2011/09/12 青年教学1級 開目抄第44段「行者値難の故を明かす」
法華経の行者が難にあう3つの訳。
法華経の行者を諸天が守護するはずだから、日蓮を法華経の行者と言うことはできないという疑いを晴らしてあげよう。
そもそも不軽品などには、法華経の行者が迫害されることが明確に書いてある。
それに、釈尊だって、目連だって、その後の法華経の後継者だって、迫害されたり、殺されたりした。
彼らが法華経の行者ではないとでも言うのか。
<法華経の行者を迫害しても現罰がない理由>
1.謗法の罪をもっている行者を迫害した場合(自分に原因がある)
つまり、何の罪もない人を迫害すれば、現罰は出るけど、謗法の罪を持っている人は、 その人自身が迫害される理由を持っているから、迫害を加える人には現罰が出ない。
2.誹謗した人が地獄に堕ちることが決まっている場合(相手に原因がある)
すごい悪人でなければ、それ以上やると本当に地獄に行っちゃうよ、との瞥告の意味で現罰が出る。
しかし、もう完全に地獄行きが決まっている人は、今さら警告を与えてもしょうがないので、現罰が出ない。
3.国全体が謗法で、諸天善神が去ってしまった場合(環境に原因がある)
一国が謗法と化したときは、諸天善神がこの国を捨て去ってしまっている。
そのため、法華経の行者への加護がなく、誹謗者への現罰も出ない。
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第44段「行者値難の故を明かす」有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり、此の経に云く「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わざらん」又云く「若し人悪罵すれば口則閉塞す」等、又云く「現世には安穏にして後・善処に生れん」等云云、又「頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝の如くならん」又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等又云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん」等云云、答えて云く汝が疑い大に吉しついでに不審を晴さん、不軽品に云く「悪口罵詈」等、又云く「或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、涅槃経に云く「若しは殺若しは害」等云云、法華経に云く「而かも此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し」等云云、仏は小指を提婆にやぶられ九横の大難に値い給う此は法華経の行者にあらずや、不軽菩薩は一乗の行者といはれまじきか、目連は竹杖に殺さる法華経記ベツの後なり、付法蔵の第十四の提婆菩薩・第二十五の師子尊者の二人は人に殺されぬ、此等は法華経の行者にはあらざるか、竺の道生は蘇山に流されぬ法道は火印を面にやいて江南にうつさる・此等は一乗の持者にあらざるか、外典の者なりしかども白居易北野の天神は遠流せらる賢人にあらざるか、事の心を案ずるに前生に法華経・誹謗の罪なきもの今生に法華経を行ずこれを世間の失によせ或は罪なきをあだすれば忽に現罰あるか・修羅が帝釈をいる金翅鳥の阿耨池に入る等必ず返つて一時に損するがごとし、天台云く「今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り」等云云、心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云、不軽品に云く「其の罪畢已」等云云、不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり、又順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり、涅槃経に云く「迦葉菩薩仏に白して言く世尊・仏の所説の如く大涅槃の光一切衆生の毛孔に入る」等云云、又云く「迦葉菩薩仏に白して言く世尊云何んぞ未だ菩提の心を発さざる者・菩提の因を得ん」等云云、仏・此の問を答えて云く「仏迦葉に告わく若し是の大涅槃経を聞くこと有つて我菩提心を発すことを用いずと言つて正法を誹謗せん、是の人即時に夜夢の中に羅刹の像を見て心中怖畏す羅刹語つて言く咄し善男子汝今若し菩提心を発さずんば当に汝が命を断つべし是の人惶怖し寤め已つて即ち菩提の心を発す当に是の人是れ大菩薩なりと知るべし」等云云、いたうの大悪人ならざる者が正法を誹謗すれば即時に夢みて・ひるがへる心生ず、又云く「枯木・石山」等、又云く「ショウ種甘雨に遇うと雖も」等・又「明珠淤泥」等、又云く「人の手に創あるに毒薬を捉るが如し」等、又云く「大雨空に住せず」等云云、此等多くの譬あり、詮ずるところ上品の一闡提人になりぬれば順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし例せば夏の桀・殷の紂の世には天変なし重科有て必ず世ほろぶべきゆへか、又守護神此国をすつるゆへに現罰なきか謗法の世をば守護神すて去り諸天まほるべからずかるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし還つて大難に値うべし金光明経に云く「善業を修する者は日日に衰減す」等云云、悪国・悪時これなり具さには立正安国論にかんがへたるがごとし。ある人が次のように言っていた。今の世に三類の強敵は、ほぼ現れたといってよい。しかし、法華経の行者はいない。あなたを法華経の行者といおうとすれば、法華経の経文と大きな違いがある。
この経には次のようにある。
まず「天の諸の童子がきて、法華経の行者に仕えるであろう。(このため)行者に害を加えようとしても、刀や杖も役に立たず、毒も害することができないであろう」(安楽行品)とある。
また「もし人が法華経の行者を口悪くののしれば、口は閉じふさがってしまうであろう」(同品)とある。
また「法華経を持つ人は、現世は安穏であり、後生は善いところに生まれるであろう」(薬草喩品)とある。
また「(法華経を持つ人を悩ます者は)頭が七つに破れて阿梨樹の枝のようになるであろう」(陀羅尼品)とある。
また「また(法華経を持つ者は)現世において、その福徳の果報を得るであろう」(普賢品)とある。
また「もしまた法華経を受持する者を見て、その人の過ちや悪を取り出して指摘するならば、たとえそれが事実であっても、または事実でなくとも、この人は現世において重病に苦しむであろう」(同品)とある。
答えていうには、あなたの疑いは大変にもっともである。この機会に不審を晴らそう。
不軽品には「(法華経の行者は)悪口され、ののしられる」等とある。
また同品には「あるいは杖や棒で打たれたり、瓦や石を投げつけられたりする」とある。
涅槃経には「殺されたり、害されたりする」とある。
法華経には、「しかも法華経を弘通する者には、釈尊の在世ですら怨みやねたみを抱くものが多い」(法師品)とある。
釈尊は提婆達多から命をねらわれて、足の小指を傷つけられるなど、九つの大難にあわれた。これは仏が法華経の行者でないということなのだろうか。
不軽菩薩は、一乗(法華経)の行者といえないということだろうか。
目連尊者は、竹杖外道に殺された。これは法華経で成仏の記別を受けた後である。
付法蔵の第14の提婆菩薩と第25の師子尊者の2人は、ともに人に殺された。これらは法華経の行者ではないのだろうか。
中国でも、竺の道生は、蘇山に流された。法道は火印を顔に押されて江南に流罪された。これらは、一乗の教えを持った人ではなかったか。
外典の人であるが、白居易や、北野天神として祭られている菅原道真は、遠方へ流罪された。これらの人は賢人ではないということか。
矛盾するように見えるこれらのことの意味を考えると、まず、前世に法華経誹謗の罪がない者が今世で法華経を行じている場合、これを世間の上のあやまちにこと寄せたり、あるいは罪もないのに迫害すれば、たちまちに現罰があるであろう。
これは、阿修羅が帝釈に矢を射たり、金翅鳥が竜を食べようとして阿耨池に入ったのが、必ずたちまちにその報いを受けてその身を損なったようなものである。
天台大師は「今の自身の病苦は皆、過去世(の業)による。今生に行っている福徳を得るための修行は、未来世に報いがある」(『法華玄義』)と 述べている。
心地観経には「過去世に作った因を知りたいと思うなら、その現在における結果を見よ。未来世の結果を知ろうと思うなら、その現在の因を見よ」とある。
不軽品には、「その罪が終えおわって」とある。不軽菩薩は、過去世に法華経をそしった罪があるので、瓦礫を投げつけられるなどの難を受けたという意味である。
また、次の生で必ず地獄に堕ちると決まっている者は、重罪をつくっていても現罰を受けない。一闡提の人がこれである。
(必ずしも地獄に堕ちると決まっていない人については)涅槃経には、次のような問答がある。「迦葉菩薩が仏に申しあげていうには、世尊よ、仏が説かれているように、大涅槃の光は一切衆生の毛孔に入るだろう、と」。また、さらに「迦葉菩薩が仏に申しあげて言うには、世尊よ、どうしていまだ菩提を求める心を起こしていない者が、菩提の因を得ることができるのでしょうか、と」等と。
仏がこの問いに答えていうには「仏が迦葉に告げていわれる、もし(ある人が)この大涅槃経を聞きながら、私は菩提を求める心を起こさないしといって、正法を誹謗したとする。この人は、ただちにその夜、夢の中で羅刹の姿を見て、心中におそれの気持ちを起こした。羅刹が語っていうには、つたないかな、善男子よ、お前が今、もし菩提心をおこさなければ、お前の命を断つであろう、と。この人は、おじ恐れて、目覚めてからただちに菩提心をおこした。まさにこの人は大菩薩であると知りなさい」等とある。
このように、はなはだしい大悪人でない者は、正法を誹謗すれば、即座に夢をみて反省する心が生まれると述べているのである。
(これに対し一闡提については)「枯れ木には花が咲かず、石の山にも草木ははえない」、また「炒った種は甘雨(恵みの雨)にあっても芽を出さない」、また「清水に変える力のある珠を入れても泥のままである」、また「人の手に傷があるのに毒薬を手にするようなものだ」、また「大雨は空にとどまらない」──。
これら多くの譬喩をもって示されるように、結局、はなはだしい一闡提人になってしまった場合は、次の生で必ず無間地獄に堕ちることになっているので、今世での現罰はない。
これは例えば、中国・夏の桀王、段の紂王の世には、天変地異はなかった。重い罪のため、必ずその王朝が滅びることが定まっていたためであろう。
また、守護の諸天善神がこの国を捨ててしまっているゆえに、現罰がないのか。
謗法の世は守護の善神も捨てさり、諸天が守ることはない。このため、正法を行じる者に対し、諸天が守護の働きを顕さず、かえって、正法の行者は大難にあうのである。
金光明経には「善業を修める人は日々に減少する」とある。これが悪国・悪時のさまである。
具体的には、立正安国論で考察した通りである。
法華経の行者を諸天が守護するはずだから、日蓮を法華経の行者と言うことはできないという疑いを晴らしてあげよう。
そもそも不軽品などには、法華経の行者が迫害されることが明確に書いてある。
それに、釈尊だって、目連だって、その後の法華経の後継者だって、迫害されたり、殺されたりした。
彼らが法華経の行者ではないとでも言うのか。
<法華経の行者を迫害しても現罰がない理由>
1.謗法の罪をもっている行者を迫害した場合(自分に原因がある)
つまり、何の罪もない人を迫害すれば、現罰は出るけど、謗法の罪を持っている人は、 その人自身が迫害される理由を持っているから、迫害を加える人には現罰が出ない。
2.誹謗した人が地獄に堕ちることが決まっている場合(相手に原因がある)
すごい悪人でなければ、それ以上やると本当に地獄に行っちゃうよ、との瞥告の意味で現罰が出る。
しかし、もう完全に地獄行きが決まっている人は、今さら警告を与えてもしょうがないので、現罰が出ない。
3.国全体が謗法で、諸天善神が去ってしまった場合(環境に原因がある)
一国が謗法と化したときは、諸天善神がこの国を捨て去ってしまっている。
そのため、法華経の行者への加護がなく、誹謗者への現罰も出ない。
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