

日蓮大聖人や3代会長の指導を持っての直言忠言ならば、勝っている方が言うのは誹謗には当たらない。教判によって判断するしかない。

情では、よく知っている人が詰められれば味方したくなるかもしれないが、与同罪になってしまうのを忘れてはならない。それ程、仏法は厳密なのだ。

しかし、正論であっても相手の見ていない掲示板等で言う場合は「身口意の三業」を積む事は覚えておこう。
言うのなら相手のいる掲示板に出向いて言う事。
陰でコソコソ(ネットでコソコソも無いが(笑))言うのではなく、正々堂々と振る舞いましょう。
日蓮大聖人も3代会長も正々堂々と振る舞わられた。
卑怯者になってはならない。

我々は師子だ、野干ではない。
誰かの尻馬に乗って、口撃では良観一派と変らない。

よく聖教紙上での座談会で、酷い言葉で罵っている場面に嫌悪感を持つ人がいる。
解らなくもない、私も若い時はそう思っていた。
でも、「ゴキブリ」「ペテン師」「サイコパス」なんてのは仏法上の「謗り」には当たらない。
日蓮大聖人も結構相手に対して、もっと辛辣な言葉を言っている。
自分より勝れている仏法者に対して言ったら「謗法」だが、大抵は事実の羅列にしかならない。
そもそも、本当に謗法ならば、厳然と結果が出るよ。
第三者が言うまでもなくね。

2009/05/23  性悪説?性善説?

Siriusさん、記事作るのが遅くなりました。
申し訳ありませんでした。m(_ _)m

この世(現世)が「地獄世界(界)」に思える末法の現代です。

中国の思想家、孟子は「性善説」を唱えました。
対して荀子は性悪篇で「性悪説」を唱えました。
性善説
「人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要である」とする考え方である。
性悪説
「孔子ですら生まれたときから聖人だったわけではなく、学問によって聖人になることが出来た」とする考え方である。

御書にも性悪説とも取れる御文がありますね。
兄弟抄
此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり(P1081)
魔王の眷属と仰せです。
他人の生命の「仏性」を否定したり、仏道修行を妨げる存在が末法の衆生(現代人)です。
むしろ本分としては魔の生命が出易い分、悲惨な出来事が起こるのは自然かもしれません。
しかし、その末法の衆生を救う為に日蓮大聖人は「妙法」を表して下さった。
「あなたの生命には仏が元々備わっている」と。

貴方には仏の命があると言われると性善説に近い感じですが、日蓮大聖人云く性悪説でも性善説でもなく、両方だそうです。
治病大小権実違目
善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千性悪性善妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり(P997)
権教や諸宗(日蓮仏法以外)では善悪は等覚の悟りでしかなく、どちらか一方しかない。
妙法では妙覚の悟りなので、善悪両方備わっている。
現われ方によって「元品の法性」「元品の無明」に分けられると言う事。

生命のデフォルト(初期値)が「元品の無明」なのですね。
そこに「妙法」を入れて「元品の法性」を出す訳です。

退転すると初期値に戻ってしまいます。
むしろ反動でより悪くなる。

常にテンションを掛けていないと駄目で、弛んでしまうと退転状態です。
「進まざるは退転」なのですね。

元品の無明に囚われた衆生は「魔の眷属」ですから、世間が「地獄世界」に見えます。道理ですね。

妙法を心に入れるのは、とても大変です。
梵天帝釈が現われるのですから、相当な苦労です。
でも、梵天等が生命に現われたら、当然自分以外も他人の生命も見えて来ます。
相手の生命が見えたら、他人を蔑ろには出来ません。

生命の尊厳を軽視する事は出来ません。
というか、軽視出来たら法性は出ていない事になる。

日蓮仏法はまだまだ、世界では少数派です。
(だから広宣流布出来るのですがね。)

「魔の所領」の世界では、依然と地獄世界が広がっています。
それを変えるのは武器や武力と言った「ハードパワー」ではなく対話や思想と言った「ソフトパワー」です。

ソフトパワーは一見まどろっこしく、イライラするかもしれません。
現実の目の前の惨劇にジッとできないと思います。
しかし、我々の日蓮仏法は「大善」の運動でもあります。

「急がば回れ」一歩一歩進むしかないのです。