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2008/11/28  心配りと真心

リンクにもありますが、Serverさんの「毎日の御書」に登録しております。

先日、Serverさんが御書配信をしていて、悲しくて嬉しかった事をブログに書かれてます。

受信者のご家族から受信者(お母様)がお亡くなりになり、配信の解除の旨のメールが届いた、と言う内容です。

私も、皆様も何かしらのメルマガを登録をしているかと思いますが、解除時にお断りの連絡を入れますでしょうか?
私は今まで入れたことは御座いません。

このご家族の心配りも凄いですが、何よりお母様の信心が素晴らしかったのだと思います。
Serverさんの配信を楽しみにしていた姿が、目に浮かびます。素晴らしい臨終だったとも拝せます。

今日のServerさんの配信は
遠藤左衛門尉御書
霊山に於て日蓮日蓮と呼び給え、其の時御迎えに罷り出ず可く候(P1336)
でした。
Serverさんの真心を配信に感じました。

私の父もそうでしたが、いかに臨終の時に悲壮感無く、歓喜で見送れるかではないでしょうか?

生死一大事血脈抄
相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ (P1338)

自分が臨終の時に笑えるように、遺族が歓喜できるように信心に励みたいと思います。

2008/10/27  五重の相対 種脱相対

5.種脱相対
仏の生命が永遠であることは解りましたが、それでは、どうすれば、その常に存在しているという仏界を湧現させればよいのか? ということが大切です。
実は、釈尊の法華経では、どのように修行すれば仏と成れるかが、説かれていないのです。

それでは、どうして法華経によって、二乗も、悪人も、女人も成仏できたのでしょうか?
「種脱」(しゅだつ)とは「下種益」(げしゅえき)と「脱益」(だつえき)の事です。これについて、まず説明します。

例えば、ある土地に水をやり肥料を与えたとします。すると、やがて芽がでて、花が咲きます。釈尊の法華経は、この水や肥料にあたるのです。
「下種」とは、仏が衆生に初めて成仏の種子となる法を教えることをいい、その法を聞くことによって衆生の生命に成仏の種子が植えられる利益を「下種益」といいます。

しかし、ここで気を付けなければならないのは、花が咲いたのは、あくまでも、その土地に、その花の種が植わっていたからです。種も植えていないのに、どんなに一生懸命、水をやり肥料を与えても、花は咲きません。
仏に成るのも同じことなのです。已に成仏の種が生命に備わっている状態の衆生が、釈尊の法華経を聞くと、「ああ、そうだった。思い出した。」といって仏になれるのです。しかし、成仏の種が備わっていない衆生には、何の意味もありません。
仏は衆生を教化する際、下種、調熟(じょうじゅく)、得脱(とくだつ)という過程を経ます。
下種、つまり成仏の種が備わっている衆生は、調熟し、得脱することができます。

釈迦在世の衆生や、正法、像法時代の釈尊に縁している衆生(つまり、釈尊によって仏の植えられている衆生)は、釈尊の仏法(下種した衆生を調熟し得脱させるので、脱益仏法といいます)で成仏できたのですが、末法時代にはいると、下種された衆生がいないので、調熟し得脱させる前に下種しなければなりません。

このことが、釈尊の法華経には「どのように修行すれば仏と成れるか?」という成仏する為の修行方法が説かれていない理由です。末法では釈尊の仏法は意味がないのです。

寿量品に、「我本行菩薩道」(我もと菩薩の道を行じ)とあるのは、釈尊も、仏に成るための修行をしたということであり、釈尊も数多くの仏の一人であり、釈尊を仏にした根源的な法があることを示しています。

日蓮大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せです。
その法が、釈尊を成仏せしめ、またあらゆる仏を成仏させた仏種です。
日蓮大聖人はこの根源の仏種を南無妙法蓮華経として顕し、弘められました。
末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し唱えることにより、自身の生命に仏種が下され、初めて成仏することができるのです。

このことを日蓮大聖人は
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(P249)
と述べられています。
「彼」とは法華経文上の本門、「此れ」とは文底独一本門のことです(なお、「一品二半」とは法華経本門の中心となる部分で、寿量品の一品とその前後の半品ずつのことです)。
百六箇抄
「下種三種法華の本迹 二種は迹なり一種は本なり、迹門は隠密法華・本門は根本法華・迹本文底の南無妙法蓮華経は顕説法華なり」(P865)

本因妙抄
「問うて云く寿量品・文底の大事と云う秘法如何、答えて云く唯密の正法なり秘す可し秘す可し一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり、権実は理今日本迹理なり本迹は事久遠本迹事なり、亦権実は約智約教一代応仏本迹本迹は約身約位久遠本迹亦云く雖脱在現・具騰本種といへり、釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり理は造作に非ず故に天真と曰い証智円明の故に独朗と云うの行儀・本門立行の血脈之を注す秘す可し秘す可し」(P877)


大聖人の下種仏法によって、成仏の種子を衆生の生命に植えることが可能になり、すべての衆生が一生のうちに種熟脱を具えて仏界の生命を現し、成仏していける道が開かれたのです。
これこそが、「南無妙法蓮華経」なのです。ですから、法華経の文の底、つまり、文章の中に南無妙法蓮華経の存在を示唆しているということを、文底秘沈というのです。

末法においては「下種仏法」である、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経だけが、成仏の根源の法なのです。

2008/10/27  五重の相対 本迹相対

4.本迹相対
法華経は全部で二十八品あり、私たちが朝晩の勤行で唱えているのが、その2番目の方便品と16番目の寿量品です。
だから、方便品第二とか、寿量品第十六というのです。法華経は全部で28品ですから、半分に分けると14品ずつですので、1~14と15~28ということになります。
前半14品の迹門と後半14品の本門に立て分け、両者を教判して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。
本迹の本とは本地(=仏・菩薩の本来の境地)、迹とは垂迹(=衆生教化のために現した仮の姿)という意味です。
法華経の後半十四品は釈尊が仏としての真実の境地(本地)を顕した法門なので本門といい、前半十四品はまだ本地を顕さず、仮の姿のままなので迹門といいます。

私たちがいつも唱えているのは、法華経迹門の2番目の方便品と法華経本門の2番目である寿量品ということになります。この二つを唱えるのは、これが迹門と本門を代表する要品だからです。
月水御書
「寿量品方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」(P1202)


法華経では二乗や悪人、女人が成仏できることを示したと書きましたが、そのことが書かれているのは迹門です。
それは、すべての生命に仏界が備わることを示したからです。具体的には、方便品の「諸法実相」という言葉がそれにあたるのですが、しかし、それは理論の上の話であり、どうしてすべての生命に仏界が備わっているといえるのかは、明らかにされていません。
なぜなら、法華経迹門までの教えでは、仏といえば釈尊のことであり、仏界が自身の生命にあるということは、自分と釈尊は同じように立派な仏であるということになり、到底信じることはできないからです。
釈尊という仏は、あくまでも30歳の時にインドの伽耶城近くの菩提樹下で初めて悟りを得たことになっています。
過去世において、釈尊が仏であったとは一言も触れられていないのです。このことを「始成正覚」(しじょうしょうかく)といいます。
つまり、仏という生命が永遠に続くものであることが明らかではないのです。

それが、本門に入ると、実は釈尊が成仏したのは、迹門までで言っていた始成正覚ではなく、久遠の昔の過去世において、已に成仏していたことが明かされるのです。これを「久遠実成」(くおんじつじょう)といいます。

長行を知ってる方は覚えてますか?
寿量品で「我実成仏以来無量無辺…」(我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。)とあります

自我偈にも「自我得佛來所經諸劫數。無量百千萬億載阿僧祇。常説法教化無數億衆生。令入於佛道爾來無量劫。以度衆生故方便現涅槃。而實不滅度常住此説法。」(我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数。無量百千万 億載阿僧祇なり。常に法を説いて 無数億の衆生を教化して。仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり。衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く。」

これによって、仏の生命は、ある日突然顕れたものではなく、実は常に存在しているもの、過去・現在・未来の三世永遠にわたって、常住であることが示されたのです。このことが明かされて初めて、一切衆生の生命に仏界が備わることが、事実の上で示されたことになるので、本門を「事の一念三千」というのです。

事実として明かされたから「事」です。それに対して、迹門では理論的に誰にでも仏界があることが明かされていますから、迹門を「理の一念三千」といいます。
永遠の生命観は本質的には法華経本門に至って、明かされたといえるでしょう。
仏の本地である久遠実成を明かした本門の方が、仏の垂迹である始成正覚のままであった迹門に比べて優れているのです。
権実相対において、法華経が仏界を顕わしていると述べましたが、迹門が「生命に仏界がある」といっているだけであるのに対して、本門では「仏界は三世常住であり、常に如何なる場合でも仏界が存在する」ことが明かされているのです。
すべての生命に仏界があるだけでなく、常にいかなる時でも仏界があることを示したのが本門であるといえるでしょう。

2008/10/27  五重の相対 権実相対

3.権実相対
大乗教といっても、浄土宗も真言宗も禅宗もみんな大乗教に基づいています。釈尊の残した様々な経典の中でどれが一番優れているのか。
権実相対とは、仏の真実の悟りを明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備、方便として説かれた権大乗教(華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経など)に立て分け、権大乗教よりも実大乗教が勝ることを示したものです。権とは仮の意、実とは真実の意です。

大乗教典の華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経などの法華経以外の諸経では、二乗(=声聞・縁覚)の成仏や、悪人・女性の成仏を否定しています。また、その他の人々についても成仏のためには何度も生まれ変わって修行を積み重ねなければならないとしています。
さらにいえば、人はうまれながらにして、あなたは声聞界の人、あなたは縁覚界の人、あなたは人界の人という風に分けられていたことになります。
ですから、他の人を救っていこうとする大乗教であっても救えない人がいた訳です。


しかし、実際には、一人の生命の中に、声聞界も縁覚界も、地獄界も、菩薩界もあるというのが、本来の姿です。このことを、十界互具といい、一念三千の法門というのです。このことを説いたのが法華経なのです。

声聞界や縁覚界に執着していた小乗教の教えを捨てさせるために、方便として権大乗教では、二乗は成仏できないとしたのです。そして、今度は、全ての生命に仏界があることを示すために法華経が説かれ、方便である権教では、真実の幸福が得られないのです。
開目抄 上
「法華経計り教主釈尊の正言なり三世・十方の諸仏の真言なり、大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給しかば多宝仏・大地より出現して皆是真実と証明す」(P188)
このように、実教である法華経と権教である他の大乗教を比較したのが、権実相対です。
十界の次元から考えれば、権大乗教は菩薩界を目指したのに対し、法華経は仏界を顕わしたことになります。

*内外相対も、大小相対も正しいものが最初に来ていますが、権実相対だけは、権の字が先に来ますので注意してください。
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