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2011/09/10  青年教学1級 開目抄第40段「別して俗衆・道門を明かす」

 俗衆とは? 道門とは?

第40段「別して俗衆・道門を明かす」
 第一の有諸無智人と云うは経文の第二の悪世中比丘と第三の納衣の比丘の大檀那と見へたり、随つて妙楽大師は「俗衆」等云云、東春に云く「公処に向う」等云云、第二の法華経の怨敵は経に云く「悪世中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」等云云、涅槃経に云く「是の時に当に諸の悪比丘有るべし乃至是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除せん」等云云、止観に云く「若し信無きは高く聖境に推して己が智分に非ずとす、若し智無きは増上慢を起し己れ仏に均しと謂う」等云云、道綽禅師が云く「二に理深解微なるに由る」等云云、法然云く「諸行は機に非ず時を失う」等云云、記の十に云く「恐くは人謬り解せん者初心の功徳の大なることを識らずして功を上位に推り此の初心を蔑にせん故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」等云云、伝教大師云く「正像稍過ぎ已て末法太はだ近きに有り法華一乗の機今正しく是其の時なり何を以て知ることを得る安楽行品に云く末世法滅の時なり」等云云、慧心の云く「日本一州円機純一なり」等云云、道綽と伝教と法然と慧心といづれ此を信ずべしや、彼は一切経に証文なし此れは正しく法華経によれり、其の上日本国・一同に叡山の大師は受戒の師なり何ぞ天魔のつける法然に心をよせ我が剃頭の師をなげすつるや、法然智者ならば何ぞ此の釈を選択に載せて和会せざる人の理をかくせる者なり、第二の悪世中比丘と指さるるは法然等の無戒・邪見の者なり、涅槃経に云く「我れ等悉く邪見の人と名く」等云云、妙楽云く「自ら三教を指して皆邪見と名く」等云云、止観に云く「大経に云く此よりの前は我等皆邪見の人と名くるなり、邪豈悪に非ずや」等云云、弘決に云く「邪は即ち是れ悪なり是の故に当に知るべし唯円を善と為す、復二意有り、一には順を以つて善と為し背を以つて悪と為す相待の意なり、著を以つて悪と為し達を以つて善と為す相待・絶待倶に須く悪を離るべし円に著する尚悪なり況や復余をや」等云云、外道の善悪は小乗経に対すれば皆悪道小乗の善道・乃至四味三教は法華経に対すれば皆邪悪・但法華のみ正善なり、爾前の円は相待妙なり、絶待妙に対すれば猶悪なり前三教に摂すれば猶悪道なり、爾前のごとく彼の経の極理を行ずる猶悪道なり、況や観経等の猶華厳・般若経等に及ばざる小法を本として法華経を観経に取り入れて還つて念仏に対して閣抛閉捨せるは法然並びに所化の弟子等・檀那等は誹謗正法の者にあらずや、釈迦・多宝・十方の諸仏は法をして久しく住せしめんが故に此に来至し給えり、法然並に日本国の念仏者等は法華経は末法に念仏より前に滅尽すべしと豈三聖の怨敵にあらずや。
 三類の強敵のうち、第一類の「諸の無智の人有って」というのは、経文の第二類の「悪世の中の比丘」と第三類の「納衣の比丘」に帰依している大檀那たちであるといえる。
 したがって、妙楽大師はこの第一類を「俗衆増上慢」と言っている。
 また、智度法師は『東春』に、「公の立場の人(国王・大臣らの権力者)に向かって」等と言っている。
 法華経の怨敵の第二類は、経文に「悪世の中の僧は、よこしまな智慧にたけて、心が曲がってこびへつらい、いまだ何も分かっていないのに悟りを得たと思い、慢心が充満している」等とある。
 これについて涅槃経には、「この時に諸の悪い僧があるであろう。そして、この諸の悪人は、このような大乗経典を読誦していながら、如来が説こうとする深い真意を滅除する」等と説かれている。
 『摩訶止観』には、「もし法華経に対して信心のない者は、法華経は聖者が修行する高い教えで、自分のような智慧のない者には用はないという。
 また、もし真実の智慧のない者は増上慢を起こして、自分は仏に等しいと思う」等とある。
 道綽禅師は、浄土以外の教えである聖道門を捨てよと主張し、その理由として、「第二に、理が深くてほとんどの人には理解できない」(『安楽集』)と言っている。
 法然は、「念仏以外の諸の修行は衆生の機根に合わず、時代に適っていない」(『選択集』)と言っている。
 妙楽は『法華文句記』巻10に、「おそらく法華経を誤って理解する者は、初心の功徳が大きいことを知らないで、その功徳を上位の聖者が受けるものと考え、初心の功徳をないがしろにするだろう。
 だから今、初心の修行は浅くとも、その功徳が深いことを示し、法華経の功徳力を顕すのである」と言っている。
 伝教大師は、「正法・像法時代はもう少しで過ぎ終わり、末法がはなはだ近くにきている。一仏乗の法華経によって、一切衆生が即身成仏するのは、今まさしくこの時である。
 どうしてそれを知ることができるのかといえば、安楽行品に『末世において法が減する時に』とあるからである」(『守護国界章』)と言っている。
 慧心は「日本国中は、円教である法華経によって修行すべき機根のみである」(『一乗要決』)と言っている。
 道綽と伝教、また法然と慧心とは、反対のことを言っているが、どちらを信ずるべきであろうか。
 道綽と法然の主張は、一切経に証文がない。伝教と慧心の主張は、まさしく法華経に依っている。
 そのうえ、日本国一同にとって、比叡山の伝教大師こそ受戒の師である。
 どうして天魔のついた法然に心をよせ、自分にとって出家・剃髪の師である伝教を捨てるのであろうか。
 法然が智者であるなら、なぜ天台や妙楽、伝教や慧心らの解釈を、『選択集』にのせて、筋道を立てて道理を明らかにしなかったのであろうか。
 それをしなかった法然の主張は、人の道理を隠すものである。
 したがって、経文に第二類の「悪世の中の比丘」と指されているのは、法然ら無戒・邪見の者のことである。
 涅槃経に、「法華経以前の教えに執する人を我々はことごとく邪見の人と名づける」等とある。
 妙楽は「自ら法華経以前の蔵・通・別の三教を指して、皆邪見と名づけている」(『法華玄義釈籤』)と言っている。
 天台の『摩訶止観』には、「涅槃経に、『これより以前は、我々は皆、邪見の人と名づける』とある。「邪とはすなわち悪ではないか」等とある。
 妙楽の『止観輔行伝弘決』には、「邪はすなわちこれ悪のことである。このゆえに、ただ円教を善となすことを知るべきである。
 これには二つの意味がある。一には円教に順うを善となし、円教に背くを悪となす。これは円教と他の三教を比較相対して勝劣を判ずる相待妙のうえからの善悪の意味である。
 二には、三教が円教に含まれるからといって三教のどれかに執着するのを悪となし、執着せずに円教に達するのを善となす。これは絶待妙のうえからの善悪の意味である。このように、相待・絶待、いずれの意味でも悪をはなれるべきである。
 円に執着することでさえ、なお悪である。まして、その他のものに執着することはなおさらである」とある。
 外道の善道・悪道は、小乗経に対すれば、ともにみな悪道であり、小乗経の善道をはじめとする爾前の四味三教は、法華経に対すれば皆邪悪であり、ただ法華経のみ正善である。
 爾前経に説かれた円教は相待妙である。絶待妙に対すれば、これすら悪である。
 また爾前の円教を蔵・通・別の三教のどれかに位置づければ、さらに悪となる。
 まして観無量寿経など、華厳経や般若経などにも及ばない小法をもととして、法華経をこの観無量寿経に取り入れて、かえって念仏と対比して法華経を閣き、抛ち、閉ざし、捨てよと唱えたのであるから、法然並びにその化導を受けた弟子たち、檀那たちは「誹誇正法の者」ではないか。
 釈迦・多宝・十方の諸仏は、法華経を永久に存続させるために法華経の会座に来られたのである。
 しかし、法然並びに日本国の念仏者たちは、「法華経は末法には念仏より先に滅ぶであろう」といっている。
 これこそ釈迦・多宝・十方分身の諸仏の怨敵ではないか。

 俗衆増上慢と道門増上慢を詳しく解説している。

 「俗衆」とは、道門と僧聖増上慢に帰依している一般の人々のこと。
 「道門」とは法然や道綽など、法華経を捨てて念仏を唱えよなどといっている坊主たちのこと。

 「公処に向う」…第三の僣聖増上慢が「公処」すなわち権力に取り入って、それを動かす姿を述べたもの。

2011/09/08  青年教学1級 開目抄第38段「三類の強敵を顕す」

 勧持品に説かれる三類の強敵。

第38段「三類の強敵を顕す」
 已上五箇の鳳詔にをどろきて勧持品の弘経あり、明鏡の経文を出して当世の禅・律・念仏者・並びに諸檀那の謗法をしらしめん、日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし。
 勧持品に云く「唯願くは慮したもうべからず仏滅度の後恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし、諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし、悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん、或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂つて人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為ること六通の羅漢の如くならん、是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮て好んで我等が過を出さん、常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其身に入つて我を罵詈毀辱せん、濁世の悪比丘は仏の方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙し数数擯出せられん」等云云、記の八に云く「文に三初に一行は通じて邪人を明す即ち俗衆なり、次に一行は道門増上慢の者を明す、三に七行は僣聖増上慢の者を明す、此の三の中に初は忍ぶ可し次の者は前に過ぎたり第三最も甚だし後後の者は転識り難きを以ての故に」等云云、東春に智度法師云く「初に有諸より下の五行は第一に一偈は三業の悪を忍ぶ是れ外悪の人なり次に悪世の下の一偈は是上慢出家の人なり第三に或有阿練若より下の三偈は即是出家の処に一切の悪人を摂す」等云云、又云く「常在大衆より下の両行は公処に向つて法を毀り人を謗ず」等云云、涅槃経の九に云く「善男子一闡提有り羅漢の像を作して空処に住し方等大乗経典を誹謗せん諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是大菩薩なりと謂わん」等云云、又云く「爾の時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし、是の時に当に諸の悪比丘有つて是の経を抄略し分ちて多分と作し能く正法の色香美味を滅すべし、是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来の深密の要義を滅除して世間の荘厳の文飾無義の語を安置す前を抄して後に著け後を抄して前に著け前後を中に著け中を前後に著く当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり」等云云、六巻の般泥オン経に云く「阿羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行ず、一闡提に似たる阿羅漢あつて慈心を作さん羅漢に似たる一闡提有りとは是の諸の衆生方等を誹謗するなり、一闡提に似たる阿羅漢とは声聞を毀呰し広く方等を説くなり衆生に語つて言く我れ汝等と倶に是れ菩薩なり所以は何ん一切皆如来の性有る故に然も彼の衆生一闡提なりと謂わん」等云云、涅槃経に云く「我涅槃の後乃至正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし持律に似像して少かに経を読誦し飲食を貪嗜し其の身を長養す、袈裟を服ると雖も猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現わし内には貪嫉を懐かん唖法を受けたる婆羅門等の如し、実に沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」等云云。
 以上、宝塔品の三箇の勅宣と、提婆達多品の二箇の諌暁、あわせて五箇の鳳詔に仏弟子たちは驚いて、勧持品で弘経の誓いを述べた。
 明鏡であるその経文を出して、今の禅・律・念仏の僧、ならびにそれらを支える有力者たちの謗法を、はっきりと明らかにしよう。
 日蓮という者は、去年(文永8年=1271年)9月12日の深夜、子丑の時に、頚をはねられた。
 これ(開目抄)は、その魂魄が佐渡の国に至って、翌年の2月、雪深い中で記して、有縁の弟子に贈るのであるから、ここに示す勧持品に説かれる難は恐ろしいようであるが、真の法華経の行者にとっては、決して恐ろしいものではない。しかし、これをわからず経文を見る人は、どれほどおじけづくだろうか。
 この経文は、釈迦・多宝・十方の諸仏が未来、すなわち日本の今の様子を映し出された明鏡である。形見とも見るべきものである。
 勧持品には、こう説かれている。
 「ただ願うところは、釈尊よ、心配しないでください。仏が入滅された後、恐るべき悪世の中において、私たちは法華経を広く説いていくだろう。
 その時、諸々の無智の人があって、法華経の行者の悪口を言ったり、罵ったり、また刀や杖で打つなどする者があるだろう。私たちは皆、それらを耐え忍ぶであろう。
 悪世の中の僧は、邪智をもち、心はへつらい曲がっており、まだ悟りを得ていないのに得たと思い、慢心の心が充満している。
 あるいは、喧騒を離れたところ(阿練若)で粗末な袈裟・衣を着て、静かなところ(空閑)にいて、自分は真の修行をしていると思って、世間の人々をいやしむ者がいるだろう。
 内心は、利益を貧り執着するゆえに、在家の人々(白衣)の歓心を買う教えを説き、世間の人々から尊敬されるさまは、六神通を得た阿羅漢のようである。
 この人は悪心をいだき、常に世俗のことを思い、人里離れた閑静なところにいる修行者という名に隠れて、人々の中で法華経を実践する行者の欠点を好んで言い出すだろう。
 常に多くの人々の中で、正法の行者を謗ろうとして、国王や大臣や婆羅門や居士、およびその他の僧に向かって、正法の行者を謗って、悪口し、”この者たちは、邪見の人であり、外道の論議を説いている”と言うだろう。
 濁悪の世の中には、多くの諸々の恐ろしいことがある。悪鬼が人々の身に入って、正法の行者を謗り、辱めるだろう。
 濁世の悪僧は、仏の方便の教え、衆生の機根に従って説かれた法を知らないで、それに執着し、真実の教えである法華経を行じる人々の悪口を言い、顰蹙する(顔をしかめる)。(そのため法華経の行者は)しばしば追い出されるだろう」と。
 『法華文句記』第8巻には、こうある。
 「この勧持品の文は、三つに分けられる。はじめの1行は、通じて邪見の人を明かしている。すなわち俗衆増上慢である。次の1行は、道門増上慢の者を明かしている。第3に、次の7行は、僧聖増上慢の者を明かしている。
 この三つの中で、はじめの俗衆増上慢は耐え忍ぶことができるが、第2は、第1のものよりも悪質である。第3の者が一番悪質である。
 第1よりも第2、第2よりも第3の者の方が、より一層、正体を見抜き難いからである」と。
 『東春』で、妙楽の弟子・智度法師は、こう述べている。
 「はじめに『有諸』以下の5行において、第1に最初の一偈は身・口・意の三業の悪を耐え忍ぶことを述べている。これは、外道、在家の悪人による迫害である。
 次の『悪世』以下の1偈は、上慢の出家の人による迫害である。
 第3に『或有阿練若』以下の3偈は、出家のところに一切の悪人が集まるのである」と。
 また「『常在大衆』以下の2行は、公の立場の人に向かって、法を謗り、人をけなすということである」と。
 涅槃経第9巻には、こうある。
 「善男子よ、一闡提がいて、阿羅漢の姿をして、静寂なところに住み、大乗経典を誹謗するだろう。
 凡夫の人々はこれを見て、皆が、彼こそ真の阿羅漢であり、大菩薩であると思うだろう」と。
 また、こうある。
 「その時に、この経を全世界に広く流布すべきである。
 この時には、諸々の悪僧がいて、この経を切り取って捨てたり、バラバラにし、正法の色・香・美味を失わせてしまうだろう。
 この諸々の悪人は、またこのような経典を読誦するといっても、如来が説こうとする深い意味のある重要な義を消し去ってしまって、世間の飾りたてた、美しいだけで意味のない語を置くだろう。前を取って後につけ、後を取って前につけ、前と後を中ほどにつけ、中ほどを前や後につける。
 まさに知るべきである。このような諸々の悪比丘は魔の伴侶であると」と。
 6巻の般泥オン経には、こうある。
 「阿羅漢に似た一闡提の者がいて、悪業を行う。一闡提に似た阿羅漢がいて、慈悲の心を起こすだろう。
 阿羅漢に似た一闡提がいるというのは、その者たちが大乗経を謗るということである。
 一闡提に似た阿羅漢とは、声聞を謗り、卑しめて、広く大乗の教えを説く者である。
 衆生に語って言うには、『私はあなたがたとともに菩薩である。理由はなぜか。一切の人には皆、仏の性分があるからだ』と。
 しかし、それを聞いた衆生は、その人を一闡提だと言うだろう」と。
 涅槃経には、こうある。
 「私(釈尊)が入滅した後、正法が減して後、形ばかり法が残っている時代において、次のような出家者が現れるだろう。
 形は律を持っているようであって、わずかに経を読誦し、飲食を貧って身を養い、袈裟を着ているとはいっても、信徒の布施を狙うさまは、猟師が細目で見てゆっくりと獲物に近づくようであり、猫がネズミをとらえようとしているようである。
 常にこの言葉を唱えるだろう。『自分は阿羅漢の悟りを得た』と。
 外には賢人・善人の姿を表し、内には貧りや嫉妬の気持ちをいだき、無言の修行をしている婆羅門などのようである。
 実には出家者でもないのに、出家者の姿をしており、邪見が非常に盛んで、正法を謗るであろう」と。

 勧持品に説かれる三類の強敵を経文にしたがって顕す。
 ①俗衆増上慢…「諸の無智の人あって…刀杖瓦石を加う」
 ②道門増上慢…「悪世の中の比丘は邪智にして…我慢の心充満せん」
 ③僣聖増上慢…「阿練若に納衣にして空閑に在って…六通の阿羅漢の如くならん」

 ※このうち、三番目の僣聖増上慢が見破りにくいから一番悪い。

2011/09/08  青年教学1級 開目抄第37段「二箇の諌暁を引き一代成仏不成仏を判ず」

 悪人成仏と女人成仏を説く法華経が孝経。

第37段「二箇の諌暁を引き一代成仏不成仏を判ず」
 宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諌暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり、善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり、竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり、挙一例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし、儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり、外道は過未をしれども父母を扶くる道なし仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ、しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし何に況や父母をや但文のみあつて義なし、今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり、二箇のいさめ了んぬ。
 宝塔品の三箇の勅宣に加えて、提婆達多品において、(悪人成仏・女人成仏の)二箇の諌暁がある。
 提婆達多は一闡提の者であった。しかし、法華経において、未来に天王如来となる記別を与えられた。
 涅槃経40巻には、一切衆生に仏性があると説き、一闡提の成仏の理を一応明かしているが、その現証は提婆品にあるのである。
 善星比丘や阿闍世王ら、無数の五逆罪を犯した者や、謗法の者の中から、一つの例を取り上げ、頭を挙げて、他のすべてをそこに収め、枝葉をしたがえたものである。
 すなわち、一切の、五逆罪・七逆罪を犯した者や、謗法の者、一闡提の成仏が、提婆達多が天王如来の記別を与えられたことによって、明確になったのである。
 これは、毒薬が変じて甘露(不死の妙薬)となることであり、それはあらゆる味にすぐれているのである。
 また、竜女の成仏も竜女一人だけの成仏ではなく、一切の女人が成仏することを示している。法華経以前の諸の小乗教では、女人の成仏は許していない。
 諸の大乗経には、女人の成仏・往生を許しているように見えるが、あるいは、女人は身を改めて男となって成仏できるという改転の成仏であって、一念三千の成仏、すなわち即身成仏ではないので、有名無実の成仏・往生である。「一つを挙げてすべてに通じる例とする」といって、竜女の成仏は、末法の女人の成仏往生の道を踏み開けたのである。
 儒教で説く孝養は、ただ今世に限られている。父母の未来を救わないのだから、儒教などで言われる聖人・賢人は、有名無実である。
 インドの外道は、過去世・未来世を知っているが、父母を助ける方法は説かれていない。仏道こそ、父母の来世を助けることができるので、真実の聖賢の名があるのである。
 しかし、法華経以前に説かれた大乗・小乗の経々を立てる宗派は、自分自身の成仏さえ叶えられない。
 まして、父母については、なおさらである。成仏といっても、ただその言葉があるだけで、内実はないのである。
 今、法華経の時に至って、女人が成仏した時、すべての悲母の成仏の道も明らかとなり、悪人の提婆達多が成仏した時、すべての慈父の成仏も実証されたのである。ゆえに、この法華経こそ仏教典内の孝経ともいうべきである。
 以上で、二箇の諌暁は終わる。

 宝塔品の三箇の勅宣に加えて、提婆品の二箇の諌暁がある。
 「二箇の諌暁」とは、「悪人成仏」と「女人成仏」のこと。

 これによって、一切の父と母の成仏が確実になった。
 父母を救える法華経こそ、孝行の教えである。

2011/09/08  青年教学1級 開目抄第36段「諸経の浅深勝劣を判ず」

 どの経が最も勝れているか知っているのは日蓮。

第36段「諸経の浅深勝劣を判ず」
 一タイ(サンズイに帯)をなめて大海のしををしり一華を見て春を推せよ、万里をわたて宋に入らずとも三箇年を経て霊山にいたらずとも竜樹のごとく竜宮に入らずとも無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも二所三会に値わずとも一代の勝劣はこれをしれるなるべし、蛇は七日が内の洪水をしる竜の眷属なるゆへ烏は年中の吉凶をしれり過去に陰陽師なりしゆへ鳥はとぶ徳人にすぐれたり。日蓮は諸経の勝劣をしること華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり、天台・伝教の跡をしのぶゆへなり、彼の人人は天台・伝教に帰せさせ給はずば謗法の失脱れさせ給うべしや、当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし、大海の主となれば諸の河神・皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし
 一滴の水をなめただけで大海の塩味を知り、一つの花が咲いたのを見て、春の訪れを推し量りなさい。
 万里を渡って宋の国まで行かなくても、(中国の法顕のように)3ヵ年かかって霊鷲山に行かなくても、竜樹菩薩のように竜宮に行かなくても、無著菩薩のように弥勤菩薩に会わなくても、法華経の二処三会の会座にあわなくても、釈尊一代仏教の勝劣は知ることができるのである。
 蛇は7日以内に洪水が起こることを知ると言われるが、それは竜の誉属だからである。
 烏が、年中の良い出来事と悪い出来事を知っているのは、過去世に陰陽師(陰陽道によって占術を行う人)だったからである。鳥は飛ぶ力では、人よりすぐれている。
 日蓮は諸経の勝劣を知ることにおいては、華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の弘法よりすぐれている。それは、(正師である)天台、伝教の跡を継承しているからである。
 かの諸宗の人々は、天台・伝教に帰伏しなかったならば、謗法の罪を免れることができなかったであろう。
 今の世において、日本国で第一に富んでいる者は、日蓮である。命は法華経にたてまつり、名を後代にとどめるであろう。
 大海の主となれば、諸の河の神も皆、したがう。須弥山の王に、諸の山の神がしたがわないことがあろうか。
 法華経の六難九易をわきまえれば、一切経を読まなくても、六難九易をわきまえた人にしたがってくるのである。

 日蓮は、どの経が最も勝れているか、だれよりも知っている。
 私は今の日本で第一に富める者である。
 法華経に命を捧げ、名を後代に留めるであろう。
 六難九易をわきまえれば、一切経を読まなくても、日蓮にしたがってくるのである。

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