2011/09/05  青年教学1級 開目抄第17段「難信の相を示す」

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 そうは言っても信じがたいのです。

第17段「難信の相を示す」
 日蓮案じて云く二乗作仏すら猶爾前づよにをぼゆ、久遠実成は又にるべくも・なき爾前づりなり、其の故は爾前・法華相対するに猶爾前こわき上・爾前のみならず迹門十四品も一向に爾前に同ず、本門十四品も涌出・寿量の二品を除いては皆始成を存せり、雙林最後の大般涅槃経・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず、いかんが広博の爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経をばすてて但涌出・寿量の二品には付くべき
 日蓮が考えていうには、二乗作仏についてすら、爾前の二乗不作仏の教説が有力であるように感じられる。久遠実成については、それとは比べものにならないほどに、多くの経説が爾前経の始成正覚よりである。
 なぜかと言えば、爾前と法華を比べてみると、爾前のほうが優勢である上、爾前だけでなく法華経のなかでも迹門14品は一向に爾前と同じ始成正覚の立場であるからである。
 本門14品でさえも、涌出・寿量の2品を除いては、皆、始成正覚の立場が残っている。
 そのうえ、沙羅双樹の林で釈尊が最後に説かれた大般涅槃経40巻をはじめ、その外の法華前後の諸大経には、一字一句たりとも「久遠実成」という言葉はなく、法身の無始無終は説いているけれども、応身・報身の顕本は説かれていない。
 どうして、広博な爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経を捨てて、ただ涌出・寿量品の2品だけに付くことができようか。

 そうはいっても、やはり爾前経のほうが、本当っぽいような気がする(爾前づよ・爾前づり)。
 つまり、二乗作仏も久遠実成も、なかなか信じられない。
 なぜなら、法華経に比べれば、爾前経のほうが量的に多いし、法華経に入っても迹門ではまだ久遠実成は説かれていない。
 また、法華経本門でも、涌出品と寿量品以外は始成正覚の立場が残っている。
 ほとんどの経典に反して、涌出品と寿量品だけが説いていることを信じるのは、ちょっと難しい。

 <第18、19段は、二乗作仏と久遠実成は法華経寿量品には限らない、という法相宗の主張などを取り上げ、そういう意味から言っても法華経を信じることが、とても難しいことを示す>


12:30:00

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