2011/09/10  青年教学1級 開目抄第41段「第三僭聖増上慢を明かす」

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 僭聖増上慢とは?
 良観と聖一のこと。

第41段「第三僭聖増上慢を明かす」
 第三は、法華経に云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在つて乃至白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為ること六通の羅漢の如くならん」等云云、六巻の般泥オン経に云く「羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行じ一闡提に似たる阿羅漢あつて慈心を作さん、羅漢に似たる一闡提有りとは是諸の衆生の方等を誹謗するなり一闡提に似たる阿羅漢とは声聞を毀呰して広く方等を説き衆生に語つて言く我汝等と倶に是れ菩薩なり所以は何ん一切皆如来の性有るが故に然かも彼の衆生は一闡提と謂わん」等云云、涅槃経に云く「我れ涅槃の後・像法の中に当に比丘有るべし持律に似像して少かに経典を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養せん袈裟を服ると雖も猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如く実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」等云云、妙楽云く「第三最も甚し後後の者転識り難きを以つての故に」等云云、東春云く「第三に或有阿練若より下の三偈は即是出家の処に一切の悪人を摂す」等云云、東春に「即是出家の処に一切の悪人を摂する」等とは当世・日本国には何れの処ぞや、叡山か園城か東寺か南都か建仁寺か寿福寺か建長寺か・よくよく・たづぬべし、延暦寺の出家の頭に甲冑をよろうを・さすべきか、園城寺の五分法身の膚に鎧杖を帯せるか、彼等は経文に納衣在空閑と指すにはにず為世所恭敬・如六通羅漢と人をもはず又転難識故というべしや華洛には聖一等・鎌倉には良観等ににたり、人をあだむことなかれ眼あらば経文に我が身をあわせよ、止観の第一に云く「止観の明静なることは前代未だ聞かず」等云云、弘の一に云く「漢の明帝夜夢みし自り陳朝にオヨぶまで禅門に予り厠て衣鉢伝授する者」等云云、補注に云く「衣鉢伝授とは達磨を指す」等云云、止の五に云く「又一種の禅人乃至盲跛の師徒二倶に堕落す」等云云、止の七に云く「九の意世間の文字の法師と共ならず、事相の禅師と共ならず、一種の禅師は唯観心の一意のみ有り或は浅く或は偽る余の九は全く此無し虚言に非ず後賢眼有らん者は当に証知すべきなり」、弘の七に云く「文字法師とは内に観解無くして唯法相を構う事相の禅師とは境智を閑わず鼻膈に心を止む乃至根本有漏定等なり、一師唯有観心一意等とは此は且く与えて論を為す奪えば則ち観解倶に闕く、世間の禅人偏えに理観を尚ぶ既に教を諳んぜず観を以つて経を消し八邪八風を数えて丈六の仏と為し五陰三毒を合して名けて八邪と為し六入を用いて六通と為し四大を以つて四諦と為す、此くの如く経を解するは偽の中の偽なり何ぞ浅くして論ず可けんや」等云云、止観の七に云く「昔ギョウ洛の禅師名河海に播き住するときは四方雲の如くに仰ぎ去るときは阡陌群を成し隠隠轟轟亦何の利益か有る、臨終に皆悔ゆ」等云云、弘の七に云く「ギョウ洛の禅師とはギョウは相州に在り即ち斉魏の都する所なり、大に仏法を興す禅祖の一・其の地を王化す、時人の意を護りて其の名を出さず洛は即ち洛陽なり」等云云、六巻の般泥オン経に云く「究竟の処を見ずとは彼の一闡提の輩の究竟の悪業を見ざるなり」等云云、妙楽云く「第三最も甚だし転識り難きが故に」等、無眼の者・一眼の者・邪見の者は末法の始の三類を見るべからず一分の仏眼を得るもの此れをしるべし、向国王大臣婆羅門居士等云云、東春に云く「公処に向い法を毀り人を謗ず」等云云、夫れ昔像法の末には護命・修円等・奏状をささげて伝教大師を讒奏す、今末法の始には良観・念阿等偽書を注して将軍家にささぐ・あに三類の怨敵にあらずや。
 第三類の怨敵は、法華経に次のように説かれている。
 「あるいは人里離れた静かな所に、粗末な袈裟・衣をつけて閑静な座にいて、在家の人たちに法を説いて、世間から敬われる姿はあたかも六神通を得た聖者のようである」等と。
 6巻本の般泥オン経には、次のようにある。「阿羅漢に似た一闡提の者があって、悪業を行ずる。これと反対に、一闡提に似た阿羅漢があって、慈悲の心を起こすであろう。
 『阿羅漢に似た一闡提がある』というのは、その者たちが大乗経を謗るということである。
 『一闡提に似た阿羅漢』とは、声聞を謗り、卑しめて、広く大乗の教えを説く者である。そして衆生に語っていうには、『私は汝たちとともにこれ菩薩である。理由はなぜか。一切の人々には皆、仏性(仏の性分)があるからである』と。しかし、それを聞いた衆生は、かえって一闡提だと言うだろう」と。
 涅槃経には、次のようにある。「私(釈尊)が入滅した後、教えが形骸化した時代において、次のような僧が現れるであろう。
 それは、形は戒律をたもっているように見せかけて、少しばかり経文を読み、食べ物をむさぼって我が身を養っている。
 その僧は、袈裟を身にまとっているけれども、信徒の布施を狙うありさまは、猟師が獲物を狙って、細めに見て静かに近づいていくようであり、ネコがネズミをとらえようとしているようなものである。
 そして、常に『自分は羅漢の悟りを得た』と言うであろう。
 外面は賢人・善人のように装っているが、内面は信徒の布施をむさぼり、正法をたもつ人に嫉妬心を強くいだいている。
 法門のことなど質問されても、答えられないありさまは、ちょうど唖法の修行で黙り込んでいる婆羅門たちのようである。
 実際には、正しい僧侶でもないのに、僧侶の姿をしており、邪見が非常に盛んで、正法を謗るであろう」と。
 妙楽は、「第3の僣聖増上慢の迫害は、最も甚だしい。第一類より第二類、第二類より第三類がより一層、正体を見抜きにくいからである」(『法華文句記』)と言っている。
 『東春』には、「第3に『或有阿練若』から下の3偈が僭聖増上慢で、この出家者のところに一切の悪人が集まるのである」等といっている。
 『東春』にある、「出家者のところに一切の悪人が集まる」等というのは、今の世の日本国には、いずれの所の出家者であろうか。比叡山か、園城寺か、東寺か、奈良の諸寺か、建仁寺か、寿福寺か、建長寺か、よくよくたずね考えるべきである。
 比叡山延暦寺の僧たちが出家の頭に甲胃を身につけているのを指すべきであろうか。園城寺の僧たちが五分法身(仏・阿羅漢がそなえている五つの功徳を有する身)の膚に、鎧・杖をまとっているのをいうべきであろうか。
 しかし彼らは、経文に「袈裟・衣をつけて閑静な座について」と指摘しているのには似ていないし、「世間に敬われること六神通を得た聖者のようである」と、人は思っていない。
 また、彼らを「より一層、正体を見抜きにくいからである」というべきであろうか。それは考えにくい。
 こうしてみると、第三類の怨敵は、京都では聖一ら、鎌倉では良観らに似ている。
 こう言われたからといって、人をうらんではならない。眼があるなら、経文に我が身を合わせてみよ。
 『摩訶止観』巻1には、「止観の明静なることは前代にいまだ聞かないところである」とある。
 『止観輔行伝弘決』の1に、「中国・後漢の明帝が夜、夢を見て、仏教が中国へ伝来してから、陳朝におよぶまで、禅門にまじわって師から弟子へと、仏教を受け継ぐ証しとして衣と鉢を伝える者たちがいた」とある。
 『法華三大部補註』には、「衣鉢を伝授する者とは、達磨からの流れを指す」とある。
 『摩訶止観』巻5には、止観を説くに値しない人の例が挙げられ「禅を修行するある種の人は、両極に偏った教えに執着し、その結果、そうした両極に偏った師弟は、ともに堕落して仏道から外れる」とある。
 同じく『摩訶止観』巻7に、「(天台自身が明かした、仏法を理解するための10種の、心得のうち)9種の意は、『文字の法師(世間の文字や理論ばかりに執着する法師)』が立てる意とも違うし、『事相の禅師(座禅の形式ばかりにとらわれている禅師)』が立てる意とも異なるのである。
 1種の禅師は、(10の心得のうち)ただ観心の1種だけは修行する。その観心も、あるいは浅く、あるいは偽っている。他の9種の心得は全く見られない。
 以上述べたことは決して虚言ではない。後世の賢人で眼ある者は、まさにこれをはっきりと知るにちがいない」と。
 妙楽は『止観輔行伝弘決』巻7に、次のように言っている。
 「『文字の法師』とは、内心に智慧をもって経教の義意を理解しようとするのでなく、ただ教えの解釈に終始する者をいう。『事相の禅師』とは、境智ということをなおざりにし、呼吸法などの形ばかりに気をとられている者をいう。これらの座禅は、外道の根本の修行である不完全な瞑想行と同じで、煩悩を断つことはできない。
 『1種の禅師は、ただ観心の1種だけは修行する』というのは、これは一応、仮に認めた言い方であり、厳しくいえば、観心の修行も教相の理解も、ともに欠いているということである。
 世間の禅人は、ひたすら真理を観ずることのみを尊び、少しも教えを習おうとしない。
 観心によって経文を解釈するなどといって、たとえば八邪と八風を合わせて一丈六尺の仏としたり、五陰と三毒をあわせて名づけて八邪であるとしたり、六入をもって六通としたり、四大をもって四諦としている。
 このような経文の解釈法は、偽りの中の偽りである。あまりに浅すぎて、論ずることもできない」と。
 『摩訶止観』巻7に、「昔、ギョウ洛の禅師(達磨)は、その名は国を越えて広く行き渡り、とどまる時は四方から人々が雲のように集まってきて仰ぎ、去る時は別れを惜しんで多くの人が群れをなし、遠くまで音が響くような賑わいであったが、なんの利益があったであろうか。臨終の時には、皆後悔した」とある。
 妙楽はこれについて、『止観輔行伝弘決』の7に、「『ギョウ洛の禅師』とは、ギョウは相州にあって斉や魏が都を置いたところである。この禅師はおおいに仏教を興隆させ、禅宗の祖として、その地を教化した。天台は当時の人たちの意を守ってその名を出していない。『洛』とはすなわち洛陽である」と言っている。
 6巻本の般泥オン経には、「究極のところを見ないとは、かの一闡提の輩がつくる究極の悪業、すなわち法華経誹謗が底しれず深くて見えないことである」とある。
 妙楽は「第三類の僭聖増上慢は、最も悪質である。第一類より第二類、第二類より第三類というように、ますますその謗法がわかりにくいからである」と言っている。
 仏教に無知な者や、仏教の一部分しか知らない者や、邪見の者は、末法のはじめの三類の強敵を見分けることができないであろう。
 ただ、一分の仏眼を得た者が、これを知ることができるのである。
 法華経には、「国王・大臣・高僧や社会の有力者たちに向かって」とあり、これについて『法華文句東春』には、「公の立場の者(権力者)に向かって正法を謗り、その行者の悪口を言う」と解釈している。
 昔、像法時代の末には、護命や修円ら(法相宗の僧)が奏状を朝廷にささげて、伝教大師を無実の罪で訴えた。
 今、末法のはじめには、良観や念阿らが偽書をつくって、将軍家にささげている。これこそ三類の怨敵ではないだろうか。

 僣聖増上慢とは、世間の人からは聖人のごとく尊敬されているが、内心は貪欲が強く、いつも俗世間のことを思っていて、権力と癒着して、正法を持つ人を誹謗し、迫害する人。
 大聖人の時代は、京都の聖一、鎌倉の良観、浄土宗の念阿などが、それにぴったり当てはまる。



19:30:00

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