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2010/10/16  2010年度任用試験 番外編

 教学入門 番外編

 はじめに
 大聖人は、中世・鎌倉時代(1222(貞応1)年)に生まれました。
 歴史が苦手な方は、年号が出て来るだけでウンザリかも知れませんが、この教学試験を機に少しでも学んで参りましょう。

 この番外編は教学テキストではありません、私個人の趣味や見方を盛り込んだ内容ですので、あらかじめご承知置き下さい。
 教材の「大白蓮華」の、「日蓮大聖人の御生涯」が本題です。
 時代を覚える為のサブテキストとしてご活用ください。
 時代背景の前書きですので、すっとばして頂いて結構です。(笑)

 当時の時代背景
 日蓮大聖人は、鎌倉時代の方です。
 平安末期からの武家の登場、公家政治から武家政治体制への変革期に当ります。

 平清盛(たいらのきよもり)が地頭や国守護人を設置し、武家政治(平氏政権)始めますが、その前、平安時代に武家政治の基礎となる出来事があります。
 陸奥でおきた「前九年の役(ぜんくねんのえき)」「後三年の役(ごさんねんのえき)」です。

 前九年の役は1051(永承6)年から1062(康平5)年までの12年にわたる戦いで、奥州豪族・安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らの反乱を源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)らが平定した戦いです。
 後三年の役は1083(永保3)年から1087(寛治1)年の豪族清原氏内部の相続争いが発端の内乱であったが、前九年の功労で陸奥守として下向していた源義家が清原清衡(きよひら、後の藤原清衡)とともに、異父弟清原家衡(きよはらのいえひら)・武衡(たけひら)を金沢柵に下して平定します。
 これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築きます。

 このあたりは、NHKの大河ドラマ「炎立つ」で、ご存じの方もいるとは思います。
 大聖人も上野殿御返事などで、源義家、安倍貞任の故事を引かれていますね。

 その後、義家の孫の為義(ためよし)は保元の乱(1156(保元1)年)では崇徳上皇方について敗れ、その息子の源義朝(よしとも)は平清盛と対立し、平治の乱(1159(平治1)年)を起こして敗れ東国に逃れる途中、尾張で家人であった長田忠致(おさだただむね)に殺さました。
 この平治の乱で勝利をおさめた清盛は源氏の主だった武将をことごとく処刑します。
 まだ子供であった頼朝(よりとも)・義経(よしつね)ら兄弟と従弟の義仲(よしなか)ら数名を助命しました。これが禍根を残すことになりました。

 義朝の三男の頼朝は伊豆に流され、平家一族の北条時政(ほうじょうときまさ)に預けられ監視下に置かれます。
 北条氏は頼朝の力量を見込み、娘の政子(まさこ)を嫁がせました。
 伊豆で頼朝は再起を伺います。

 義朝は、まだ源平の力が拮抗していた頃に、京都で常盤(ときわ)という絶世の美女との間に義経を授かります。
 常盤御前は、絶世の美女として有名です。
 源義経は義朝の九男として生まれ、幼名で牛若丸・九郎・遮那王(しゃなおう)とも呼ばれました。
 平治の乱後、幼かった義経は京都鞍馬寺に預けられ、のち奥州平泉の藤原清衡の息子、藤原秀衡(ひでひら)の保護を受けます。
 源義朝と常盤御前との子である義経は、類まれなる美少年と言われてます。

 1180(治承4)年4月9日、源頼政(よりまさ、摂津源氏で頼朝らとは遠く離れた血筋)が以仁王(後白河上皇の皇子)の平家追討の宣旨を得て挙兵します。
 この兵は準備不足もあり、すぐに制圧されてしまいます。
 頼政は10円玉の意匠で有名な平等院で自害します。
 しかし8月17日頼朝はそれに呼応して挙兵し、兄頼朝の挙兵に応じて義経は平泉から馳せ参じます。

 この後更に9月7日源義仲(よしなか、または木曽義仲)が木曽で挙兵し、10月21日に源義経が頼朝に合流します。
 翌年閏2月4日平清盛が病没すると次第に戦況は源氏の優勢となっていきます。
 そして1183(寿永2)年7月28日、ついに源義仲が京都に入城。
 平家は西海に落ちていきます。翌年1月10日源義仲は征夷大将軍に任じられます。
 しかし義仲の兵の軍紀は良くなく、京都で乱暴・狼藉を働く者がいました。
 そこで頼朝は後白河上皇の意向も受けて義経を京都に派遣します。
 義仲の兵を追い出して、これを倒します。
 頼朝は更に、義経に西海の平氏の壊滅を指示します。
 義経は天才的な戦術で、平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦で破って平家を滅亡させます。
 頼朝は清盛が自分らを助命したことから源氏の再起を招き平家を倒しました、同じ事を恐れた頼朝は一切情けを掛けず徹底的に平家一族を抹殺します。

 その後、頼朝と対立した義経は奥州藤原秀衡のもとに逃れますが、その子泰衡に襲われ衣川で自刃します。
 時に1189(文治5)年閏4月30日。
 悲劇的な生涯が伝説や文学作品の素材となって後世に伝えられる事になります。

 鎌倉幕府の開幕
 義経を排除し支配権を獲得した頼朝は1192(建久3)年7月12日、坂上田村麻呂・藤原忠文・源義仲につづく史上4人目の征夷大将軍に就任しました。
 征夷大将軍とは天皇から直々に節刀を授けて任命されるものであり、夷(朝敵)を倒すために非常大権を与えられた武士の最高位の称号です。
 そして頼朝はこの称号を拠り所にして天皇の代理者であることを主張し、本拠地と定めた鎌倉に政治を行うための「幕府」を設けます。
 頼朝は清盛の平氏政権を手本とし、側近の大江広元を中心にした政務執行体制を整備しました。
 最初の頃、頼朝に付き従ってきた武士たちは「自分たちは頼朝様には従うが、なんのために大江広元ごときに従わねばならないのだ」と不平を唱えたともいいます。
 しかし頼朝はこの「政治体制」を強引に施行します。
 頼朝が作った武家政治体制はその後明治維新まで約680年近く続くのです。
 彼は政治家としてのセンスも優れていたのでしょう。

 一方では頼朝は源氏の今後の繁栄のため、娘の大姫の後鳥羽天皇への入内(天皇への嫁入り)の話を進めますが、これは1196(建久7)年11月25日のクーデター(建久七年の政変)に巻き込まれてうやむやになってしまいます。
 そしてその2年後の1198(建久9)年に頼朝は落馬します。
 この怪我がもとで年明けて1月13日死去します。(死因は諸説あり)
 享年53歳でした。
 このあと鎌倉幕府の源氏の血は頼朝の息子の頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)で途絶えてしまいます。
 頼朝の死後、頼家は祖父北条時政の陰謀により修善寺に幽閉殺害されます。
 弟の実朝は時政の執政で実権もなく不遇のうちにこれまた暗殺されてしまいます。
 その時政も幕府内部で権力を振い横暴さがエスカレートし、終には娘の政子、息子の北条義時(よしとき)によって引退に追い込まれます。
 政権は執権政治(しっけんせいじ)の形で時政から義時へと受け継がれていきます。
 平家を滅ぼし征夷大将軍となった源頼朝の後を継いだのが皮肉にも、平氏の一族であった北条家でした。

 元寇の背景
 鎌倉時代というと、蒙古襲来が印象深いですね。
 モンゴル帝国はチンギス・ハーンが建国し、朝鮮半島(高麗)を平定します。
 チンギスの孫のフビライ・ハーンが日本への勢力拡大を図りました。
 これが元寇です。
 文永の役、弘安の役と、二度にわたって北九州に来寇し、日本勢との戦になりました。
 不思議な事に文永、弘安の両役とも、元軍は撤退・敗退してしまいます。
 この故事が「日本の危機には神風が吹く」という伝承になり、実に700年も後の第二次世界大戦での、あの悲惨な神風特攻隊へと繋がっていきます。

 なぜ、あの広大な中国大陸を平定した強大な蒙古が文永、弘安と撤退・大敗したか不思議ではないでしょうか?
 実はこの襲来の主力勢は元軍ではなく、殆ど高麗や南宋の人々なのです。

 元のフビライ・ハーンは日本に使節を送る事にします。
 これは元からの日本の服従を促す使節でした。
 『元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝(チョウ・イ)の進言によって行われたが、高麗王・世子諶(忠烈王)も執拗に世祖に対し日本侵攻を説きます。
 元寇の発端は高麗にあったのです。
 『元史高麗伝』によると当初は3つの案が検討されていた。
 1.日本は島国で攻略が難しいので、高麗に兵を置き、国書により属国にする。この案では損害も出ず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
 2.まず南宋を攻略し、服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき、蒙人高官が支持していた。
 3.高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。
 『高麗史』及び『元史』によれば、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、高麗を経由する東路からの日本侵攻が決定された。

 忠烈王がなぜ、フビライに軍を勧めたかは、忠烈王の生い立ちにも関係する。
 忠烈王の祖父・高宗の時代に高麗はモンゴル帝国に服従し、モンゴルの属国になってしまいます。
 それに伴い皇太子であった父・元宗もモンゴルの人質となる。
 以降、高麗は皇帝から王へと格下げされる。皇太子も、世子に格下げになっている。
 そんな人質生活の中で育った忠烈王は、熾烈な内乱に晒される。
 叔父の王ショウ(さんずいに昌)がクーデターを起こす。
 また三別抄(レジスタンス)の内乱も起こっていた。
 このクーデター・内乱を元の軍事力で平定するが、その後は元宗・忠烈王は元の後ろ楯がないと国内を掌握出来なくなる。
 高麗王は元に対し、日本侵攻で武勲を立てる必要があったようです。

 1267(文永4)年から、元や高麗は日本に使節を送るが、1回目と2回目は黙殺をする。
 1269(文永6)年には、使節がクビライ政権の中書省からの牒状と高麗の国書を、携えて三度やって来た。
 大宰府守護所は使節一行を対馬に留めさせ、使節がもたらした牒状を鎌倉に送付し、鎌倉幕府側はこれを京都の朝廷へ転送します。
 朝議では両書状について検討されたが、蒙古側の通交の要求を拒否する事に決し、拒絶の返牒を出す事にします。
 これにもとづいて文書博士・菅原長成に文案を起草させます。
 しかし、鎌倉幕府側はこの拒否の返牒も出すことも取り止めて使節を追い返すよう上奏します。
 朝廷は幕府の提案を受け入れることとなり、蒙古・高麗からの使節は三度返牒を得られず帰還することとなります。

 何度使節を送っても返牒がないので、とうとう元は日本侵攻を決定します。
 クビライは高麗に命じて日本へ侵攻する軍船を作らせ、膨大な戦費と兵力を拠出させます。
 高麗は大小900隻と言われる船を、わずか半年の突貫工事で完成さなければならなかったのです。
 もともと、騎馬民族の元にしてみれば、海や船は未経験の代物だったのです。
 そうなると水夫や造船技術は、高麗頼みになるのは致し方なかったようです。
 これらの動向を察知した鎌倉幕府は、1272(文永9)年に異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏(武藤氏)や大友氏に対して指揮を命じています。

 文永の役
 1272(文永9)年11月、文永の役はどのような戦いだったのだろうか。
 兵力は蒙古・漢軍25,000人、高麗軍8,000人、高麗水夫6,700人 計39,700人。
 蒙古・漢軍の中には非戦闘員が多かったようで、実質的に文永の役は高麗軍が主力でした。
 一方日本軍は記録が無いが、相当数の兵力で対抗したようです。
 元軍は対馬や壹岐の侵攻では子供男女200人を捕虜としたが、太宰府では戦闘を終日行い、矢が尽きてしまう。
 派遣軍総司令官である忽敦と高麗軍の主将である金方慶で軍議を行い撤退が決まります。
 早々の撤退であったが、しかし元軍船団は高麗への帰還途中で暴風に会い難破してしまう。
 高麗史の記録では文永の役での不帰還者は13,500人に及んだようです。
 34%の不帰還は、暴風での難破があったにしても割の良い物ではなかったのです。
 最近の研究では、文永の役は戦闘の規模や人員内容から、威力偵察の派兵との見方がなされています。

 文永の役後、元軍は当初の目標の南宋の平定に向けられます。
 日本は一先ず、元の政策からは置いておかれる事になります。

 弘安の役
 1275(建治1)年(元の至元12年)、クビライは再び礼部侍郎・杜世忠を正使とする使者を日本に送ります。
 しかし北条時宗は、龍ノ口刑場で杜世忠以下5名を斬首に処してしまう。
 これが切っ掛けで、フビライは再びの日本侵攻を決定する。

 余談ですが、龍ノ口刑場は大聖人の法難で有名ですが、法難前は龍ノ口での処刑はあまり無かったようです。
 開幕以来、刑場は「評定所」(今でいう裁判所、現在の鎌倉市役所付近にあった)の近くの「飢渇畠(けかちばたけ)」で行っていました。
 現在の御成小学校の近く、六地蔵交差点付近に「飢渇畠」はありました。
 死罪判決の罪人は「飢渇畠」まで引き出され、首を斬られていた。
 当時の「飢渇畠」は地名の示すように、荒れ果てた場所であったらしいが、現在は、商店街の中にあるので意外な感じがします。
 大聖人の法難まで、歴史に殆ど出て来ない「龍ノ口刑場」は以後、度々歴史に登場します。
 杜世忠や第14代執権北条高時の次男・北条時行などです。
 北条時行の処刑によって北条得宗家は滅亡してしまいます。
 被処刑人の祟りを恐れる為に府内の刑場ではなく、府外の龍ノ口で行ったとの見方もあります。

 さて、話は戻って。(笑)
 1281(弘安2)年6月、弘安の役の際にも、高麗は軍船900隻建造します。
 他には、元によって征服された南宋の残存艦隊3,500隻との合同艦隊が編成されます。
 兵力は東路軍40,000人(蒙漢軍19,000人、高麗軍10,000人、水夫17,000人)江南軍(南宋の捕虜)100,000人 計140,000人。
 高麗人・金方慶を将とし、再び日本へと軍事侵攻しました。
 弘安の役では人員を増やしますが、防塁を築き準備万端の幕府側は元軍を海上に封鎖します。
 責めあえぐ元軍に暴風雨が追い打ちをかけます。
 こうして元軍は大敗をいたします。
 元軍で帰還できた兵士は、後に解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言わてます。
 全体でも生還者は3万数千人ほどでした。
 幕府は浜に流れ着いた蒙・漢人や高麗人は、捕虜とせず処刑してしまいます。
 逆に流れ着いた江南軍の南宋人は、保護し捕虜にします。
 これは貿易で交流のあった南宋人は無理やりに、戦闘に加えられていた事を幕府は事前に知っていたようです。
 保護した南宋人が住んだ所が、博多の唐人町であると言われています。

 文永・弘安の役ともに、なぜ元軍が負けたのか。
 ・もともと海上戦闘に慣れていない。
 ・主力が元軍ではなく、捕虜の南宋人が主力だった。
 ・造船が急で荒波に耐えられなかった。
 でしょうか?
 14万の軍勢でも、同体異心であったから負けたのではないでしょうか?

 その後
 1287(弘安10)年にはフビライは3度目の日本侵攻を準備しますが、ナヤン・カダアンの乱などでうやむやになり、フビライの死で、完全に計画はなくなります。
 一方、日本側も対外戦争の元寇では戦いに勝っても、分け与える領地はない状態です。
 当然に論功行賞は少なく、御家人の幕府への不満が高まって行きます。
 大聖人が諌めた加持祈祷を大いに行った為、その費用も幕府は御家人負担させ領地と言う形で社寺に支払います。
 ここでも御家人の幕府への不満は高まっていきます。
 そのお蔭で貨幣経済への、移行が進んだ側面もあります。
 防塁の建設の費用や、実際の戦費の御家人の負担、非常財政の為の徳政令(神領興行、借金の帳消し)などで、国内は疲弊し鎌倉幕府滅亡の遠因になっていきます。

 最後に
 この様に平安末期鎌倉時代は成立以前からも戦乱が多く国内が乱れまくっています。
 その上疫病・地震・異常気象が多発し、大変な世相でした。
 道や都市には屍が埋葬されずに、そこら中に積まれている状態です。
 ましてや1052(永承7)年から仏教界では末法に入ったと考えられていました。
 大聖人が、いかに妙法を広める事が急務か訴えるのはこういった背景が大いに関係します。

 と、とっても前書きが長くなりましたが、次回から本題に入ります。(笑)

2010/10/14  2010年度任用試験「上野殿御返事(竜門御書)」

 座談会拝読御書「上野殿御返事(竜門御書)」

 背景と大意
 本抄は、弘安2年(1279年)11月6日、日蓮大聖人が身延から駿河国(静岡県中央部)の南条時光に送られたお手紙で、別名を「竜門御書」といいます。
 時光は、亡き父の心を継いで、少年のころから大聖人を師匠と仰ぎ、日興上人の激励を受けながら、信心に励んできました。本抄を頂いた時は数えで21歳。駿河の青年リーダーと成長していました。
 駿河一帯は、北条家の本家の領地が広がり、その権力の影響が強い地域でした。日興上人の闘争によって広宣流布が進展すると、大聖人門下への風当たりが強まり、法華経の信仰を捨てるよう、さまぎまな迫害が起こります。
 弘安2年秋には、熱原の農民信徒20人が冤罪事件で逮捕され、平左衛門尉頼綱が下した非道な処断によって、最終的に3人が斬首され、殉教します。時光は、この熱原の法難に際し、弾圧を受けた同志を助けるために献身的に尽力しました。
 大聖人は本抄で、魚が竜となるには竜門という滝を上らなければならないように、仏となるには命に及ぶ苦難を乗り越えなければならないと述べられ、弟子たちに、今こそ大願を起こして法華経のために身命をなげうっていくよう呼びかけられています。
本文
 願くは我が弟子等・大願ををこせ、去年去去年のやくびやうに死にし人人の・かずにも入らず、又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしともみへず、とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ、法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云
通解
 願わくは、我が弟子たちよ、大願を起こせ。(あなたたちは)昨年、一昨年に流行した疫病で亡くなった人々の数にも入らなかった。また今、蒙古が攻めてきたら、死を免れる事が出来るとも思えない。ともかくも死は避けることが出来ない。その時の嘆きは、現在の迫害で死ぬ嘆きと変わらない。同じく死ぬのであれば、かりにも法華経の為に命を捨てなさい。それこそ露を大海に入れ、塵を大地に埋める様なものであると思いなさい。法華経第3の巻には「願わくは、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我等と衆生と、皆ともに仏道を成ぜん」と説かれている。
 解説
 本抄も短いので御書全集で全文を拝読して下さい。
 本抄は、弘安2年(1279年)11月6日、日蓮大聖人が身延から駿河国(静岡県中央部)の南条時光に送られたお手紙です。
 題号の「上野殿」は南条時光の事。駿河国上野郷(現在の静岡県富士宮市北西部一帯)の地頭であった為、上野殿と称された。
 御書冒頭からの「唐土に竜門と申す滝あり…」との御請訓から別名を「竜門御書」ともいいます。

 時光は、父・兵衛七郎の心を継いで、少年のころから大聖人を師匠と仰ぎ、日興上人の激励を受けながら、信心に励んできました。本抄を頂いた時は数えで21歳。駿河の青年リーダーと成長していました。
 駿河一帯は、北条家の本家の領地が広がり、その権力の影響が強い地域でした。日興上人の闘争によって広宣流布が進展すると、大聖人門下への風当たりが強まり、この地に、熱原の法難が起こります。
 大聖人は本抄で、弟子たちに、今こそ大願を起こせと力強く呼びかけられています。
 当時は、国中に災難に見舞われた時代でした。疫病などで死ななくても、蒙古の襲来による死は逃れがたいという不安に襲われていました。大聖人一門は権力の弾圧がよる、殉難を覚悟しなければなりませんでした。
 実際、弘安2年秋には、熱原の農民信徒20人が冤罪事件で逮捕され、平左衛門尉頼綱が下した非道な処断によって、最終的に3人が斬首され、殉教します。
 その最中に大聖人は、いずれにしろ死を免れがたいならば、「法華経のために命を捨てよ」(大願)と仰せになります。
 大願に生ききり、妙法に捧げてきっていくならば、そこには根本の使命を果たしゆく満足と充実が満ち満ちています。
 大聖人は本抄を法華経化城喩品の一節を引かれ結ばれます。「我等と衆生と、皆ともに仏道を成ぜん」と示されている通り、妙法に我が生命を捧げた大功徳は、あまねく一切衆生に広がって、自分だけでなく、あらゆる衆生の成仏への力となっていくのです。

 若き時光は、この熱原の法難に際し、弾圧を受けた同志を助けるために私邸を開放して保護したりと、献身的に尽力しました。
 大聖人は末文に「上野賢人殿御返事」「此れは熱原の事の・ありがたさに申す御返事なり。」と書き記し賞賛されています。

2010/10/12  2010年度任用試験「開目抄」

 座談会拝読御書「開目抄」

 背景と大意
 「開目抄」は日蓮仏法の真髄が明かされた一書です。大聖人が、極寒の流罪地・佐渡の塚原で著され、文永9年(1272年)2月、四条金吾を通して弟子一同に伝えられました。
 この時期、大聖人一門は、激しい弾圧の渦中にありました。前年の9月12日、大聖人は、竜の口の頸の座に臨まれ、その翌月には、佐渡に流罪されました。弟子たちも投獄・追放・所領没収な迫害を受け、「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(907ページ)と言われるほどの打撃を受けました。
 世間の人々や動揺した弟子たちからは「大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ諸天の加護がないのか」と厳しい批判が起こりました。こうした批判を一掃し、末法の衆生を救いゆく、「法華経の行者」の真実に目を開かせるために、本抄は著されました。
 まず冒頭では、一切衆生が尊敬すべきものは主師親であるという本抄の主題を示され、儒教・外道・仏教の主師親について検討されます。続いて、仏教において一代の経々の勝劣を検証され、法華経の本門寿量品に示された一念三千こそ究極の成仏の法であることを明らかにされます。その際、大難が競うのを承知のうえで、末法にこの法を説き始めた覚悟を述べられます。
 続いて「なぜ諸天の加護がないのか」という批判に答えられ、「三類の強敵」が国中に充満しているのは法華経に照らして明白であり、「法華経の行者」は、この強敵と戦う大聖人以外にないことを示されます。
 そして、諸天の加護がどうあれ、妙法を弘めて日本の柱・眼目・大船となろうという誓願に生き抜く覚悟を示され、弟子たちには、どんな難があろうと信心を貫き通していけば必ず仏界に至るという末法の成仏の道を教えられます。
 そして「法華経の行者」として生き抜かれる大聖人こそ「日本国の人々にとって主師親たる存在であると結論されるのです。
本文
 我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
通解
 私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである。
 天の加護がないからと信仰を疑ってはならない。現世が安穏でないからと嘆いてはならない。
 私の弟子に朝に夕に教えてきたけれども、疑いを起こして、皆、法華経を捨ててしまったようだ。愚かな者の常として、約束したことを大事な時に忘れてしまうものである。
 解説
 開目抄が執筆された当時は、日蓮門下にとって試練の時でした。
 師匠と崇(あが)めていた大聖人は冤罪で遠き佐渡の地へ流され、弟子達も罪人仲間の如く、大なり小なり迫害を加えられていた。
 佐渡の地は、大聖人が「彼の国に趣く者は死は多く生はまれなり」(1052ページ)と仰しゃられるように、大変過酷な所で、弟子達は絶望し不安に陥った者もいた。
 この時、退転者が数く出、そして中には、敵対していた念仏者よりも酷く、大聖人の悪口を言う者まで出ていました。
 そんな最中に佐渡の塚原で著わされ、文永9年2月四条金吾を通して弟子一同に伝えられました。
 「我並びに我が弟子」、日蓮大聖人は、万感を込めてこう呼びかけられています。大聖人は、法華誹誘の衆生と同じ姿で悪世末法に生まれ、「法華経の行者」となって「三類の強敵」による大難と戦い、誇法の罪業を消し去って、成仏という生命究極の勝利の姿を現されました。この難即悟達の闘争は、末法の衆生のために、大聖人が先頭に立って開き示された成仏の大道です。ゆえに大聖人は、「我並びに我が弟子」と、弟子たちに、師匠と不ニの信心で諸難に戦い勝って成仏していくよう教えられたのです。
 大聖人は、いざという時のために、こうした法門を教えられてきましたが、多くの弟子たちは、現実にその時が来ると、疑いを起こして退転していきました。最も大切な師弟の約束を果たすべき「まことの時」を決して忘れてはなりません。
 厳しき宿命の冬を、不撓不屈の信心で勝ち越えて、わが人生の勝利の春を堂々と謳歌していきましょう。

 弟子よ、師匠のごとく苦難に勝て
 日蓮大聖人が「一期の大事」を示された「開目抄」の結論部分であり、創価三代の師弟が身口意の三業をもって拝してきた御聖訓です。
 成仏を目指す闘争の途上に、苦難は避けられません。諸天の加護が現れない厳しい試練の時もあるでしょう。しかし、その時に、疑ったり嘆いたりしてはなりません。今こそ宿命転換の好機だと勇んで立ち上がっていくことです。
 池田名誉会長は語っています。 「現実は、さまざまな、いやなこと、苦しいことの連続かもしれない。しかし、それらがあるからこそ、成仏への大境涯を広々と開くことができる。あたかも、ジェット機が高速で急上昇していくように、苦難を糧として、境涯を急速に高めていけるのである。大聖人が仰せのように”難即安楽“である。また”難即解脱”であり、”難即前進”なのである」

 今回の御書は五大部のひとつ開目抄です。
 ほかに立正安国論・観心本尊抄・撰時抄・報恩抄があります。
 別名・法本尊開顕の書(ほうほんぞんかいけんのしょ)ともいい、観心本尊抄(人本尊開眼の書)と並ぶ重要な御書です。

PS
 え~~っ、そうかねっとからお越しの皆さん、折角ですから「ぶつかり稽古」でもしましょう。(^^)
 疑問点など、思う存分聞きましょう。
 恥ずかしがらずに遠慮無く。
 私が解らなければ、一支国親方や鯖理事長がいますんで安心して下さい。(笑)

2010/10/05  2010年度任用試験「阿仏房御書」

 来月28日が試験日ですが、11月は忙しいのが目に見えているので、前倒しに勉強をしておかないと後が大変になりそうですね。
 教学勉強の仕方は前回を参照して下さい。

 座談会拝読御書「阿仏房御書」
 背景と大意
 本抄は、日蓮大聖人が、佐渡の門下の阿仏房に送られたお手紙です。
 佐渡流罪中の文永9年(1272年)の御執筆とする説がありましたが、現在の研究では、身延に入山して1、2年のころと推測されています。
 阿仏房は、その名から、もともと念仏の強信者ではなかったか,と推察されます。
 大聖人が流罪を赦免されるまでの2年余り、妻の千日尼とともに、命懸けで大聖人をお守りし、その生活を支え続けました。
 大聖人の身延入山後も、高齢にもかかわらず、幾度も身延を訪れています。
 本抄で、大聖人は、法華経の見宝塔品第11で出現する宝塔の真の意義を明かされています。
 宝塔品の冒頭では、七宝に飾られた巨大な宝塔が、突如として大地から出現し、空中に浮かびます。
 さらに、その中から多宝如来が現れ、法華経を説いていた釈尊を招き入れて、虚空会の儀式が始まります。
 この宝塔は何を表現しているのでしょうか──阿仏房から寄せられた質問に対し、大聖人は、末法において法華経を持つ者のほかに宝塔はないと仰せになり、南無妙法蓮華経と唱える者は、身分や立場にかかわらず誰であろうと宝塔であると教えられます。
 さらに、宝塔とは南無妙法蓮華経にほかならないと御教示されます。
 そのうえで、阿仏房自身が宝塔であり、三身即一身の本覚の如来、すなわち本来、智慧と慈悲を生命に具えた仏であると述べられます。
 さらに、この教えを深く信じて題目を唱え抜くところこそ宝塔の住処であると教えられ、阿仏房夫妻に、宝塔を書き表した御本尊を授ける旨を明かされます。
 最後に、阿仏房を「北国の導師」と呼ばれ、使命の地で広布に励む信心を賞讃されています。

本文
 末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり
通解
 末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。
 もし、そうであるならば、身分の貴さや賎しさ、立場の上と下といった差別なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人の身が宝塔であり、また、その人の身が多宝如来なのである。
 妙法蓮華経よりほかに宝塔はない。法華経の題目が宝塔であり、宝塔はまた南無妙法蓮華経である。
 解説
 出来れば、御書全集で本文を読んで下さい。
 阿仏房御書は短いので、全文を読まれる事をお薦めします。
 御書全集は一生物なので、これを機会に購入されると良いでしょう。
 また、大白蓮華の拝読御書の下段の「用語解説」は覚えて下さい。

 まず、阿仏房が、どのような方か覚えましょう。
 佐渡流罪中の大聖人を命懸けでお守りし、生活を支えたのが阿仏房と、その妻の千日尼です。

 もともと念仏の強信者と思われる阿仏房は大聖人に「多宝如来涌現の宝塔何事を表し給うやと云云」多宝如来と涌き出た宝塔は何を意味するのでしょうか?と質問された。
 大聖人は「宝塔とは、妙法を持ったあなた自身の姿にほかなりません。それは身分や立場に関係なく南無妙法蓮華経と唱える人自身が宝塔であり多宝如来です」と質問者の阿仏房自身が『宝塔』だと仰せです。

 また、拝読御書の前段には「所詮・三周の声聞・法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり」とも仰せです。
 これは法華経において宝塔が出現した意義は、法華経の説法を聞いた仏弟子たちが、自身の内に仏性があることを確信し、それを宝塔として「見た」ことを表しているのです。
 「宝塔」は物理的な物ではありません、決して人間から離れてどこかに存在するのでなく、妙法を持ち、自他共の幸福のために戦う私たちの生命こそ尊極なる宝塔なのです。

 「貴賤上下をえらばず…」と仏界を涌現させるのに、必要なのは「南無妙法蓮華経」の題目です。
 「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり…」と宝塔は南無妙法蓮華経に他ならないと仰せです。
 「宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ」と、大聖人は妙法蓮華経という根本法を、御本尊として書き表し阿仏房に送られています。
 御本尊の前で、題目を唱え自身の中の宝塔を耀かせていく、それが宝塔の意義になります。
 また、自身だけでなく、他人の中に宝塔を見出し、地域に世界に広宣流布の「宝の塔」を林立させて行くことです。
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