2009/05/02  イジメに悩む若き友へ。

私は生まれた時から大変な宿業だった様です。
前置胎盤の未熟児&仮死状態で生まれ、両親は医者に「諦めてくれ」と言われた。

すぐさま父は、池田先生にご報告して私の名前を頂いたそうだ。
父は「名前を貰ったのだから、絶対にこの子は使命がある」と一家揃って唱題をしてくれた。
そのお蔭で保育器の中で、生き延びた。
そんな私は幼少から虚弱でした。
体も人より小さく、幼稚園からイジメの対象になりました。
3才まで、殆ど喋らない子供でしたが幼稚園に入ってからは口が達者になったようで、今思えば生意気なガキでした(笑)

口喧嘩では負けない私は、体格の良い同級生には受け入れられず、いつもイジメや意地悪の対象になりました。

殴られる、蹴られる、物を隠される取られる等、あらゆるイジメは高校を卒業する間際まで続きます。

元来気性は頑固で、虐められての不登校は絶対にしたくなかったので泣きながら登校した事もあります。
小学校4年生の時には毎日のイジメになり、ほとほと困り悩み始めた。
そんな私に母は「悩みがあるなら唱題をしなさい」としか言いませんでした。
それではと毎日1時間の唱題に挑戦。
1ヶ月ほど経った時の事、唱題中にご仏智を頂きます。
「そうか、厭な相手の事を悶々と一日思い悩むのと、好きな女の子の事を思い悩むのは同じ事だ、自分の心に『誰か』を住まわせ心を占めるのなら、好きな女の子の事を占めさせよう」と閃いた。
この経験以降、イジメに遭うのではとビクビクする事はなくなり状況は暫く改善されます。

中学校に入って1年生はつつがなく過ごしますが、2年生になると状況が変ります。
所謂「不良グループ」が同級生内に出来上がります。
授業妨害、喫煙、喧嘩と荒んだ校内になりました。
そんなある日、脈絡もなく私が集団暴行の的になります。
いきなり殴られ、床へ投げ出されうずくまった状態の時、右目を靴先で蹴り上げられました。
体は痙攣を起し、呼吸も痛みでままならない。
騒ぎを聞いた教師が駆けつけますが、私の顔の右半分は腫れ上がり原形を留めていませんでした。
あまりの痛みに心の中で唱題を上げていたのを思い出します。
救急で病院へ行き、治療を受けますが右目は網膜剥離により見えませんでした。
右目が見えないと判ると、なぜか冷静に「障害者になるのかな?右目が見えなくても付ける職業ってなにかなぁ?」などと思ってました。
レントゲンで頭部や内臓を撮り、内部出血はない事は判りました。
取り敢えず自宅に戻り事になり、支度をしていると、ふと右目がうっすらと見えているに気が付きます。
「!?!」半ば諦めていた眼が見える事に思わず「功徳だ」と思わずにいられませんでした。

自宅に戻り、初めて鏡で顔を見ると驚いた。
ここまで顔って腫れるんだと思いましたね。
右半分は段差が無くなりスリットの様な細目があるだけ。

地区部長が話を聞きつけお見舞いに来て頂きましたが、驚いて二の句が継げない状態でした。
そんな状態は10日程続き学校に復帰したのは二週間後でした。

ケガの前は0.3であった視力は0.03と劇落ちし四六時中眼鏡をしないと生活が出来ない状態になりましたが、不思議と現状は受け入れられていましたね。

これが縁起になって福祉やボランティアに興味を持つ事になります。

その後、左目も右目に釣られて視力は悪化し23才の時の社員旅行風呂場大転倒を切っ掛けにレーシックをするのですが…それは又別のお話し。

閑話休題

その後イジメられる事もなく、絡まれても「ああ、コイツは子供なんだな、いっちょ私が大人になってみるか」と余裕もでき大事は起きずに卒業になります。

高校では、カンニングを告発してから一部グループから「シカト」と言う新しいイジメを受けますが、それも極短期間でした。

学生生活の大半にイジメが付き纏い、人よりはイジメがわかるつもりです。

その経験上、イジメられるのは、何より自分の境涯が低いからです。
 何か言われて直にカッとなっていないか?
 試しにもう一人の自分が目の前に居たら、ウザくて自分を虐めないか?
 卑屈ではないか?自分の畜生界が共鳴していないか?
 相手を心のどこかで見下していないか?
等など思うのです。

加害者の子供は分別が付かないから子供であって、自分の境涯を上げればイジメに立ち向かえる。
逃げる事もない、悔しさに苦しむ事もない。
なにより自分の心は自分の物だ。

誰の人生でもない、自分の人生だ。
桜梅桃李に自分らしく生きれば良い、楽しんで使命を果たす為に生まれてきたのだからね。