2011/09/24 青年教学1級 御義口伝「第三我実成仏已来無量無辺等の事」
寿量品は「末法の一切衆生」が本主。
寿量品の真の主役は、一切衆生、なかんずく末法の人々であることを明かした「御義口伝」である。
寿量品の真意を日蓮大聖人の仏法の立場から説明されていく。
まず、「我実成仏已来」の「我」とは、釈尊一人をいうのではなく、「法界の衆生」「十界己己」、つまり法界すべての衆生を指すと釈されている。
また「実」については、「実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり」と仰せられている。ここで「実」とは「まこと」「本当」の意味である。
大聖人は「成仏」の「成」とは「成る」ではなく、「開く」という意味であるとされている。
どこまでも衆生が、自らの生命の本質に目覚め、自身が無作三身如来であると開き顕すことが成仏にほかならないとの仰せである。凡夫の身のままで、究竟の仏の生命の境涯を顕す。
「仏とは此れを覚知するを云うなり」とは、「我が身が無作三身即妙法の当体である」と覚知した衆生こそが「仏」なのであるとの教えである。
続いて「已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり」と仰せである。
以上の「我」「実」「成仏」「已来」についての釈をふまえて、大聖人は「我実成仏已来無量無辺」の文を「我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」と読むように教えられている。
「百千万億那由他劫なり」については、「百界千如一念三千と説かれたいり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり」と仰せである。
「御義口伝」では、「百」「千」とは時間的長遠を示しているだけでなく、「百界千如一念三千」を示していると明かされている。
無始無終の十界互具・一念三千の生命を示しているのである。
そして、この「事の一念三千」の生命を、末法の凡夫も開き顕していけることを次に説かれていくのである。
「寿量品の本主」とは寿量品の主役の意である。大聖人は、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者」が「寿量品の本主」であると仰せられている。
寿量品の法体である南無妙法蓮華経を末法で弘通するのは本化の菩薩の役割。
「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか」と仰せのように、寿量品も文上にとどまっている限りは末法の衆生救済の要法とはならない。
その理由について、文上寿量品はあくまでもすでに下種・調熟されてきた在世の衆生を得脱せしめる「脱益」の法である。
そして、「題目の五字」だけが末法の下種の法体であると断じられている。
ここで「文上寿量品=在世の脱益」「妙法蓮華経の五字=末法の下種」と種脱相対の立場から、それぞれの法体の得益の相違を明確に示されている。
そのうえで「在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」と仰せである。
釈尊の在世は、脱益の法でよかった。
それに対して、滅後末法は、すでにそのような上根の衆生はいないので、永遠の妙法の無限の力を凡夫の生命に直接、呼びあらわす働きをもった下種益の法(妙法蓮華経の五字)でなければならないことを示されている。
23:30:00
「第三我実成仏已来無量無辺等の事」御義口伝に云く我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり成とは能成所成なり成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり、百界千如一念三千と説かれたり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、惣じては迹化の菩薩此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり、彼は迹表本裏・此れは本面迹裏・然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す云云。(寿量品の「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
「我実」とは、釈尊が久遠に実に成道した(五百塵点劫の昔に成道した)ということを説かれているのである。
しかし、この寿量品の意は、この「我」とは法界の一切衆生のことである。すなわち、十界の衆生それぞれを指して「我」といったのである。
「実」とは、それら十界の衆生が無作三身の仏であると定めたのである。このことを「実」というのである。
「成」とは、能成・所成の二面がある。
「成」とは開くという意味であり、法界(十界の衆生)が無作の三身の仏であると開いたのである。「仏」とはこのことを覚知することをいうのである。
(「已来」の)「已」とは過去であり、「来」とは未来である。この「已来」の言葉の中に現在はあるのである。
(以上のことから「我実成仏已来無量無辺」の文は)我実と成けた仏にして已も来も無量であり無辺である(と読むのである)。
このことを百界千如・一念三千と説かれている。すなわち、「百千」の二字は、「百」とは百界であり、「千」とは千如を意味している。これが即ち事の一念三千である。
今、日蓮及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主である。
総じていえば迹化の菩薩はこの寿量品に手をつけ関与する資格を持っていない。それゆえ、迹化の菩薩は「迹表本裏(迹を表とし本を裏とする)」である。これに対して本化の菩薩は「本面迹裏(本を面とし迹を裏とする)」で弘めるのである。
しかしながら、(本化の菩薩が本門を表にするからといって)寿量品は末法の要法とはならない。
なぜならば寿量品は釈尊在世の衆生のための脱益であり、ただ題目の五字のみが末法の衆生の下種となるからである。
そうであるから、釈尊の在世は脱益、滅後は下種であり、下種の妙法をもって末法弘通の究極の法と為すのである、と。
寿量品の真の主役は、一切衆生、なかんずく末法の人々であることを明かした「御義口伝」である。
寿量品の真意を日蓮大聖人の仏法の立場から説明されていく。
まず、「我実成仏已来」の「我」とは、釈尊一人をいうのではなく、「法界の衆生」「十界己己」、つまり法界すべての衆生を指すと釈されている。
また「実」については、「実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり」と仰せられている。ここで「実」とは「まこと」「本当」の意味である。
大聖人は「成仏」の「成」とは「成る」ではなく、「開く」という意味であるとされている。
どこまでも衆生が、自らの生命の本質に目覚め、自身が無作三身如来であると開き顕すことが成仏にほかならないとの仰せである。凡夫の身のままで、究竟の仏の生命の境涯を顕す。
「仏とは此れを覚知するを云うなり」とは、「我が身が無作三身即妙法の当体である」と覚知した衆生こそが「仏」なのであるとの教えである。
続いて「已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり」と仰せである。
以上の「我」「実」「成仏」「已来」についての釈をふまえて、大聖人は「我実成仏已来無量無辺」の文を「我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」と読むように教えられている。
「百千万億那由他劫なり」については、「百界千如一念三千と説かれたいり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり」と仰せである。
「御義口伝」では、「百」「千」とは時間的長遠を示しているだけでなく、「百界千如一念三千」を示していると明かされている。
無始無終の十界互具・一念三千の生命を示しているのである。
そして、この「事の一念三千」の生命を、末法の凡夫も開き顕していけることを次に説かれていくのである。
「寿量品の本主」とは寿量品の主役の意である。大聖人は、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者」が「寿量品の本主」であると仰せられている。
寿量品の法体である南無妙法蓮華経を末法で弘通するのは本化の菩薩の役割。
「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか」と仰せのように、寿量品も文上にとどまっている限りは末法の衆生救済の要法とはならない。
その理由について、文上寿量品はあくまでもすでに下種・調熟されてきた在世の衆生を得脱せしめる「脱益」の法である。
そして、「題目の五字」だけが末法の下種の法体であると断じられている。
ここで「文上寿量品=在世の脱益」「妙法蓮華経の五字=末法の下種」と種脱相対の立場から、それぞれの法体の得益の相違を明確に示されている。
そのうえで「在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」と仰せである。
釈尊の在世は、脱益の法でよかった。
それに対して、滅後末法は、すでにそのような上根の衆生はいないので、永遠の妙法の無限の力を凡夫の生命に直接、呼びあらわす働きをもった下種益の法(妙法蓮華経の五字)でなければならないことを示されている。
23:30:00