2010/10/14 2010年度任用試験「上野殿御返事(竜門御書)」
座談会拝読御書「上野殿御返事(竜門御書)」
本抄も短いので御書全集で全文を拝読して下さい。
本抄は、弘安2年(1279年)11月6日、日蓮大聖人が身延から駿河国(静岡県中央部)の南条時光に送られたお手紙です。
題号の「上野殿」は南条時光の事。駿河国上野郷(現在の静岡県富士宮市北西部一帯)の地頭であった為、上野殿と称された。
御書冒頭からの「唐土に竜門と申す滝あり…」との御請訓から別名を「竜門御書」ともいいます。
時光は、父・兵衛七郎の心を継いで、少年のころから大聖人を師匠と仰ぎ、日興上人の激励を受けながら、信心に励んできました。本抄を頂いた時は数えで21歳。駿河の青年リーダーと成長していました。
駿河一帯は、北条家の本家の領地が広がり、その権力の影響が強い地域でした。日興上人の闘争によって広宣流布が進展すると、大聖人門下への風当たりが強まり、この地に、熱原の法難が起こります。
大聖人は本抄で、弟子たちに、今こそ大願を起こせと力強く呼びかけられています。
当時は、国中に災難に見舞われた時代でした。疫病などで死ななくても、蒙古の襲来による死は逃れがたいという不安に襲われていました。大聖人一門は権力の弾圧がよる、殉難を覚悟しなければなりませんでした。
実際、弘安2年秋には、熱原の農民信徒20人が冤罪事件で逮捕され、平左衛門尉頼綱が下した非道な処断によって、最終的に3人が斬首され、殉教します。
その最中に大聖人は、いずれにしろ死を免れがたいならば、「法華経のために命を捨てよ」(大願)と仰せになります。
大願に生ききり、妙法に捧げてきっていくならば、そこには根本の使命を果たしゆく満足と充実が満ち満ちています。
大聖人は本抄を法華経化城喩品の一節を引かれ結ばれます。「我等と衆生と、皆ともに仏道を成ぜん」と示されている通り、妙法に我が生命を捧げた大功徳は、あまねく一切衆生に広がって、自分だけでなく、あらゆる衆生の成仏への力となっていくのです。
若き時光は、この熱原の法難に際し、弾圧を受けた同志を助けるために私邸を開放して保護したりと、献身的に尽力しました。
大聖人は末文に「上野賢人殿御返事」「此れは熱原の事の・ありがたさに申す御返事なり。」と書き記し賞賛されています。
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背景と大意解説
本抄は、弘安2年(1279年)11月6日、日蓮大聖人が身延から駿河国(静岡県中央部)の南条時光に送られたお手紙で、別名を「竜門御書」といいます。
時光は、亡き父の心を継いで、少年のころから大聖人を師匠と仰ぎ、日興上人の激励を受けながら、信心に励んできました。本抄を頂いた時は数えで21歳。駿河の青年リーダーと成長していました。
駿河一帯は、北条家の本家の領地が広がり、その権力の影響が強い地域でした。日興上人の闘争によって広宣流布が進展すると、大聖人門下への風当たりが強まり、法華経の信仰を捨てるよう、さまぎまな迫害が起こります。
弘安2年秋には、熱原の農民信徒20人が冤罪事件で逮捕され、平左衛門尉頼綱が下した非道な処断によって、最終的に3人が斬首され、殉教します。時光は、この熱原の法難に際し、弾圧を受けた同志を助けるために献身的に尽力しました。
大聖人は本抄で、魚が竜となるには竜門という滝を上らなければならないように、仏となるには命に及ぶ苦難を乗り越えなければならないと述べられ、弟子たちに、今こそ大願を起こして法華経のために身命をなげうっていくよう呼びかけられています。本文通解
願くは我が弟子等・大願ををこせ、去年去去年のやくびやうに死にし人人の・かずにも入らず、又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしともみへず、とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ、法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云
願わくは、我が弟子たちよ、大願を起こせ。(あなたたちは)昨年、一昨年に流行した疫病で亡くなった人々の数にも入らなかった。また今、蒙古が攻めてきたら、死を免れる事が出来るとも思えない。ともかくも死は避けることが出来ない。その時の嘆きは、現在の迫害で死ぬ嘆きと変わらない。同じく死ぬのであれば、かりにも法華経の為に命を捨てなさい。それこそ露を大海に入れ、塵を大地に埋める様なものであると思いなさい。法華経第3の巻には「願わくは、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我等と衆生と、皆ともに仏道を成ぜん」と説かれている。
本抄も短いので御書全集で全文を拝読して下さい。
本抄は、弘安2年(1279年)11月6日、日蓮大聖人が身延から駿河国(静岡県中央部)の南条時光に送られたお手紙です。
題号の「上野殿」は南条時光の事。駿河国上野郷(現在の静岡県富士宮市北西部一帯)の地頭であった為、上野殿と称された。
御書冒頭からの「唐土に竜門と申す滝あり…」との御請訓から別名を「竜門御書」ともいいます。
時光は、父・兵衛七郎の心を継いで、少年のころから大聖人を師匠と仰ぎ、日興上人の激励を受けながら、信心に励んできました。本抄を頂いた時は数えで21歳。駿河の青年リーダーと成長していました。
駿河一帯は、北条家の本家の領地が広がり、その権力の影響が強い地域でした。日興上人の闘争によって広宣流布が進展すると、大聖人門下への風当たりが強まり、この地に、熱原の法難が起こります。
大聖人は本抄で、弟子たちに、今こそ大願を起こせと力強く呼びかけられています。
当時は、国中に災難に見舞われた時代でした。疫病などで死ななくても、蒙古の襲来による死は逃れがたいという不安に襲われていました。大聖人一門は権力の弾圧がよる、殉難を覚悟しなければなりませんでした。
実際、弘安2年秋には、熱原の農民信徒20人が冤罪事件で逮捕され、平左衛門尉頼綱が下した非道な処断によって、最終的に3人が斬首され、殉教します。
その最中に大聖人は、いずれにしろ死を免れがたいならば、「法華経のために命を捨てよ」(大願)と仰せになります。
大願に生ききり、妙法に捧げてきっていくならば、そこには根本の使命を果たしゆく満足と充実が満ち満ちています。
大聖人は本抄を法華経化城喩品の一節を引かれ結ばれます。「我等と衆生と、皆ともに仏道を成ぜん」と示されている通り、妙法に我が生命を捧げた大功徳は、あまねく一切衆生に広がって、自分だけでなく、あらゆる衆生の成仏への力となっていくのです。
若き時光は、この熱原の法難に際し、弾圧を受けた同志を助けるために私邸を開放して保護したりと、献身的に尽力しました。
大聖人は末文に「上野賢人殿御返事」「此れは熱原の事の・ありがたさに申す御返事なり。」と書き記し賞賛されています。
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