2009/10/11 初級・3級教学試験 「報恩抄」その3
前回からのつづき
通解
この功徳は伝教や天台にも超過し、竜樹や迦葉よりもすぐれている。
極楽百年の修行の功徳は、穢土の一日の修行の功徳に及ばない。正法・像法二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るであろう。
これは、ひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではなく、時がそうさせるのである。春は花が咲き、秋は果実がなる。夏は暖かく、冬は冷たい。これらも時がそうさせることではないか。
解説
末法弘教の功徳を説かれ、時に適った大法である事が示されています。
「此の功徳は伝教天台にも~末法の一時に劣るか」まで
三大秘法の南無妙法蓮華経の功徳が、正像二千年の正師たちによる仏法弘通の功徳を越えている事が明かされています。
ここでは、伝教・天台・竜樹・迦葉の名前が挙げられています。
これら正師たちよりも、末法の民衆を救う大法を弘通する功徳が、どれほど偉大であるかを示されています。
「極楽百年の修行」云々は当時の念仏宗が教えるように、いくら極楽浄土で修行しても成仏の功徳は得られません。
今の娑婆世界で、自分自身が法華経を修行してこそ、確かな生命変革の功徳があるのです。
私たちが実践する妙法は、現実の苦悩の世界に生きる末法の凡夫自身に、仏と等しい尊極の生命を涌現させる生命変革の大法です。
どこか別の場所に行って仏道修行するのではなく、この現実社会の中で、自行化他の実践を貫くことで自身の生命を練磨し、成仏の境涯を確立していく教えです。
社会の先輩を見ても、立派な人は世間の荒波に揉まれ成長する人が殆どです。
生温い環境では、逞しくならないのは道理ですね。
この厳しい娑婆世界の「穢土」で弘通する功徳は正像二千年間の弘通の功徳よりも、はるかに大きいのです。
「是れひとへに日蓮が~しからしむるに有らずや」まで
ここで、改めて南無妙法蓮華経が末法の時に適った大法であることを示されています。
大聖人は「智慧がすぐれているからではない」と御謙遜されていますが、末法の人々の生命に直接に仏種を下す南無妙法蓮華経をあらわし広められた慈悲は智慧以上です。
春に花が咲き、秋に果実がなる。自然の摂理に逆らっては農作物も人も暮せません。
それ程に「時」は逆行しません。
同様に仏法においても「正法」「像法」「末法」という「時」が説かれています。
仏滅後の千年間を「正法」、その後の千年間を「像法」を言います。仏滅後二千年以降を「末法」と言います。
これらの時に逆らって法を広めようとしても、民衆は救えません。かえって無慈悲になってしまいます。
日蓮大聖人は「末法」には南無妙法蓮華経が、広宣流布する「時」だと宣言しています。
「時のしからしむるに有らずや」とは、末法広宣流布の流れは誰人にも止められないとの、大聖人の大確信が示されていると拝されます。
「時」を読む事は「空気」を読むより難しい事です。
「今がそうだ」との確信を得て、行動に移す事は実生活でも難しい。
これは日々の修行によって、少しは読めるようになる。
悩んでる人の信号をキャッチできたり、気付き難い変化に気付けたりする。
今が「時」と、気付けたら、後は行動あるのみ、ここで無明に捕まると行動に移せなくなります。
本文
此の功徳は伝教天台にも超へ竜樹迦葉にもすぐれたり、極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏はあたたかに冬はつめたし時のしからしむるに有らずや。
通解
この功徳は伝教や天台にも超過し、竜樹や迦葉よりもすぐれている。
極楽百年の修行の功徳は、穢土の一日の修行の功徳に及ばない。正法・像法二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るであろう。
これは、ひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではなく、時がそうさせるのである。春は花が咲き、秋は果実がなる。夏は暖かく、冬は冷たい。これらも時がそうさせることではないか。
解説
末法弘教の功徳を説かれ、時に適った大法である事が示されています。
「此の功徳は伝教天台にも~末法の一時に劣るか」まで
三大秘法の南無妙法蓮華経の功徳が、正像二千年の正師たちによる仏法弘通の功徳を越えている事が明かされています。
ここでは、伝教・天台・竜樹・迦葉の名前が挙げられています。
これら正師たちよりも、末法の民衆を救う大法を弘通する功徳が、どれほど偉大であるかを示されています。
「極楽百年の修行」云々は当時の念仏宗が教えるように、いくら極楽浄土で修行しても成仏の功徳は得られません。
今の娑婆世界で、自分自身が法華経を修行してこそ、確かな生命変革の功徳があるのです。
私たちが実践する妙法は、現実の苦悩の世界に生きる末法の凡夫自身に、仏と等しい尊極の生命を涌現させる生命変革の大法です。
どこか別の場所に行って仏道修行するのではなく、この現実社会の中で、自行化他の実践を貫くことで自身の生命を練磨し、成仏の境涯を確立していく教えです。
社会の先輩を見ても、立派な人は世間の荒波に揉まれ成長する人が殆どです。
生温い環境では、逞しくならないのは道理ですね。
この厳しい娑婆世界の「穢土」で弘通する功徳は正像二千年間の弘通の功徳よりも、はるかに大きいのです。
「是れひとへに日蓮が~しからしむるに有らずや」まで
ここで、改めて南無妙法蓮華経が末法の時に適った大法であることを示されています。
大聖人は「智慧がすぐれているからではない」と御謙遜されていますが、末法の人々の生命に直接に仏種を下す南無妙法蓮華経をあらわし広められた慈悲は智慧以上です。
春に花が咲き、秋に果実がなる。自然の摂理に逆らっては農作物も人も暮せません。
それ程に「時」は逆行しません。
同様に仏法においても「正法」「像法」「末法」という「時」が説かれています。
仏滅後の千年間を「正法」、その後の千年間を「像法」を言います。仏滅後二千年以降を「末法」と言います。
これらの時に逆らって法を広めようとしても、民衆は救えません。かえって無慈悲になってしまいます。
日蓮大聖人は「末法」には南無妙法蓮華経が、広宣流布する「時」だと宣言しています。
「時のしからしむるに有らずや」とは、末法広宣流布の流れは誰人にも止められないとの、大聖人の大確信が示されていると拝されます。
「時」を読む事は「空気」を読むより難しい事です。
「今がそうだ」との確信を得て、行動に移す事は実生活でも難しい。
これは日々の修行によって、少しは読めるようになる。
悩んでる人の信号をキャッチできたり、気付き難い変化に気付けたりする。
今が「時」と、気付けたら、後は行動あるのみ、ここで無明に捕まると行動に移せなくなります。