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2009/11/22  初級・3級教学試験 教学入門 その6

6.日顕宗を破す



悪と戦う
 日蓮大聖人は、「立正安国論」のなかで「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(24ページ)、「須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」(25ページ)と仰せです。仏法を正しく実践していくうえで一番大事なことは、人々の心を惑わす根本の悪縁である「一凶」と戦い抜くことです。
 「信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」(1494ページ)
 どんなに善根を作って、仏法の修行を重ねても、「法華経の敵」を責めなければ成仏は叶わないと仰せです。
 「法華経の敵」とは、人々に法華経を捨てさせ、万人の成仏の道を塞ぐ者をいいます。法華経は誰人の生命にも仏性があると説く、究極の「人間尊敬」の思想です。この法華経の考えを否定し、「生命尊厳」「万人平等」「民衆根本」の思想に逆行し、法華経の行者を迫害する者が「法華経の敵」にあたります。
 日蓮大聖人御在世当時であれば、権力と結託して、弾圧を企て日蓮大聖人を迫害した僭聖増上慢・極楽寺良観が「法華経の敵」となります。
 そして、現代であれば、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を担う仏意仏勅の団体を破門し、破壊しようと企てた日顕が「法華経の敵」に当たります。
 日顕が犯した最大の罪は、この「破和合僧」の罪です。広布を推進してきた創価学会の組織破壊の謀略を企てたことは、日蓮大聖人の御遺命に違背した最大の謗法であるといえます。

日顕宗の主な邪義

(1)日顕宗の中心教義「法主信仰」
 現宗門を、なぜ「日顕宗」と呼ぶのか。それは、日顕宗の教義が、法主を信仰の対象としているからです。
 「日興遺誡置文」には、次のようにあります。
 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(1618ページ)
 この遺誡は、たとえ法主であろうとも仏法から逸脱して、白分勝手な主張をする場合は、それを用いてはならないと断言されているものです。また、この仰せからうかがえるように、日興上人は、後代の法主が誤りを犯すこともありうると想定されていたのです。
 この「遺誡置文」に照らしても、法主を絶対視することは、日蓮大聖人・日興上人に完全に違背した邪義であることは明白です。

(2)神秘的血脈の嘘
 もともと「血脈」とは、真言密教や日本天台宗で盛んに用いられた言葉で、師匠から弟子へ法門が受け継がれることを、血管に血が流れていることに譬えたものです。
 それに対して日蓮大聖人は、「生死一大事血脈抄」に「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとする」(1337ページ)と仰せになり、成仏の血脈は特定の人間のみが所持するものではなく、万人に開かれるものであることを明確に示されています。
 そして、日蓮大聖人の仏法においては、「血脈」といっても、結論は「信心の血脈」という表現にあるように「信心」のことです。

(3)「僧俗差別義」の時代錯誤
 日顕および日顕宗の僧侶に共通しているのは、”僧が上で信者は下”という、信徒に対する抜きがたい「差別思想」です。
 日蓮大聖人は「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ」(1134ページ)、「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(1448ページ)と、明確に僧俗の平等を説かれています。
 日顕宗がこうした平等観を真っ向から否定する背景には、江戸時代を中心に日本の仏教が葬式仏教化し、檀家制度が普及したことがあげられます。
 その檀家制度の弊害を体質として深く残している時代錯誤の集団が日顕宗です。僧俗差別義はその象徴といえるのです。

2009/11/22  初級・3級教学試験 教学入門 その5

5.地涌の使命と実践



御書
 五老僧たちのなかには、仮名交じりの御書は大聖人の恥であるとして、御書をすきかえして(水に溶かして再び紙にすること)しまったり、焼いたりする者もいました。これは、五老僧たちが、大聖人を末法の御本仏と拝することができなかったからです。
 これに対して日興上人は、大聖人の著作をすべて「御書」と呼んで尊重し、散在していた御書の収集を図られ、後世に残すため書写に努められました。
 この日興上人の精神を継いで、創価学会では、戸田城聖第2代会長の発願により、昭和27年(1952年)4月28日に『日蓮大聖人御書全集』を発刊しました。
 堀日亨上人の研究成果を踏まえ、正しい法理に基づいて御書を集大成したことは、700年間誰人も成し得なかった快挙であり、御書を信仰の根本とする創価学会の信心を示した大事業でした。
 これに比べて日蓮正宗宗門は、戦時中、国家神道と結びついていた軍部権力の弾圧を恐れて、時勢に照らして支障のある御書の御文を削除するという、大聖人門下としてあってはならない誤りを犯したのです。
 昭和16年(1941年)8月に、御書の刊行を禁止する院達を出し、さらに同年9月には、宗務院教学部長名で計14カ所に及ぶ御文の削除を通達したのです。
 「御書根本」を貫く創価学会と、御書を軽視し続けてきた宗門と、その相違は明確です。

信心と生活
 御書には「御みやつかいを法華経とをぼしめせ」(1295ページ)と仰せです。
 「御みやつかい」とは、今日の私たちの立場にあてはめれば、職業・仕事・生活にあたります。
 したがって、この御文は、日々の生活、現実の社会が、そのまま仏道修行の場、信心成長の場となることを教えられています。
 さらに御書には「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(1169ページ)、「仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(1165ページ)と仰せです。
 ”仏法は勝負”であり、信心こそが、時代・社会の相違を超えて、人生の根本的な勝利、真の幸福を勝ち取っていく源泉です。したがって、どのような状況にあっても、信心を根本として、勝利の実証を示していくことが大切です。

善知識と悪知識
 「知識」とは元来、仏教用語では友人・知人を意味する言葉です。「知識」のなかでも正しく仏道に導いてくれる師匠や、仏道修行を励ましてくれる同志を「善知識」といい、その逆に、仏道修行を妨げ、人を迷わして悪道に導く者を「悪知識」といいます。
 「種種御振舞御書」には「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(917ページ)と説かれ、「富木殿御返事」には「諸の悪人は又善知識なり」(962ページ)と述べられています。

諸天善神
 この諸天善神は、私たちの生命と別に、それ自体の意思をもって存在しているものではありません。
 私たちの生命の力、一念の働きが社会や環境などの依報のうえに反映し、それがさまざまな働きとして顕れてくるのです。
 このことについて日蓮大聖人は「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997ページ)と仰せになっています。
 すなわち、私たちの生命に具わる根本の悟りの生命(=元品の法性)が、諸天善神の守護の働きとして顕れ、逆に根本の迷いの生命(=元品の無明)が、第六天の魔王の働きとして顕れるのです。

謗法厳誡・随方毘尼
(1)謗法厳誡
 謗法とは、「誹謗正法」すなわち正法を誹謗する(=謗る、悪口を言う)ことをいいます。
 正法に背き、正法を信じようとしない不信は謗法となりますから、謗法は自ら厳しく戒めなければなりません。
 それとともに、成仏のためには自ら謗法を犯さないようにするだけでなく、他の謗法を責めていく折伏の実践が、謗法厳誡の肝要となります。
 大聖人は「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(1056ページ)と仰せです。

(2)随方毘尼
 「随方」とは、地域の風習に随うこと、「毘尼」とは、戒律の意味です。
 日蓮大聖人は「此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり」(1202ページ)と仰せです。
 要するに、正法という根本基準を立てたうえで、成仏・不成仏という仏法の根本原理に関する事柄でなければ、一般の風俗、世間の普通の約束事を尊重し、用いていくことを説いているのが大聖人の仏法です。

2009/11/21  初級・3級教学試験 教学入門 その4

4.御本尊と受持即観心



御本尊の意義
 私たちが拝する御本尊は、あらゆる仏を成仏させる「根源の法」であり、一切衆生の胸中にある「仏種」である南無妙法蓮華経を顕された御本尊です。
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(1124ページ)と仰せになられているように、御本尊は、根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得された日蓮大聖人の御生命を顕されたものなのです。
 また大聖人は、御本尊について「法華弘通のはたじるし」(1243ページ)と仰せです。すなわち、御本尊への信を広げていくことが、万人成仏を説く法華経を広めることになり、広宣流布の指標になるのです。

受持即観心
 「観心本尊抄」には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(246ページ)と述べられています。
 このように、大聖人の仏法においては、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することが、そのまま成仏の根本の原因の修行、すなわち観心となります。このことを「受持即観心」といい、御本尊を「観心の本尊」と言います。
 私たちにとっての「受持」とは、御本尊を信じ、唱題に励むことです。
 また、この「唱題」も、ただ自分で行ずるだけでなく、人にも勧め唱えさせていく自行化他にわたる唱題でなければならないと大聖人は仰せです。

2009/11/21  初級・3級教学試験 教学入門 その3

3.一念三千と十界互具



一念三千の構成
 一念三千とは、法華経に説かれている一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が「摩訶止観」のなかで、体系化して説明したものです。
 「一念」とは、我々の瞬間瞬間の生命のことで、この一念に、すべての現象、働きを意味する三千の諸法が具わっていることを説いたのが一念三千の法理です。
 「三千」とは、十界互具と十如是、そして三世間を合わせて総合したものです。(百界×十如是×三世間=三千)。十界と十如是と三世間という、それぞれ異なった角度から生命をとらえた法理を総合し、私たちの生命の全体観を示したものです。

(1)十界互具
 十界は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種類の生命の境涯のことです。
 これら10種の生命境涯は、十界いずれの衆生にも欠けることなく具わっています。このように十界のおのおのの生命に十界が具していることを「十界互具」といいます。
 
 分けることができます。例えば、毎日苦しんでばかりの人は「地獄界」の境涯。いつも争ってばかりの人は「修羅界」の境涯と言えます。
しかし、地獄界の人にも、たまには喜ぶ時(天界)があるでしょうし、修羅界の人にも自分の子供を慈しんだりする時(菩薩界)があります。これを十界互具と言います。つまり、どのような境涯の衆生にも成仏する可能性があることを説いたのが十界互具です。

(2)十如是
 十如是とは、十界の衆生に共通して具わる生命の10種類の側面を示したものです。
 私たちが、日々読誦している法華経方便品第2の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の10種です。

(3)三世間
 三世間とは、五陰世間、衆生世間、国土世間の三つをいいます。「世間」とは、差異・差別のことで、十界の差異は、この三つの次元に現れます。

 以上の十界互具・十如是・三世間の法理を総合して成立したのが一念三千の法門です。

一念と三千
 「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」(238ページ)
 ここで、わずかでも私たちの「一念の心」があるところ、そこに「三千の諸法」が具わるということが示されています。
 三千の諸法」とは。先ほどの三千の構成で示された、全宇宙に起こりうる、あらゆる現象です。
 要するに瞬間瞬間のわが生命に、”無限の可能性”が秘められている、という希望の原理が一念三千の法理です。

凡夫成仏・即身成仏・一生成仏
 日蓮大聖人は「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり」(1446ページ)と仰せです。
 法華経以外の諸経では、「成仏」が説かれていても、少なくとも二つのことが条件とされていました。
 一つは衆生が悪人であったならば善人に生まれ変わることが必要があり、女性であったならば男性に生まれ変わることが必要であるということです。
 悪人や女性が、そのまま成仏することはできないとされていたのです。
 それに対して、法華経では十界互具が説かれることにより、成仏とは「仏という特別な存在に成る」ことではなく、自身の九界の身に「仏界の生命を開く」ことであると説いたのです。
 成仏の「成」について「成とは開くの義なり」(753ページ)と仰せです。
 なお凡夫の身のままで成仏できることを即身成仏、一生のうちに成仏できることを一生成仏をいいますが、どちらも同じ法理を表現した言葉です。

煩悩即菩提・生死即涅槃
 この即身成仏の法理を別な角度から表したのが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。
 小乗教の考え方では、凡夫は煩悩を断じて、初めて悟り(菩提)を得て成仏するとされています。
 また、権大乗経では一応、煩悩即菩提を説きますが、九界を離れて初めて仏になると説くので、実質的には小乗教と同じ悟りの考え方になってしまいます。
 これに対し、法華経では、凡夫のもっている煩悩を断ずることなく、直ちに仏の菩提(=悟り)が得られることが明かされました。
 「御義口伝」に「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」(710ページ)とあるように、悩みを避けたり、悩みから逃げたりするのではなく、信心を根本に、煩悩に真っ向から取り組んでいくとき、煩悩を縁として悟りの智慧が現れて、煩悩をコントロールしていけるのです。
 この「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法理に立脚するとき、あらゆる苦悩を自身の成長と幸福の因に転じていく積極的な生き方が可能になるのです。

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