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2008/10/27  五重の相対 大小相対

2.大小相対
内道(仏教)というのは、自己の生命の変革を目指す宗教という事になりますが、人間の苦悩のことを煩悩といいます。
この煩悩をどのように解決するのかによって、修行方法は大きく異なります。
これを「小乗教」と「大乗教」に2つに分けます。
「乗」とは、乗り物の意味で、仏の教えが、人々を迷いと苦悩から悟りの境地へと運び、導くので、乗り物に譬えました。その大小を教相判釈するので「大小相対」といいます。

苦悩の原因は自分自身の煩悩にあると説き、苦悩を解決するには煩悩を滅する以外にないとして、厳しい戒律と修行による解脱(=悟りによる苦悩からの解放)を求めました。これを「小乗教」と言います。
これは、煩悩を解決する道(因果)を自分の生命の内に求める点では正しいと言えます。
しかし心身を滅すること(因)によって煩悩を完全になくした境地(果)を目指す(因が無ければ、果も無くなる)生き方は、結局、生命自体を否定することになり、真実の救いにはなりません。
またこの修行は灰身滅智(けしんめっち=身を焼いて灰にし、智慧を断滅していく)の教えであると批判されました。

灰身滅智は、誰でもできる修行ではなく、優れた人物でなければ、その修行に耐えられませんし、他の人にも同じような修行をするように勧めることもできません。
ですから、救える人が少ないので、小乗教(小さい乗り物の教え)なのです。

これに対して、大乗教は、自分も他人もともに幸福になろうとする菩薩のための教えです。
大乗教は、自分の救いを求めるだけでなく、他の多くの人々を救うことを目指すものです。
大乗教では、小乗教のように煩悩を排除するのではなく、煩悩のある生命に菩提(=悟り)の智慧を現して、その智慧によって煩悩を正しくコントロール(制御)し、清浄で力強い生命主体(仏界)を確立することを教えています。これを煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)といいます。
煩悩即菩提は、煩悩をコントロールし、ありのままの生命を見つめることになりますから、誰にでもできる修行に通じ、他人にも伝えてともどもに幸福になろうとすることができます。
ですから、大乗教(大きな乗り物の教え)といいます。
乙御前御消息
「小乗経と申す経は世間の小船のごとく、わづかに人の二人三人等は乗すれども百千人は乗せず。設ひ二人三人等は乗すれども、此岸につけて彼岸へは行きがたし。又すこしの物をば入るれども、大なる物をば入れがたし。大乗と申すは大船なり」(P1218)
小乗教とは、釈尊滅後、多くの部派に分かれて展開された部派仏教の教説がそれに当たります。
小乗教の経典(小乗経)としては阿含経を用い、論(教理を体系づけた理論書)としては倶舎論などが著されました。
これに対して、紀元前後から小乗教を批判しつつ、釈尊の精神に立ち戻る仏教ルネサンス運動として展開されたのが大乗教です。
大乗教の経典(大乗経)としては華厳経、般若経、阿弥陀経、大日経、法華経などがあり、論としては大智度論などが有名です。

また、仏教は、アジアに弘まりましたが、インドから、ビルマ、タイと東南アジアにひろまったのが小乗教であり、阿含教、上座部仏教といいます。
それに対し、ガンダーラから、シルクロードを通って、中国、朝鮮、日本と伝わったのが、大乗仏教です。

小乗教は、出家して修行し、自分だけが悟ることを目指す二乗(=声聞、縁覚)のための教えです。これは小さな範囲の人々しか救えないという意味で、小さな乗り物に譬えるのです。
十界の次元から考えれば、声聞界や縁覚界(二乗)を目指すのが小乗教です。それに対し、菩薩界を目指すのが大乗教です。

結果的に自分の幸福だけを考えるのか(小乗教)、他人の幸福をも目指すのか(大乗教)、という違いになります。

2008/10/25  五重の相対 内外相対

1.内外相対
仏教を中心として一切の思想・宗教を判定するのですから、最初に、仏教と、それ以外の一切の思想・宗教を比較します。
仏教と仏教以外の宗教の最大の違いは何か?
それは、幸不幸の原因すなわち生命の因果を、自己の生命の中に求めるのか(内道)、それとも神や運命のような自己の生命以外に求めるのか(外道)、という点です。


生命の内と外の違いだから、仏教と仏教以外の宗教を比較することを「内外相対」といいます。
いうまでもなく、内道(仏法)が優れています。
開目抄 上
「外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし」(P188)

仏法(内道)は因果を説きます。人間の幸不幸に関わる因果を説きます。
どうすれば幸せ(成仏)と言う「果(結果)」をつかめるか「因(方法)」を説きます。

仏教以外の諸宗教(外道)はその因果を説かないか、説いても偏った因果観にとどまっています。
儒教・道教は、現世だけを見て、過去世・現在世・未来世の三世の因果を説きません。
インドの諸宗教(バラモン教など)には三世の因果を説くものもありますが、それは過去世の原因によって今世に得られる幸・不幸の結果(境涯)が決まっているという運命論・決定論にとどまっており、今世における変革の可能性は説きません。
輪廻と言う概念はバラモン教から入ってきたと思われますが、わずかに神などの力で、天に生まれ変わることができると説くに過ぎません。
十界の次元から考えれば、天(天界)を目指すのは外道です。だから、外道では六道(地獄から天界)輪廻してしまうのです。【類似:十界】
仏教以外の教えには、このほかに因果そのものを否定する説なども含めて、さまざまな因果説がありますが、いずれも偏った因果観であると言わざるをえません。

それに対して仏教(内道)では、人間の内面に変革の可能性がある事、今世の行いによって、苦悩を安心へ、不幸を幸福へと転換できることを説きます。

2008/10/24  五重の相対 はじめに

折伏現場での対話中に「仏教なんて、みんな一緒でしょ、何が違うの?」と言われたことはありませんか?
仏教といっても色々あるんですが、大抵の人は知りません。
特に日本人は宗教に対して大雑把+ごった煮なので特殊な宗教観を持っている方が多いように感じます。

年末年始は特にクリスマスに始まり、正月はお年玉で「儒教」初詣で「神道」と大概に宗教を意識せずに儀式をしています。
まぁ、中には商業的なイベントもありますので致し方ないのかもしれません。


仏教を中心とする、一切の思想、宗教の内容のことを「教相(きょうそう)」といいます。
そして、その内容を比較し優劣を判定することを、「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」つまり、「教判(きょうはん)」といいます。


日蓮大聖人の教判は、五段階に比較するので、「五重の相対(ごじゅうのそうたい)」といいます。そして、この「五重の相対」は、人本尊開顕の書「開目抄 上」において明かされました。

ですから、「五重の相対」は日蓮仏法の根幹中の根幹であり、とりわけ、末法の御本仏である日蓮大聖人の仏法こそが、一切の思想の中で最も優れた法であることを客観的に判定することができます。

五重とは「内外(ないげ)相対」「大小(だいしょう)相対」「権実(ごんじつ)相対」「本迹(ほんじゃく)相対」「種脱(しゅだつ)相対」の五段階の相対つまり比較の事です。

ちなみに天台大師は五時八教(ごじはっきょう)で教相判釈をし「法華経」が最勝としました。(五時八教は後日勉強しましょう)

次回は内外相対です。

2008/10/23  如説修行

我々が仏法を学び、信心をするのは何の為でしようか?
簡単に言うと「成仏」の為です。
成仏とは「仏に成る」ということではありません。

日蓮大聖人は「成とは開く義なり」と仰せです。「仏と成(ひら)く」と読むのが正しい読み方です。
仏の生命(仏性・仏界)を出す事です。

爾前教(法華経以前の教え)では、何回も生まれなおして修行して、位をひとつずつ上げていって、ようやく辿り着ける境涯だと説かれていました。
しかし法華経では、実は仏は常住していると説かれます。
すべての人に平等に十界が備わっている。
これが「全生命が平等である」という明確な根拠です。
今現在、不幸に喘いでいる人であっても、必ず成仏、つまり「仏と成(ひら)く」ことができるのです。

日蓮大聖人は
一念三千法門
「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す」(P416)
と仰せです。
成仏への実践が、如説修行(信行学の行・自行化他の化他)であります。

ここで言う如説修行は「安楽行品」の如説修行ではなく「法華経」の如説修行になります。
如説修行抄
「一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」 (P503)
末法では如説修行とは「折伏」になります。

折伏と言うとハードルが高いように感じるかも知れませんが、その様な事はありません。

成仏=如説修行=折伏=法華経を広める=折伏された人の成仏=如説修行
と、自分の成仏は他人の成仏につながります。

「○○さんが幸せになってほしい」と願い仏法対話をする事と「自分が幸せ」になる事はイコールです。

法華初心成仏抄
「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり 」(P552)

結果として折伏相手が入信をしなくても仏の種は蒔きました。(下種と言う)如説修行をしたことになります。
ただし、「強いて説き聞かすべし」です。勇気をもって言い切る事です。

池田先生は「折伏とは『真実を語る』ことです」「末法においては、法華経の真髄である『南無妙法蓮華経』の素晴らしさを語り、広げていく行動は、全部、『折伏』です」【法華経の智慧】
「折伏は、友情を深め、信頼を勝ち取っていくものでなくてはならない。表面的な語らいはあっても、真実の対話がない現代である。
だが、折伏は、ともに、真実の充実した幸福の道を歩みゆこうとの、友への深い思いやりの触発の語らいである。
人生の価値とは何か、何が正しく、何が悪なのかを、時に生活に即し、時に自らの体験のうえから語り合う、真心の仏法対話は、これ、人間主義の王道であり、それが折伏だ」【随筆 新・人間革命】
と書かれています。

友人には、真剣に真摯に誠実に仏法対話を重ねていく事こそ「成仏」への「直道」なのです。
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