2011/09/10  青年教学1級 開目抄第43段「正しく法華経の行者なるを顕す」

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 日蓮以外に法華経の行者がいるのか。

第43段「正しく法華経の行者なるを顕す」
 仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・いかがせん・いかがせん、抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家・武家に奏する・誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし、日蓮は法華経の行者にあらず天これを・すて給うゆへに、誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん、仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし
 仏の言葉が偽りでないので、三類の怨敵は、すでに国中に充満している。
 しかし、仏の金言が破れるということであろうか、法華経の行者が見当たらない。これは一体どうしたらよいのだろうか。どうしたらよいのだろうか。
 そもそも、どの人が法華経のために多くの俗人に悪口をいわれ、ののしられているだろうか。どの僧が刀で切り付けられ、杖で打たれただろうか。どの僧が法華経の故に公家や武家に訴えられただろうか。どの僧が「しばしば所を追われる」(勧持品)との文のままに度々、流罪にあっただろうか。
 日蓮以外に、日本国でこのような人を取り出そうとしても、他に人はいない。
 ところが、日蓮は法華経の行者ではない。なぜなら、天が見捨てておられるからである。
 一体、今の世で、だれを法華経の行者として、仏の言葉を真実の言葉として証明できるのか。
 釈尊と提婆達多とは、身とその影のような関係である。いつの世に生まれても常に一緒である。聖徳太子と、それに敵対した物部守屋とは、蓮華の花と実が同時に成るように、同時代に生まれた。
 これと同じく、法華経の行者がいれば、必ず三類の怨敵が現れる。
 三類の怨敵は、すでにいる。法華経の行者は一体、だれであろうか。探し求めて師とすべきである。
 法華経の行者にあうことは、一眼の亀が浮木にあうようにまれなことである。

 日蓮以外に、現実に、三類の強敵からの迫害を受けている人がいるだろうか。
 諸天の加護がないからといって、日蓮が法華経の行者でないとすれば、釈尊の金言を破ることになってしまう。
 三類の強敵がいるからには、必ず法華経の行者はいる。
 その人を求めて師とせよ。



20:30:00

コメント

Posted on 2011/09/15 17:13:49 by JunkDark

予想問題

法華経の行者あらば必ず(     )あるべし、三類はすでにあり(     )は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし

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