2011/09/25 青年教学1級 御義口伝「第十九毎自作是念の事」
大慈悲の広宣流布の念。
「御義口伝に云く毎とは三世なり」と。
「毎」とは、三世常住の義である。
「自」とは、十界すべての衆生を意味する。
「作」とは、本来ありのままの「無作本有」の「作」である。
「是念」とは、念ずるものの究極の南無妙法蓮華経である。
妙法の当体という立場から広く論ずれば、この文でいう「自」とは「万法己己の当体」となる。
この「念」のいずれもが「自受用報身の智」のあらわれであるということになる。
「自受用報身の智」とは、十界の衆生の一念一念の働きは、妙法を自分の境涯なりに受け用いる智慧を表しているので、妙法の力を自在に受用する自受用報身の智慧の一分にあたるのである。
「御義口伝」では「毎自作是念」の文について、十界全体の立場から釈されていることに特徴がある。
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「第十九毎自作是念の事」御義口伝に云く毎とは三世なり自とは別しては釈尊惣じては十界なり、是念とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念なり、作とは此の作は有作の作に非ず無作本有の作なり云云、広く十界本有に約して云わば自とは万法己己の当体なり、是念とは地獄の呵責の音・其の外一切衆生の念念・皆是れ自受用報身の智なり是を念とは云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念なり云云。(寿量品の「毎自作是念〈毎に自ら是の念を作す〉」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
「毎」とは三世である。
「自」とは別しては釈尊を指し、総じては十界のことである。
「是念」とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念である。
「作」とは、この「作」は有作の「作」ではなく、無作本有の「作」である、と。
(以上は仏の一念に約したが)広く十界本有に約していえば、「自」とは万法それぞれの当体である。
「是念」とは、地獄の呵責の音や声や、そのほか一切衆生の念々が皆、自受用報身の智である。これを念というのである。
今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念である、と。
「御義口伝に云く毎とは三世なり」と。
「毎」とは、三世常住の義である。
「自」とは、十界すべての衆生を意味する。
「作」とは、本来ありのままの「無作本有」の「作」である。
「是念」とは、念ずるものの究極の南無妙法蓮華経である。
妙法の当体という立場から広く論ずれば、この文でいう「自」とは「万法己己の当体」となる。
この「念」のいずれもが「自受用報身の智」のあらわれであるということになる。
「自受用報身の智」とは、十界の衆生の一念一念の働きは、妙法を自分の境涯なりに受け用いる智慧を表しているので、妙法の力を自在に受用する自受用報身の智慧の一分にあたるのである。
「御義口伝」では「毎自作是念」の文について、十界全体の立場から釈されていることに特徴がある。
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