2010/10/16 2010年度任用試験 番外編
教学入門 番外編
はじめに
大聖人は、中世・鎌倉時代(1222(貞応1)年)に生まれました。
歴史が苦手な方は、年号が出て来るだけでウンザリかも知れませんが、この教学試験を機に少しでも学んで参りましょう。
この番外編は教学テキストではありません、私個人の趣味や見方を盛り込んだ内容ですので、あらかじめご承知置き下さい。
教材の「大白蓮華」の、「日蓮大聖人の御生涯」が本題です。
時代を覚える為のサブテキストとしてご活用ください。
時代背景の前書きですので、すっとばして頂いて結構です。(笑)
当時の時代背景
日蓮大聖人は、鎌倉時代の方です。
平安末期からの武家の登場、公家政治から武家政治体制への変革期に当ります。
平清盛(たいらのきよもり)が地頭や国守護人を設置し、武家政治(平氏政権)始めますが、その前、平安時代に武家政治の基礎となる出来事があります。
陸奥でおきた「前九年の役(ぜんくねんのえき)」「後三年の役(ごさんねんのえき)」です。
前九年の役は1051(永承6)年から1062(康平5)年までの12年にわたる戦いで、奥州豪族・安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らの反乱を源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)らが平定した戦いです。
後三年の役は1083(永保3)年から1087(寛治1)年の豪族清原氏内部の相続争いが発端の内乱であったが、前九年の功労で陸奥守として下向していた源義家が清原清衡(きよひら、後の藤原清衡)とともに、異父弟清原家衡(きよはらのいえひら)・武衡(たけひら)を金沢柵に下して平定します。
これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築きます。
このあたりは、NHKの大河ドラマ「炎立つ」で、ご存じの方もいるとは思います。
大聖人も上野殿御返事などで、源義家、安倍貞任の故事を引かれていますね。
その後、義家の孫の為義(ためよし)は保元の乱(1156(保元1)年)では崇徳上皇方について敗れ、その息子の源義朝(よしとも)は平清盛と対立し、平治の乱(1159(平治1)年)を起こして敗れ東国に逃れる途中、尾張で家人であった長田忠致(おさだただむね)に殺さました。
この平治の乱で勝利をおさめた清盛は源氏の主だった武将をことごとく処刑します。
まだ子供であった頼朝(よりとも)・義経(よしつね)ら兄弟と従弟の義仲(よしなか)ら数名を助命しました。これが禍根を残すことになりました。
義朝の三男の頼朝は伊豆に流され、平家一族の北条時政(ほうじょうときまさ)に預けられ監視下に置かれます。
北条氏は頼朝の力量を見込み、娘の政子(まさこ)を嫁がせました。
伊豆で頼朝は再起を伺います。
義朝は、まだ源平の力が拮抗していた頃に、京都で常盤(ときわ)という絶世の美女との間に義経を授かります。
常盤御前は、絶世の美女として有名です。
源義経は義朝の九男として生まれ、幼名で牛若丸・九郎・遮那王(しゃなおう)とも呼ばれました。
平治の乱後、幼かった義経は京都鞍馬寺に預けられ、のち奥州平泉の藤原清衡の息子、藤原秀衡(ひでひら)の保護を受けます。
源義朝と常盤御前との子である義経は、類まれなる美少年と言われてます。
1180(治承4)年4月9日、源頼政(よりまさ、摂津源氏で頼朝らとは遠く離れた血筋)が以仁王(後白河上皇の皇子)の平家追討の宣旨を得て挙兵します。
この兵は準備不足もあり、すぐに制圧されてしまいます。
頼政は10円玉の意匠で有名な平等院で自害します。
しかし8月17日頼朝はそれに呼応して挙兵し、兄頼朝の挙兵に応じて義経は平泉から馳せ参じます。
この後更に9月7日源義仲(よしなか、または木曽義仲)が木曽で挙兵し、10月21日に源義経が頼朝に合流します。
翌年閏2月4日平清盛が病没すると次第に戦況は源氏の優勢となっていきます。
そして1183(寿永2)年7月28日、ついに源義仲が京都に入城。
平家は西海に落ちていきます。翌年1月10日源義仲は征夷大将軍に任じられます。
しかし義仲の兵の軍紀は良くなく、京都で乱暴・狼藉を働く者がいました。
そこで頼朝は後白河上皇の意向も受けて義経を京都に派遣します。
義仲の兵を追い出して、これを倒します。
頼朝は更に、義経に西海の平氏の壊滅を指示します。
義経は天才的な戦術で、平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦で破って平家を滅亡させます。
頼朝は清盛が自分らを助命したことから源氏の再起を招き平家を倒しました、同じ事を恐れた頼朝は一切情けを掛けず徹底的に平家一族を抹殺します。
その後、頼朝と対立した義経は奥州藤原秀衡のもとに逃れますが、その子泰衡に襲われ衣川で自刃します。
時に1189(文治5)年閏4月30日。
悲劇的な生涯が伝説や文学作品の素材となって後世に伝えられる事になります。
鎌倉幕府の開幕
義経を排除し支配権を獲得した頼朝は1192(建久3)年7月12日、坂上田村麻呂・藤原忠文・源義仲につづく史上4人目の征夷大将軍に就任しました。
征夷大将軍とは天皇から直々に節刀を授けて任命されるものであり、夷(朝敵)を倒すために非常大権を与えられた武士の最高位の称号です。
そして頼朝はこの称号を拠り所にして天皇の代理者であることを主張し、本拠地と定めた鎌倉に政治を行うための「幕府」を設けます。
頼朝は清盛の平氏政権を手本とし、側近の大江広元を中心にした政務執行体制を整備しました。
最初の頃、頼朝に付き従ってきた武士たちは「自分たちは頼朝様には従うが、なんのために大江広元ごときに従わねばならないのだ」と不平を唱えたともいいます。
しかし頼朝はこの「政治体制」を強引に施行します。
頼朝が作った武家政治体制はその後明治維新まで約680年近く続くのです。
彼は政治家としてのセンスも優れていたのでしょう。
一方では頼朝は源氏の今後の繁栄のため、娘の大姫の後鳥羽天皇への入内(天皇への嫁入り)の話を進めますが、これは1196(建久7)年11月25日のクーデター(建久七年の政変)に巻き込まれてうやむやになってしまいます。
そしてその2年後の1198(建久9)年に頼朝は落馬します。
この怪我がもとで年明けて1月13日死去します。(死因は諸説あり)
享年53歳でした。
このあと鎌倉幕府の源氏の血は頼朝の息子の頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)で途絶えてしまいます。
頼朝の死後、頼家は祖父北条時政の陰謀により修善寺に幽閉殺害されます。
弟の実朝は時政の執政で実権もなく不遇のうちにこれまた暗殺されてしまいます。
その時政も幕府内部で権力を振い横暴さがエスカレートし、終には娘の政子、息子の北条義時(よしとき)によって引退に追い込まれます。
政権は執権政治(しっけんせいじ)の形で時政から義時へと受け継がれていきます。
平家を滅ぼし征夷大将軍となった源頼朝の後を継いだのが皮肉にも、平氏の一族であった北条家でした。
元寇の背景
鎌倉時代というと、蒙古襲来が印象深いですね。
モンゴル帝国はチンギス・ハーンが建国し、朝鮮半島(高麗)を平定します。
チンギスの孫のフビライ・ハーンが日本への勢力拡大を図りました。
これが元寇です。
文永の役、弘安の役と、二度にわたって北九州に来寇し、日本勢との戦になりました。
不思議な事に文永、弘安の両役とも、元軍は撤退・敗退してしまいます。
この故事が「日本の危機には神風が吹く」という伝承になり、実に700年も後の第二次世界大戦での、あの悲惨な神風特攻隊へと繋がっていきます。
なぜ、あの広大な中国大陸を平定した強大な蒙古が文永、弘安と撤退・大敗したか不思議ではないでしょうか?
実はこの襲来の主力勢は元軍ではなく、殆ど高麗や南宋の人々なのです。
元のフビライ・ハーンは日本に使節を送る事にします。
これは元からの日本の服従を促す使節でした。
『元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝(チョウ・イ)の進言によって行われたが、高麗王・世子諶(忠烈王)も執拗に世祖に対し日本侵攻を説きます。
元寇の発端は高麗にあったのです。
『元史高麗伝』によると当初は3つの案が検討されていた。
1.日本は島国で攻略が難しいので、高麗に兵を置き、国書により属国にする。この案では損害も出ず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
2.まず南宋を攻略し、服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき、蒙人高官が支持していた。
3.高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。
『高麗史』及び『元史』によれば、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、高麗を経由する東路からの日本侵攻が決定された。
忠烈王がなぜ、フビライに軍を勧めたかは、忠烈王の生い立ちにも関係する。
忠烈王の祖父・高宗の時代に高麗はモンゴル帝国に服従し、モンゴルの属国になってしまいます。
それに伴い皇太子であった父・元宗もモンゴルの人質となる。
以降、高麗は皇帝から王へと格下げされる。皇太子も、世子に格下げになっている。
そんな人質生活の中で育った忠烈王は、熾烈な内乱に晒される。
叔父の王ショウ(さんずいに昌)がクーデターを起こす。
また三別抄(レジスタンス)の内乱も起こっていた。
このクーデター・内乱を元の軍事力で平定するが、その後は元宗・忠烈王は元の後ろ楯がないと国内を掌握出来なくなる。
高麗王は元に対し、日本侵攻で武勲を立てる必要があったようです。
1267(文永4)年から、元や高麗は日本に使節を送るが、1回目と2回目は黙殺をする。
1269(文永6)年には、使節がクビライ政権の中書省からの牒状と高麗の国書を、携えて三度やって来た。
大宰府守護所は使節一行を対馬に留めさせ、使節がもたらした牒状を鎌倉に送付し、鎌倉幕府側はこれを京都の朝廷へ転送します。
朝議では両書状について検討されたが、蒙古側の通交の要求を拒否する事に決し、拒絶の返牒を出す事にします。
これにもとづいて文書博士・菅原長成に文案を起草させます。
しかし、鎌倉幕府側はこの拒否の返牒も出すことも取り止めて使節を追い返すよう上奏します。
朝廷は幕府の提案を受け入れることとなり、蒙古・高麗からの使節は三度返牒を得られず帰還することとなります。
何度使節を送っても返牒がないので、とうとう元は日本侵攻を決定します。
クビライは高麗に命じて日本へ侵攻する軍船を作らせ、膨大な戦費と兵力を拠出させます。
高麗は大小900隻と言われる船を、わずか半年の突貫工事で完成さなければならなかったのです。
もともと、騎馬民族の元にしてみれば、海や船は未経験の代物だったのです。
そうなると水夫や造船技術は、高麗頼みになるのは致し方なかったようです。
これらの動向を察知した鎌倉幕府は、1272(文永9)年に異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏(武藤氏)や大友氏に対して指揮を命じています。
文永の役
1272(文永9)年11月、文永の役はどのような戦いだったのだろうか。
兵力は蒙古・漢軍25,000人、高麗軍8,000人、高麗水夫6,700人 計39,700人。
蒙古・漢軍の中には非戦闘員が多かったようで、実質的に文永の役は高麗軍が主力でした。
一方日本軍は記録が無いが、相当数の兵力で対抗したようです。
元軍は対馬や壹岐の侵攻では子供男女200人を捕虜としたが、太宰府では戦闘を終日行い、矢が尽きてしまう。
派遣軍総司令官である忽敦と高麗軍の主将である金方慶で軍議を行い撤退が決まります。
早々の撤退であったが、しかし元軍船団は高麗への帰還途中で暴風に会い難破してしまう。
高麗史の記録では文永の役での不帰還者は13,500人に及んだようです。
34%の不帰還は、暴風での難破があったにしても割の良い物ではなかったのです。
最近の研究では、文永の役は戦闘の規模や人員内容から、威力偵察の派兵との見方がなされています。
文永の役後、元軍は当初の目標の南宋の平定に向けられます。
日本は一先ず、元の政策からは置いておかれる事になります。
弘安の役
1275(建治1)年(元の至元12年)、クビライは再び礼部侍郎・杜世忠を正使とする使者を日本に送ります。
しかし北条時宗は、龍ノ口刑場で杜世忠以下5名を斬首に処してしまう。
これが切っ掛けで、フビライは再びの日本侵攻を決定する。
余談ですが、龍ノ口刑場は大聖人の法難で有名ですが、法難前は龍ノ口での処刑はあまり無かったようです。
開幕以来、刑場は「評定所」(今でいう裁判所、現在の鎌倉市役所付近にあった)の近くの「飢渇畠(けかちばたけ)」で行っていました。
現在の御成小学校の近く、六地蔵交差点付近に「飢渇畠」はありました。
死罪判決の罪人は「飢渇畠」まで引き出され、首を斬られていた。
当時の「飢渇畠」は地名の示すように、荒れ果てた場所であったらしいが、現在は、商店街の中にあるので意外な感じがします。
大聖人の法難まで、歴史に殆ど出て来ない「龍ノ口刑場」は以後、度々歴史に登場します。
杜世忠や第14代執権北条高時の次男・北条時行などです。
北条時行の処刑によって北条得宗家は滅亡してしまいます。
被処刑人の祟りを恐れる為に府内の刑場ではなく、府外の龍ノ口で行ったとの見方もあります。
さて、話は戻って。(笑)
1281(弘安2)年6月、弘安の役の際にも、高麗は軍船900隻建造します。
他には、元によって征服された南宋の残存艦隊3,500隻との合同艦隊が編成されます。
兵力は東路軍40,000人(蒙漢軍19,000人、高麗軍10,000人、水夫17,000人)江南軍(南宋の捕虜)100,000人 計140,000人。
高麗人・金方慶を将とし、再び日本へと軍事侵攻しました。
弘安の役では人員を増やしますが、防塁を築き準備万端の幕府側は元軍を海上に封鎖します。
責めあえぐ元軍に暴風雨が追い打ちをかけます。
こうして元軍は大敗をいたします。
元軍で帰還できた兵士は、後に解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言わてます。
全体でも生還者は3万数千人ほどでした。
幕府は浜に流れ着いた蒙・漢人や高麗人は、捕虜とせず処刑してしまいます。
逆に流れ着いた江南軍の南宋人は、保護し捕虜にします。
これは貿易で交流のあった南宋人は無理やりに、戦闘に加えられていた事を幕府は事前に知っていたようです。
保護した南宋人が住んだ所が、博多の唐人町であると言われています。
文永・弘安の役ともに、なぜ元軍が負けたのか。
・もともと海上戦闘に慣れていない。
・主力が元軍ではなく、捕虜の南宋人が主力だった。
・造船が急で荒波に耐えられなかった。
でしょうか?
14万の軍勢でも、同体異心であったから負けたのではないでしょうか?
その後
1287(弘安10)年にはフビライは3度目の日本侵攻を準備しますが、ナヤン・カダアンの乱などでうやむやになり、フビライの死で、完全に計画はなくなります。
一方、日本側も対外戦争の元寇では戦いに勝っても、分け与える領地はない状態です。
当然に論功行賞は少なく、御家人の幕府への不満が高まって行きます。
大聖人が諌めた加持祈祷を大いに行った為、その費用も幕府は御家人負担させ領地と言う形で社寺に支払います。
ここでも御家人の幕府への不満は高まっていきます。
そのお蔭で貨幣経済への、移行が進んだ側面もあります。
防塁の建設の費用や、実際の戦費の御家人の負担、非常財政の為の徳政令(神領興行、借金の帳消し)などで、国内は疲弊し鎌倉幕府滅亡の遠因になっていきます。
最後に
この様に平安末期鎌倉時代は成立以前からも戦乱が多く国内が乱れまくっています。
その上疫病・地震・異常気象が多発し、大変な世相でした。
道や都市には屍が埋葬されずに、そこら中に積まれている状態です。
ましてや1052(永承7)年から仏教界では末法に入ったと考えられていました。
大聖人が、いかに妙法を広める事が急務か訴えるのはこういった背景が大いに関係します。
と、とっても前書きが長くなりましたが、次回から本題に入ります。(笑)
19:00:00
はじめに
大聖人は、中世・鎌倉時代(1222(貞応1)年)に生まれました。
歴史が苦手な方は、年号が出て来るだけでウンザリかも知れませんが、この教学試験を機に少しでも学んで参りましょう。
この番外編は教学テキストではありません、私個人の趣味や見方を盛り込んだ内容ですので、あらかじめご承知置き下さい。
教材の「大白蓮華」の、「日蓮大聖人の御生涯」が本題です。
時代を覚える為のサブテキストとしてご活用ください。
時代背景の前書きですので、すっとばして頂いて結構です。(笑)
当時の時代背景
日蓮大聖人は、鎌倉時代の方です。
平安末期からの武家の登場、公家政治から武家政治体制への変革期に当ります。
平清盛(たいらのきよもり)が地頭や国守護人を設置し、武家政治(平氏政権)始めますが、その前、平安時代に武家政治の基礎となる出来事があります。
陸奥でおきた「前九年の役(ぜんくねんのえき)」「後三年の役(ごさんねんのえき)」です。
前九年の役は1051(永承6)年から1062(康平5)年までの12年にわたる戦いで、奥州豪族・安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らの反乱を源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)らが平定した戦いです。
後三年の役は1083(永保3)年から1087(寛治1)年の豪族清原氏内部の相続争いが発端の内乱であったが、前九年の功労で陸奥守として下向していた源義家が清原清衡(きよひら、後の藤原清衡)とともに、異父弟清原家衡(きよはらのいえひら)・武衡(たけひら)を金沢柵に下して平定します。
これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築きます。
このあたりは、NHKの大河ドラマ「炎立つ」で、ご存じの方もいるとは思います。
大聖人も上野殿御返事などで、源義家、安倍貞任の故事を引かれていますね。
その後、義家の孫の為義(ためよし)は保元の乱(1156(保元1)年)では崇徳上皇方について敗れ、その息子の源義朝(よしとも)は平清盛と対立し、平治の乱(1159(平治1)年)を起こして敗れ東国に逃れる途中、尾張で家人であった長田忠致(おさだただむね)に殺さました。
この平治の乱で勝利をおさめた清盛は源氏の主だった武将をことごとく処刑します。
まだ子供であった頼朝(よりとも)・義経(よしつね)ら兄弟と従弟の義仲(よしなか)ら数名を助命しました。これが禍根を残すことになりました。
義朝の三男の頼朝は伊豆に流され、平家一族の北条時政(ほうじょうときまさ)に預けられ監視下に置かれます。
北条氏は頼朝の力量を見込み、娘の政子(まさこ)を嫁がせました。
伊豆で頼朝は再起を伺います。
義朝は、まだ源平の力が拮抗していた頃に、京都で常盤(ときわ)という絶世の美女との間に義経を授かります。
常盤御前は、絶世の美女として有名です。
源義経は義朝の九男として生まれ、幼名で牛若丸・九郎・遮那王(しゃなおう)とも呼ばれました。
平治の乱後、幼かった義経は京都鞍馬寺に預けられ、のち奥州平泉の藤原清衡の息子、藤原秀衡(ひでひら)の保護を受けます。
源義朝と常盤御前との子である義経は、類まれなる美少年と言われてます。
1180(治承4)年4月9日、源頼政(よりまさ、摂津源氏で頼朝らとは遠く離れた血筋)が以仁王(後白河上皇の皇子)の平家追討の宣旨を得て挙兵します。
この兵は準備不足もあり、すぐに制圧されてしまいます。
頼政は10円玉の意匠で有名な平等院で自害します。
しかし8月17日頼朝はそれに呼応して挙兵し、兄頼朝の挙兵に応じて義経は平泉から馳せ参じます。
この後更に9月7日源義仲(よしなか、または木曽義仲)が木曽で挙兵し、10月21日に源義経が頼朝に合流します。
翌年閏2月4日平清盛が病没すると次第に戦況は源氏の優勢となっていきます。
そして1183(寿永2)年7月28日、ついに源義仲が京都に入城。
平家は西海に落ちていきます。翌年1月10日源義仲は征夷大将軍に任じられます。
しかし義仲の兵の軍紀は良くなく、京都で乱暴・狼藉を働く者がいました。
そこで頼朝は後白河上皇の意向も受けて義経を京都に派遣します。
義仲の兵を追い出して、これを倒します。
頼朝は更に、義経に西海の平氏の壊滅を指示します。
義経は天才的な戦術で、平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦で破って平家を滅亡させます。
頼朝は清盛が自分らを助命したことから源氏の再起を招き平家を倒しました、同じ事を恐れた頼朝は一切情けを掛けず徹底的に平家一族を抹殺します。
その後、頼朝と対立した義経は奥州藤原秀衡のもとに逃れますが、その子泰衡に襲われ衣川で自刃します。
時に1189(文治5)年閏4月30日。
悲劇的な生涯が伝説や文学作品の素材となって後世に伝えられる事になります。
鎌倉幕府の開幕
義経を排除し支配権を獲得した頼朝は1192(建久3)年7月12日、坂上田村麻呂・藤原忠文・源義仲につづく史上4人目の征夷大将軍に就任しました。
征夷大将軍とは天皇から直々に節刀を授けて任命されるものであり、夷(朝敵)を倒すために非常大権を与えられた武士の最高位の称号です。
そして頼朝はこの称号を拠り所にして天皇の代理者であることを主張し、本拠地と定めた鎌倉に政治を行うための「幕府」を設けます。
頼朝は清盛の平氏政権を手本とし、側近の大江広元を中心にした政務執行体制を整備しました。
最初の頃、頼朝に付き従ってきた武士たちは「自分たちは頼朝様には従うが、なんのために大江広元ごときに従わねばならないのだ」と不平を唱えたともいいます。
しかし頼朝はこの「政治体制」を強引に施行します。
頼朝が作った武家政治体制はその後明治維新まで約680年近く続くのです。
彼は政治家としてのセンスも優れていたのでしょう。
一方では頼朝は源氏の今後の繁栄のため、娘の大姫の後鳥羽天皇への入内(天皇への嫁入り)の話を進めますが、これは1196(建久7)年11月25日のクーデター(建久七年の政変)に巻き込まれてうやむやになってしまいます。
そしてその2年後の1198(建久9)年に頼朝は落馬します。
この怪我がもとで年明けて1月13日死去します。(死因は諸説あり)
享年53歳でした。
このあと鎌倉幕府の源氏の血は頼朝の息子の頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)で途絶えてしまいます。
頼朝の死後、頼家は祖父北条時政の陰謀により修善寺に幽閉殺害されます。
弟の実朝は時政の執政で実権もなく不遇のうちにこれまた暗殺されてしまいます。
その時政も幕府内部で権力を振い横暴さがエスカレートし、終には娘の政子、息子の北条義時(よしとき)によって引退に追い込まれます。
政権は執権政治(しっけんせいじ)の形で時政から義時へと受け継がれていきます。
平家を滅ぼし征夷大将軍となった源頼朝の後を継いだのが皮肉にも、平氏の一族であった北条家でした。
元寇の背景
鎌倉時代というと、蒙古襲来が印象深いですね。
モンゴル帝国はチンギス・ハーンが建国し、朝鮮半島(高麗)を平定します。
チンギスの孫のフビライ・ハーンが日本への勢力拡大を図りました。
これが元寇です。
文永の役、弘安の役と、二度にわたって北九州に来寇し、日本勢との戦になりました。
不思議な事に文永、弘安の両役とも、元軍は撤退・敗退してしまいます。
この故事が「日本の危機には神風が吹く」という伝承になり、実に700年も後の第二次世界大戦での、あの悲惨な神風特攻隊へと繋がっていきます。
なぜ、あの広大な中国大陸を平定した強大な蒙古が文永、弘安と撤退・大敗したか不思議ではないでしょうか?
実はこの襲来の主力勢は元軍ではなく、殆ど高麗や南宋の人々なのです。
元のフビライ・ハーンは日本に使節を送る事にします。
これは元からの日本の服従を促す使節でした。
『元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝(チョウ・イ)の進言によって行われたが、高麗王・世子諶(忠烈王)も執拗に世祖に対し日本侵攻を説きます。
元寇の発端は高麗にあったのです。
『元史高麗伝』によると当初は3つの案が検討されていた。
1.日本は島国で攻略が難しいので、高麗に兵を置き、国書により属国にする。この案では損害も出ず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
2.まず南宋を攻略し、服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき、蒙人高官が支持していた。
3.高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。
『高麗史』及び『元史』によれば、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、高麗を経由する東路からの日本侵攻が決定された。
忠烈王がなぜ、フビライに軍を勧めたかは、忠烈王の生い立ちにも関係する。
忠烈王の祖父・高宗の時代に高麗はモンゴル帝国に服従し、モンゴルの属国になってしまいます。
それに伴い皇太子であった父・元宗もモンゴルの人質となる。
以降、高麗は皇帝から王へと格下げされる。皇太子も、世子に格下げになっている。
そんな人質生活の中で育った忠烈王は、熾烈な内乱に晒される。
叔父の王ショウ(さんずいに昌)がクーデターを起こす。
また三別抄(レジスタンス)の内乱も起こっていた。
このクーデター・内乱を元の軍事力で平定するが、その後は元宗・忠烈王は元の後ろ楯がないと国内を掌握出来なくなる。
高麗王は元に対し、日本侵攻で武勲を立てる必要があったようです。
1267(文永4)年から、元や高麗は日本に使節を送るが、1回目と2回目は黙殺をする。
1269(文永6)年には、使節がクビライ政権の中書省からの牒状と高麗の国書を、携えて三度やって来た。
大宰府守護所は使節一行を対馬に留めさせ、使節がもたらした牒状を鎌倉に送付し、鎌倉幕府側はこれを京都の朝廷へ転送します。
朝議では両書状について検討されたが、蒙古側の通交の要求を拒否する事に決し、拒絶の返牒を出す事にします。
これにもとづいて文書博士・菅原長成に文案を起草させます。
しかし、鎌倉幕府側はこの拒否の返牒も出すことも取り止めて使節を追い返すよう上奏します。
朝廷は幕府の提案を受け入れることとなり、蒙古・高麗からの使節は三度返牒を得られず帰還することとなります。
何度使節を送っても返牒がないので、とうとう元は日本侵攻を決定します。
クビライは高麗に命じて日本へ侵攻する軍船を作らせ、膨大な戦費と兵力を拠出させます。
高麗は大小900隻と言われる船を、わずか半年の突貫工事で完成さなければならなかったのです。
もともと、騎馬民族の元にしてみれば、海や船は未経験の代物だったのです。
そうなると水夫や造船技術は、高麗頼みになるのは致し方なかったようです。
これらの動向を察知した鎌倉幕府は、1272(文永9)年に異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏(武藤氏)や大友氏に対して指揮を命じています。
文永の役
1272(文永9)年11月、文永の役はどのような戦いだったのだろうか。
兵力は蒙古・漢軍25,000人、高麗軍8,000人、高麗水夫6,700人 計39,700人。
蒙古・漢軍の中には非戦闘員が多かったようで、実質的に文永の役は高麗軍が主力でした。
一方日本軍は記録が無いが、相当数の兵力で対抗したようです。
元軍は対馬や壹岐の侵攻では子供男女200人を捕虜としたが、太宰府では戦闘を終日行い、矢が尽きてしまう。
派遣軍総司令官である忽敦と高麗軍の主将である金方慶で軍議を行い撤退が決まります。
早々の撤退であったが、しかし元軍船団は高麗への帰還途中で暴風に会い難破してしまう。
高麗史の記録では文永の役での不帰還者は13,500人に及んだようです。
34%の不帰還は、暴風での難破があったにしても割の良い物ではなかったのです。
最近の研究では、文永の役は戦闘の規模や人員内容から、威力偵察の派兵との見方がなされています。
文永の役後、元軍は当初の目標の南宋の平定に向けられます。
日本は一先ず、元の政策からは置いておかれる事になります。
弘安の役
1275(建治1)年(元の至元12年)、クビライは再び礼部侍郎・杜世忠を正使とする使者を日本に送ります。
しかし北条時宗は、龍ノ口刑場で杜世忠以下5名を斬首に処してしまう。
これが切っ掛けで、フビライは再びの日本侵攻を決定する。
余談ですが、龍ノ口刑場は大聖人の法難で有名ですが、法難前は龍ノ口での処刑はあまり無かったようです。
開幕以来、刑場は「評定所」(今でいう裁判所、現在の鎌倉市役所付近にあった)の近くの「飢渇畠(けかちばたけ)」で行っていました。
現在の御成小学校の近く、六地蔵交差点付近に「飢渇畠」はありました。
死罪判決の罪人は「飢渇畠」まで引き出され、首を斬られていた。
当時の「飢渇畠」は地名の示すように、荒れ果てた場所であったらしいが、現在は、商店街の中にあるので意外な感じがします。
大聖人の法難まで、歴史に殆ど出て来ない「龍ノ口刑場」は以後、度々歴史に登場します。
杜世忠や第14代執権北条高時の次男・北条時行などです。
北条時行の処刑によって北条得宗家は滅亡してしまいます。
被処刑人の祟りを恐れる為に府内の刑場ではなく、府外の龍ノ口で行ったとの見方もあります。
さて、話は戻って。(笑)
1281(弘安2)年6月、弘安の役の際にも、高麗は軍船900隻建造します。
他には、元によって征服された南宋の残存艦隊3,500隻との合同艦隊が編成されます。
兵力は東路軍40,000人(蒙漢軍19,000人、高麗軍10,000人、水夫17,000人)江南軍(南宋の捕虜)100,000人 計140,000人。
高麗人・金方慶を将とし、再び日本へと軍事侵攻しました。
弘安の役では人員を増やしますが、防塁を築き準備万端の幕府側は元軍を海上に封鎖します。
責めあえぐ元軍に暴風雨が追い打ちをかけます。
こうして元軍は大敗をいたします。
元軍で帰還できた兵士は、後に解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言わてます。
全体でも生還者は3万数千人ほどでした。
幕府は浜に流れ着いた蒙・漢人や高麗人は、捕虜とせず処刑してしまいます。
逆に流れ着いた江南軍の南宋人は、保護し捕虜にします。
これは貿易で交流のあった南宋人は無理やりに、戦闘に加えられていた事を幕府は事前に知っていたようです。
保護した南宋人が住んだ所が、博多の唐人町であると言われています。
文永・弘安の役ともに、なぜ元軍が負けたのか。
・もともと海上戦闘に慣れていない。
・主力が元軍ではなく、捕虜の南宋人が主力だった。
・造船が急で荒波に耐えられなかった。
でしょうか?
14万の軍勢でも、同体異心であったから負けたのではないでしょうか?
その後
1287(弘安10)年にはフビライは3度目の日本侵攻を準備しますが、ナヤン・カダアンの乱などでうやむやになり、フビライの死で、完全に計画はなくなります。
一方、日本側も対外戦争の元寇では戦いに勝っても、分け与える領地はない状態です。
当然に論功行賞は少なく、御家人の幕府への不満が高まって行きます。
大聖人が諌めた加持祈祷を大いに行った為、その費用も幕府は御家人負担させ領地と言う形で社寺に支払います。
ここでも御家人の幕府への不満は高まっていきます。
そのお蔭で貨幣経済への、移行が進んだ側面もあります。
防塁の建設の費用や、実際の戦費の御家人の負担、非常財政の為の徳政令(神領興行、借金の帳消し)などで、国内は疲弊し鎌倉幕府滅亡の遠因になっていきます。
最後に
この様に平安末期鎌倉時代は成立以前からも戦乱が多く国内が乱れまくっています。
その上疫病・地震・異常気象が多発し、大変な世相でした。
道や都市には屍が埋葬されずに、そこら中に積まれている状態です。
ましてや1052(永承7)年から仏教界では末法に入ったと考えられていました。
大聖人が、いかに妙法を広める事が急務か訴えるのはこういった背景が大いに関係します。
と、とっても前書きが長くなりましたが、次回から本題に入ります。(笑)
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