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2011/09/22  青年教学1級 御義口伝「南無妙法蓮華経」

 「南無妙法蓮華経」の肝要深義。

「南無妙法蓮華経」
 御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、又云く梵語には薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。
 (「南無妙法蓮華経」について)御義口伝に次のように仰せである。
 「南無」とは梵語(古代インドの言語。サンスクリットのこと)である。漢語では「帰命」という。(帰命には)「人」への帰命と、「法」への帰命がある。「人」への帰命とは釈尊に帰命し奉ることである。「法」への帰命とは法華経に帰命し奉ることである。
 また、(帰命の)「帰」とは、迹門不変真如の理に帰することである。(帰命の)「命」とは、本門随縁真如の智に命くことである。帰命とは南無妙法蓮華経そのものである。ある釈には「随縁不変・一念寂照」とある。
 また、「帰」とは、私たちの色法であり、「命」とは、私たちの心法である。これらの色心が一体不二であることを一極というのである。妙楽の釈には「一極に帰せしめる故に仏乗という」(「玄義釈籤」)とある。
 また、次のように仰せである。南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語、「妙法蓮華経」は漢語である。梵語と漢語が一体となって南無妙法蓮華経というのである。
 また、次のように仰せである。梵語では薩達摩・芬陀梨伽・蘇多覧という。漢語では妙法蓮華経というのである。薩は「妙」である。達磨は「法」である。芬陀梨伽は「蓮華」である。蘇多覧は「経」である。これらの九字は九尊の仏体である。九界即仏界を表している。
 「妙」とは法性である。「法」とは無明である。無明と法性とが一体であることを「妙法」というのである。「蓮華」とは因果の二法である。これもまた因果が一体である。「経」とは一切衆生の言語音声を「経」というのである。章安の釈には「声が仏事を為す、これを名づけて経という」と。あるいは三世にわたって常恒であることを「経」というのである。
 法界は妙法である。法界は蓮華である。法界は経である。蓮華とは八葉九尊の仏体である。よくよくこのことを思うべきである。以上。

 南無妙法蓮華経が御義口伝の冒頭にきているのは、南無妙法蓮華経こそ一切経の根本であり、法華経の肝要であるからであるから。

 「帰命」
 「帰」=「迹門不変真如の理」=「色法」
 「命」=「本門随縁真如の智」=「心法」
 色心不二であることを「一極」という。
 色心不二で帰命する事こそ、究極の帰命になる。

 「南無」は梵語、「妙法蓮華経」は漢語。
 梵漢共時であることは、広宣流布の大法であることを示している。

 「九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり」
 「妙法蓮華経」は、梵語の「薩達摩・芬陀梨伽・蘇多覧」を漢訳したものとされる(翻訳者は鳩摩羅什)。
 漢字では、十文字となるが、天台の『法華玄義』には「薩達磨芬陀梨修多羅」の九字が示されていることや、あるいは梵語の音節が九つになり、九つの梵語で表されることからか、日蓮大聖人は「妙法蓮華経」=「九字」と仰せである。
 「九字」=「九尊の仏体」=「九界即仏界」

 「妙」=「薩」=「法性」
 「法」=「達摩」=「無明」
 「蓮華」=「芬陀梨伽」=「因果の二法」=「因果一体」
 「経」=「蘇多覧」=「一切衆生の言語音声」

2011/09/22  青年教学1級 御義口伝はじめに

 御義口伝とは?
 「御義口伝」は、身延において日蓮大聖人が法華経の要文を識義された内容を日興上人が筆録され、大聖人の御允可を得て完成したものと伝えられている。
 「御義」とは大聖人の法門を指す。それを「口伝」すなわち口頭で講義された内容を記録したのが「御義口伝」である。
 構成は上下2巻から成り、初めに「南無妙法蓮華経」について論じられた後、巻上では法華経序品第1から従地涌出品第15まで、巻下では如来寿量品第16から普賢菩薩勧発品第28までと開結二経(無量義経、普賢経)の要文講義が収められている。また巻下では別伝として「廿八品に一文充の大事」と「廿八品悉南無妙法蓮華経の事」が収録されている。
 それぞれの項目では、初めに法華経あるいは開結二経の文を挙げ、それに関する天台・妙楽の釈を引用された後、「御義口伝に云く」として文底下秘法門の立場からの法華経解釈を展開されている。すなわち「御義口伝」では、種脱相対、三大秘法、人法体一など、大聖人の秘要の法門が法華経の要文を通して縦横に示されており、そこに日蓮仏法の法華経観を拝することができる。
 ここで日蓮大聖人と釈尊の法華経との関係について確認すれば、大聖人は釈尊の法華経そのものを弘通されたのではなく、法華経の文底に秘沈された下種の妙法を自ら悟られ、それを三大秘法の南無妙法蓮華経として顕し、末法に弘通されたのである。法華経は、末法における大聖人の妙法弘通を予言した経典であり、大聖人は御自身の弘通の序分・流通分として法華経を用いられたのである。
 したがって、「御義口伝」において示されているのは法華経の語義に縛られた解釈ではなく、御本仏の御境涯のうえから法華経の文を文底下種法門の説明として自在に用いられ、活用されていく「活釈」といえる。

2011/09/19  青年教学1級 撰時抄第32段「一閻浮提第一の聖人」

 日蓮こそ聖人。

第32段「一閻浮提第一の聖人」
 外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり一には去し文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと申させ給へ此の事を御用いなきならば此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも今年はすごし候はじと語りたりき、此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり、経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う、智人は起をしる蛇みづから蛇をしるとはこれなり、衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一タイ・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ
 外典には、「いまだ萠していない事柄を前もって知る人を聖人という」と説かれている。内典には、「過去、現在、未来の三世を見通している人を聖人という」と説かれている。
 私には三度の高名(手柄、功績)がある。
 一つには、去る文応元年7日16日に、「立正安国論」を最明寺入道殿(北条時頼)にたてまつった時に、宿谷入道光則に向かって「禅宗と念仏宗を捨てるよう、最明寺殿に忠告しなさい。この意見を用いないならば、この北条の一門から内乱が起き、ついには他国から攻められるであろう」と言ったことである。
 二つには、去る文永8年9月12日の夕刻、平左衛門尉頼綱に向かって「日蓮は日本国の棟梁である。私を亡き者にすることは日本国の柱を倒すことになる。たちまちに自界叛逆難といって、一族の同士打ちが始まり、さらに他国侵逼難といって、この国の人々が他国から殺されるだけではなく、多く生け捕りにされるであろう。建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽寺などの一切の念仏者や、禅僧などの寺院を焼き払って、彼らの首を由比が浜で斬らなければ、日本の国は必ず滅びるであろう」 と言ったことである。
 そして第3には、去年の文永11年4月8日に、平左衛門尉に「国主が支配している国に生まれ合わせた以上は、身は幕府に随えられているようであるが、心まで随えられはしない。念仏は無間地獄、禅は天魔の所為であることは疑いがない。ことに真言宗がこの日本の国土の大きな禍いである。大蒙古の調伏(祈祷によって怨敵・障魔を降伏させること)を真言師に仰せつけてはならない。もしこのような国家の大事を真言師が調伏するならば、いよいよ急いでこの国は滅びるであろう」と申したところ、頼綱は「いつごろ寄せてくるであろうか」と聞いた。そこで私は、「経文には、いつとは書かれていないが、天の様子から、諸天の怒りのありさまが激しいように思う。襲来の時は迫っていて、おそらく今年を越すことはないであろう」と答えたのである。
 この三つの大事は、日蓮が述べたのではない。ただひとえに、釈迦如来の御魂が、わが身に入り替わられたのであろうか。わが身ながらも悦びが身にあまる。
 法華経の一念三千という大事の法門は、このことである。
 法華経方便品の「いわゆる諸法の是の如き相」というのは、いかなる意味か。十如是の初めの「相如是」が第一の大事であるから、仏は世に出現されるのである。
 「智人はものごとの起こりを知り、蛇は自ら蛇を知る」というのがこのことである。
 多くの川の流れが集まって大海となり、小さな塵が積もって須弥山となったのである。
 日蓮が法華経を信じ始めたことは、日本の国にとっては一滴の水、一粒の塵のようなものである。やがて、二人、三人、十人、百千万億人と、人々が法華経の題目を唱え伝えていくならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるであろう。
 仏になる道は、これより即ほかに求めてはならない。

 日蓮の予言された「自界叛逆難」「他国侵逼難」は、幕府は無視しかえって大聖人を迫害した。
 文永9年の「二月騒動」、文永11年の「文永の役」と二難とも的中する。

 建長5年の立宗宣言より、ただお一人立ち上がれたのが日蓮大聖人。
 大海でも須弥山でも始めは、たった一滴の水、一塵から出来ている。
 広宣流布も、始めの一人から二人、三人と広がって成し行く。

2011/09/17  青年教学1級 撰時抄第5段「経文を引いて末法広宣流布を証す」

 広宣流布の瑞相。

第5段「経文を引いて末法広宣流布を証す」
 問うて云く其の証文如何、答えて云く法華経の第七に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云、経文は大集経の白法隠没の次の時をとかせ給うに広宣流布と云云、同第六の巻に云く「悪世末法の時能く是の経を持つ者」等云云又第五の巻に云く「後の末世の法滅せんとする時」等・又第四の巻に云く「而も此経は如来現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」又第七の巻に第五の五百歳闘諍堅固の時を説いて云く「悪魔魔民諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便を得ん」大集経に云く「我が法の中に於て闘諍言訟せん」等云云、法華経の第五に云く「悪世の中の比丘」又云く「或は阿蘭若に有り」等云云又云く「悪鬼其身に入る」等云云、文の心は第五の五百歳の時・悪鬼の身に入る大僧等・国中に充満せん其時に智人一人出現せん彼の悪鬼の入る大僧等・時の王臣・万民等を語て悪口罵詈・杖木瓦礫・流罪死罪に行はん時釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし、例せば神力品の十神力の時・十方世界の一切衆生一人もなく娑婆世界に向つて大音声をはなちて南無釈迦牟尼仏南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。
 問う。大集経の白法隠没の次に、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法が一閻浮提に広宣流布していく、との証文はどこにあるか。
 答う。法華経の第7巻には「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して、この閻浮提に於いて断絶させてはならない」(薬王品第23)と。
 このように経文には、大集経の白法隠没の次の時を説き示して広宣流布と言っている。
 また同第6巻には「悪世末法の時、能く是の経を持つ者」(分別功徳品第17)とあり、また第5巻には「後の末世の法が滅しようとする時」(安楽行品第14)とあり、また第4巻には「而も此の法華経は如来の現在にすらなお怨嫉が多い。まして滅度の後にはさらに多い」(法師品第10)とある。
 また第5巻には「一切世間には怨が多くして信じがたい」(安楽行品)とあり、また第7巻に第五の五百歳・闘諍堅固の時代相を説いていうには「悪魔や魔民や諸の天、竜、夜叉、鳩槃荼等の悪鬼、悪魔が其の便りを得るであろう」(薬王品)とある。
 また大集経には「我が仏法の中に於いて互いに闘諍言訟するであろう」とある。
 さらに法華経の第5巻には「悪世の中の比丘」(勧持品第13)とか「或は閑静な処に居て」(同)とか、「悪鬼が其の身に入る」(同)等とある。
 さて、これら経文の意は、次のようなものである。
 すなわち、第五の五百歳・白法隠没の時、悪鬼がその身に入った高僧が国中に充満する。
 その時に智人が一人出現する。
 かの悪鬼が身に入った高僧等が、時の王臣、万民等をかたらって、その一人の智人を悪口罵詈し、杖木瓦礫を加え、流罪、死罪に処するであろう。
 その時に釈迦・多宝・十方の諸仏が地涌の大菩薩らに命令し、大菩薩はまた梵天・帝釈、日天・月天、四天王等に申し下して、彼らの謗法を責めるから、天変地異が盛んに起こるであろう。それでも国主等がその諌めを用いないで謗法を続けるならば、隣国に仰せつけてそれらの国々の悪王、悪比丘等を責めるだろう。もしそうなれば、「前代未聞の大闘諍」が一閻浮提に起こるであろう。
 その時に日月によって照らされている全ての世界の一切衆生は、あるいは国を惜しみ、あるいはわが身を惜しむゆえに、一切の仏菩薩に祈りをかけるが叶う兆候が見られないので、ついに、あの迫害を加えていた一人の小僧(智人)を信じて、無量の高僧、8万の大王、一切の万民がことごとく頭を地につけ、掌を合わせて一同に南無妙法蓮華経と唱えるであろう。
 例えば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生が、一人も残らず裟婆世界に向かって大音声を放ち、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同に叫んだようなものである。

 末法広宣流布、5つの根拠
 1.薬王品の「我が滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」の文。この文は、白法すなわち釈尊の仏法が、失われた末法は、法華経の肝心である南無妙法蓮華経こそがあらわされて、一閻浮提に広宣流布することを予言している。
 2.「悪世末法の時能く是の経を持つ者」(分別功徳品第17)、「後の末世の法滅せんとする時」(安楽行品第14)の経文。この悪世末法の始めに、この法華経を持つ者が出現することが予言されている。
 3.「而も此経は如来現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」(法師品第10)、「一切世間怨多くして信じ難し」(安楽行品)、「悪魔魔民諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便を得ん」(薬王品)の経文。
 この末法の始めに正法を弘通すれば、必ず怨嫉が多いことが示されている。
 4.「我が法の中に於て闘諍言訟せん」(大集経)の一節。悪世末法には闘諍言訟の様相が激しい様を確認されている。
 5.「悪世の中の比丘」、「或は阿練若に有り」、「悪鬼其身に入る」の法華経の勧持品の二十行の偈を引いて、仏法の中で闘諍言訟の様相を引き起こす働きの根源は、悪鬼入其身の大僧であることが示されている。

 末法の初めにおける大白法流布の姿
 1.大集経の五箇の五百歳の五番目である「闘諍言訟・白法隠没」の時とは、悪鬼入其身の大僧が国に充満する時である。「僣聖増上慢」の姿そのもので大聖人の時代で言えば、極楽寺良観などが相当する。
 2.分別功徳品の経文に、こうした悪世末法の時に法華経を持つ「智人」が一人出現する。この「智人」は、いうまでもなく大聖人御自身のこと。
 3.こうした「悪鬼の入る大僧」が、時の権力者・民衆をだまして智人に対して悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪・死罪などの迫害を実行する。
 4.また、悪鬼入其身の悪僧と悪王が結託して智人を迫害する時は地涌の大菩薩や諸天善神の働きでこれらの悪王・悪仙が隣国から攻められ、「前代未聞の大闘諍」が一閻浮提に起こる。
 5.そうなったときには、人々は「国を惜しみ」「身を惜しむ」がゆえに、帰依し、法華経神力品のように、万民が一同に「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と唱える閻浮提広宣流布の時が到来すると仰せられている。


 三類の強敵の部分でも勉強しましたが、参考までに「法華経勧持品第十三の二十行の偈」を載せます。

唯願不為慮 於仏滅度後 恐怖悪世中 我等当広説。
 (唯だ願わくは慮(うらおも)いを為したまわざれ 仏の滅度の後 恐怖(くふ)悪世の中に於いて 我れ等は当に広く説くべし。)
有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍。
 (諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん 我れ等は皆な当に忍ぶべし。)
悪世中比丘 邪智心諂曲 未得謂為得 我慢心充満。
 (悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲(てんごく)に 未だ得ざるを謂(おも)いて得たりと為し 我慢の心は充満せん。)
或有阿練若 納衣在空閑 自謂行真道 軽賎人間者。
 (或は阿練若に 納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って 自ら真の道を行ずと謂(おも)いて 人間を軽賤する者有らん。)
貪著利養故 与白衣説法 為世所恭敬 如六通羅漢。
 (利養に貪著(とんじゃく)するが故に 白衣の与(た)めに法を説いて 世の恭敬(くぎょう)する所と為ること 六通の羅漢の如くならん。)
是人懐悪心 常念世俗事 仮名阿練若 好出我等過。
 (是の人は悪心を懐き 常に世俗の事を念(おも)い 名を阿練若に仮(か)つて 好んで我れ等が過(とが)を出さん。)
而作如是言 此諸比丘等 為貪利養故 説外道論議。
 (而も是の如き言(ことば)を作(な)さん 此の諸の比丘等は 利養を貪(むさぼ)らんが為めの故に 外道の論議を説く。)
自作此経典 誑惑世間人 為求名聞故 分別説是経。
 (自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑(おうわく)す 名聞を求めんが為めの故に 分別して是の経を説くと。)
常在大衆中 欲毀我等故 向国王大臣 婆羅門居士
 (常に大衆の中に在って 我れ等を毀(そし)らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士)
及余比丘衆 誹謗説我悪 謂是邪見人 説外道論議。
 (及び余の比丘衆に向かって 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん。)
我等敬仏故 悉忍是諸悪 為斯所軽言 汝等皆是仏。
 (我れ等は仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん 斯れの軽んじて 汝等は皆な是れ仏なりと言う所と為らん。)
如此軽慢言 皆当忍受之 濁劫悪世中 多有諸恐怖。
 (此の如き軽慢(きょうまん)の言を 皆な当(まさ)に忍んで之れを受くべし 濁劫悪世(じょくこうあくせ)の中には 多く諸の恐怖(くふ)有らん。)
悪鬼入其身 罵詈毀辱我 我等敬信仏 当著忍辱鎧。
 (悪鬼は其の身に入って 我れを罵詈毀辱(めりきにく)せん 我れ等は仏を敬信(きょうしん)して 当に忍辱(にんにく)の鎧を著(き)るべし。)
為説是経故 忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道。
 (是の経を説かんが為めの故に 此の諸の難事を忍ばん 我れは身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ。)
我等於来世 護持仏所嘱 世尊自当知 濁世悪比丘
 (我れ等は来世に於いて 仏の嘱(ぞく)する所を護持せん 世尊は自ら当に知(しろ)しめすべし 濁世の悪比丘は)
不知仏方便 随宜所説法 悪口而顰蹙 数数見擯出。
 (仏の方便 宜しきに随って説きたまう所の法を知らず 悪口してびん蹙(しゅく)し 数数(しばしば)擯出(ひんすい)せられ。)
遠離於塔寺 如是等衆悪 念仏告勅故 皆当忍是事。
 (塔寺を遠離(おんり)せん 是の如き等の衆悪(しゅあく)をも 仏の告勅(ごうちょく)を念(おも)うが故に 皆な当に是の事を忍ぶべし。)
諸聚落城邑 其有求法者 我皆到其所 説仏所嘱法。
 (諸の聚落(じゅらく)城邑(じょうおう)に 其れ法を求むる者有らば 我れは皆な其の所に到って 仏の嘱する所の法を説かん。)
我是世尊使 処衆無所畏 我当善説法 願仏安穏住。
 (我れは是れ世尊の使なり 衆に処するに畏(おそ)るる所無し 我れは当に善く法を説くべし 願わくは仏よ安穏に住したまえ。)
我於世尊前 諸来十方仏 発如是誓言 仏自知我心。
 (我れは世尊の前 諸の来りたまえる十方の仏に於いて 是の如き誓言(せいごん)を発す 仏は自ら我が心を知(しろ)しめせ。)
聖教新聞社刊 「妙法蓮華経並開結」より

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