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2009/03/16  池田先生の激励。

大楠公活劇で池田先生の勇退の頃を「わが心の54年」「第一次ネット創価問題を考える」で諸氏が綴られている。

各スレッドを読んでの所感です。

先生の勇退時、私は小学生。

若輩者が偉そうに分析するのは痴がましいがご容赦下さい。
今、改めて諸氏の回想を読むと当時には、よく事態が判っていた者、よくは判らないが離れなかった者、よくは判らないが離れた者等など様々ですね。

一つ気付いた点は「池田先生は会長就任後も変わらずに会員の激励をし続けてきた」事。
なにを当たり前の事をと言わないで下さい。

第一次の時「時の流れには逆らえません」と言い、幹部は先生を守れなかった。
勇退後も宗門はあれこれと指示をし、一時期、先生は唱題しか激励の手段はなくなる。
平凡な指導者ならこの時点で負けてしまう。しかし先生は負けなかった。

よくある指導者はトップになると会員の前に滅多にでなくなる事が多いです。
池田先生は名も無き庶民の前に出続け、触れ合って来た。
会長就任から勇退までの約20年の蓄積があるからこそ、宗門はあれだけ暗躍しても負けてしまった。
池田先生と我々の距離が近いからこその事実だと思う。
この激励の事実は強い。

先生と会員の絆・師弟があるから出来た反転攻勢ではないのか。
これが普通の指導者の様に会長になったら表に出てこないタイプだったら反転攻勢なんて不可能だ。
会員が先生を求める力は誰にも止められない。

勇退後の約30年の今でも先生は変わらずに激励をして下さっている。
メッセージや書籍、和紙や押印、あらゆる手段で激励をする。
膨大な数の激励の裏には確実に会員がいる。見せかけの激励ではない。

だから第二次で破門されても負けない。
負けるはずがない。一朝一夕の激励では、絆では、師弟ではないからだ。

寺の奥座敷でふんぞり返った坊主がかなう訳がない。
坊主が同じ様に檀徒を激励をしていたら負けたかもしれないが、そんな仮定はありえないので話にならない。

地道な家庭訪問や対話の力は「重力」の様だ。
物理学では物体に働くを「強い力」「弱い力」「電磁気力」「重力」と分ける。
その中で一番小さい力の「重力」はどんなに遠くても届き影響を与える。
そして「重力」は質量が大きければ比例して力は大きくなる。
まるで異体同心で団結すれば力が強くなる我々の様だ。
重力の様に着実に力を与え確実に影響させる。
その様な力が師弟にはあると思う。

本日は3.16です。
未来を担うのは青年部です。決意も新たに!!

2009/03/14  ネット弁慶参上(笑)

いつもの様に選挙が近づくと創価学会批判の投稿が増えますね。

大抵は5W1Hが無く、「デマ」の類いだ。

若鷹掲示板はいつもの事(笑)だか、創価系ブログに学会員の振りして投稿するやり方が流行の様だ。
言わば振り込め詐欺の「学会員版」だ。

例としてそうかねっと - 虎の威を借る狐創価の森の小さな家 : 創価教育のコメント欄に出没している。
一見すると内部同士の議論に見えるが、そもそも話になっていない。
「立場」も言わず「5W1H」も言わず「為にする批判」だけをする。
具体的な指摘はなく、感情に任せて書き殴るだけで、ちっとも建設的ではない。

その精神性は世の中の悪い出来事を、何かに付けて「創価学会・公明党」の所為にする。
日蓮仏法の基本は「良い事も悪い事も全て自分の宿業」と捉える。
根本のスタートが違うのだ。

決して自分の人生を他人の所為にはしない。してもしょうが無いのだから。

創価学会に文句を言っても良いのは、全く創価学会に縁が無い人だ。
自分から日蓮大聖人に巡り合った人だけが言える。

宗門の様に創価学会によって外護されてきた者は勿論。
元学会員などは創価学会が無ければ日蓮仏法に出会ってないのだからね。
それを忘れてか気付いてないかは知らないが、「不知恩」と言われても仕方がないではないか。
それ程「仏縁」と言うのは希縁なのだからね。


閑話休題

話を戻す、創価系ブログの書き込みの似非学会員はさらっとウソを入れる。
創価学会が言ってもいない指導を言ったと書き、○○の嫌がらせがあると書く。
(アンチは基本的に陰謀論が好きだよね。)

これは他者が見た時に「そうか、学会は嫌な所だな」と思わせる事が目的の一つ。
だから内輪もめの様に振る舞えば良いし、イメージとして定着すれば所願は達成される。

こちらとすれば徹底的に反論するか、削除するか、スルーするかしかない。

でもね、アンチ諸君、ブログROM者はバカではないよ。
その浅はかな手段は見抜かれて呆れられるだけだよ。自分を基準に考えないようにね。

夜中に書き込みをして、朝読み返してごらんよ。「恥ずかしい」だろ?

2009/02/27  そりゃぁ、大阪府の財政が破綻目前になるよ。

ちょっと2ちゃんねるで話題ですね。

橋下知事、返還に前向き 児童文学館廃止で寄贈本問題
2009年2月26日朝日新聞
 大阪府立国際児童文学館(同府吹田市)に本や資料を寄贈した人たちが、同館の廃止条例案を2月議会に提出した府に返還を求めている問題で、橋下徹知事は25日、「お返しするのも大きな解決策」と報道陣に述べ、返還に前向きな姿勢を示した。寄贈者も記者会見して改めて返還を主張。府立中央図書館(同府東大阪市)への蔵書移転を計画した府教委は「蔵書がばらばらになってしまう」と戸惑う。

 同館の蔵書70万冊のうち50万冊は寄贈分。14万冊の寄贈者で児童文学研究者の鳥越信さん(79)はこの日の記者会見で「資料が散逸するのは本意ではない」としつつ、「1万人近くいる個人の寄贈者全員が返還を求めることで、移転のための予算審議を凍結させたい」と語った。

 しかし、府教委幹部によると、橋下知事はたとえ返還しても、館の廃止と残る蔵書の移転は実現するつもりという。この幹部は「蔵書をまとめて保存する最善策を考えてきただけに困った」と話す。返還には新たな議決や費用負担などの課題もあり、難航しそうだ。(小河雅臣)

話はこんな流れ

鳥越 30年前 「早稲田大学で集めた貴重な児童文学書12万冊寄付するぞー」(自称20億円の価値)
大阪府 「是非うちに寄付してください 国際児童文学館つくります」
鳥越  「じゃあ、財団法人国際児童文学館の総括専門員(のちに理事)をつくって就任、
    それから貴重な資料なので一般には閲覧も禁止ね」
大阪府 「児童文学の研究目的だけでは来館者が少なく、
     補助金がだせないので漫画やラノベを充実させますね」
    (例 あんどろトリオ ttp://members.at.infoseek.co.jp/AZICON1/SSC1_P48.jpg
     それでも場所が不便なので来館者は増えない)

鳥越氏1984年より、1991年まで総括専門員として児童文学館に勤務

現在は児童文学館の理事に就いている(財団法人大阪国際児童文学館理事)

橋下  「国際児童文学館は来館者が中央の1/14 年間維持費2億円(うち人件費 9人で1億円)なので廃館。
     蔵書は中央図書館新しい書庫を作ってに移送します」
鳥越(児文館理事) 「話が違う、それなら寄贈した蔵書を返してくれ」
綛山哲男教育長(児文館理事) 「寄贈されたら府の財産なので返還できません」
鳥越(児文館理事) 「なら廃館をやめて国際児童文学館を継続しろ、府の予算案は凍結だ」
橋下 「府が方針を廃止に変更したので、寄贈者の意思を尊重して、12万冊返しましょう」
鳥越(児文館理事) 「…本を公開していく方法を一緒に検討しましょう…って意味だったんです」

で今日には「1万人近くいる個人の寄贈者全員が返還を求めることで、移転のための予算審議を凍結させたい」と言っている。
完全に保身の為の行動ですよ。
文化財を使ったヤクザみたいな手口ですね。

2009/02/21  仮想と現場と己心と葛藤。

あくまでも仮想現実
ネット活動を他人があれこれ揶揄や指図するには、限度があると思います。
「ああっ、そんな事書いちゃ」とか「違うよ、そうじゃない」とか言いたくなる書き込みも散見されます。
私の書き込みも他人から見れば一家言あると思いますし、それが当然でしょう。

信心の軸足が『現場』なのは当然で『ネット弁慶』では幸せにはなれない。
幸せになる為に信心をしていて、その信心活動で得たモノをネットで書くのが「ネット活動」でしょう。

歓喜の無く「愚癡」や「批判」ばかり書いていては只の『退転者』にしかならない。
統監が組織にあるだけで、ちっとも『広布』に役には立っていない。

『現場』で活動して、どうしても腑に落ちない事があるでしょう。
指導を受けるまででもなく、身近に聞ける人もなく「う~~ん、コレってどうなんだろう?」とネットでググル事は皆、経験はないでしょうか?

「ああっ、同じ事を思っている人がいる」と安堵するかもしれません。
しかし、心得なければならないのが『ネットは3次資料』だと言う事。

信心の指針は
「御書・先生の講義や著作」>「現場の指導・体験」>「ネット・体験談」だと思う。
ネットの活動や体験は所詮『仮想』です。実体を殆ど確かめ様がない。

ネットでスゴイと思った人が、現実で会ったら「え~~何か違う」となるかも知れませんよ。
ネットはテキストで構成されるから、読み手のリテラシィ・読解力次第で歓喜もすればヘコミもする。
書き手の思惑を離れ歪曲だってされる。

自分の思った事を書いて否定されたら、躍起になって反論もするかもしれない。
同意をされ、嬉しくなり饒舌になって余計な事まで書くかもしれない。


賢者の振る舞い
日蓮大聖人は「九思一言」と故事を引かれた。
これは読み手聞き手に判るように発言者が心得ているか?でしょう。

何も考慮せずその場の勢いで発言しては賢者ではない。
通常ネットでは発言が何時までも残ります。

ひいてはネットの体験・意見を鵜呑みにしてはなりません。
よくよく脈絡を読み真意を汲まなければ「退転」の元になるかもしれません。

私もそうですが発言者は書き込み時に「これは書いて大丈夫か?」とボタンを押す前に考えましょう。
特定のHNに対しての書き込みでも、ネットでは他者が見ています。
影響を考えなければいけませんね。

日蓮大聖人は御書・お手紙を認められる時には皆で読み廻す事を想定されていますね。
池田先生も各種メッセージは男子部に宛ても、婦人部に宛ても他者が読む事を考慮されていますね。

自分の書き込みで『誰か』が退転しては、エライ業を積んでしまいます。
考え抜いた善かれと思っての書き込みも、相手が聞く耳を持たなければ仕方ないのです。
日蓮大聖人も「御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず(日厳尼御前御返事P1262)」とも仰せです。
必要以上に攻めたてては慈悲がありませんし、相手が機根を見ましょうよ。
毎日同じ文章趣意を書き立てては「粘着質」「中二病」とか言われますよ。


執着との葛藤
中には己心に執着し、御書を引かれて指摘されても素直に意見を変えられない人もいるでしょう。
自分の執着との葛藤もあるでしょう。
その葛藤を乗り越えれば境涯革命はできると思います。

人間的に魅力のある人は、信仰者か否かを問わずいます。
魅力のある人を庇いたくなるのが人情でしょう。しかし我々は信仰者です。

人情に流されて広布が進まなければ意味はないのです。
言い負かされては悔しいかもしれないが、「悔しい」の元が『何』なのかジックリと御本尊の前で考えてみましょう。


最後に
こうしたネット上での議論や炎上は私は『無意味』とは思いません。『有意義』だと思います。
こうした議論炎上で葛藤が起き思索を重ねる事は、人生に於て無駄にはならないと思います。
片や指摘され葛藤すれば自己成長し、片や指摘して「勝他の念」に支配されない発言力を増せば自己成長をします。

自分は何が言いたいのか?
自分は何を指摘されたのか?
相手は何が言いたいのか?
相手は何を指摘したいのか?

これが対話だと思います。

そして結果『この対話で何を得たのか?』だと思います。
無意味な対話はしたくないよね?

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