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2010/11/17  2010年度任用試験 教学入門「三証と五重の相対」

 教学入門「三証と五重の相対」

3.三証と五重の相対
 ここでは、人々を絶対的幸福に導く正法を判定する「基準」として、「三証」と「五重の相対」を取り上げ、大聖人の仏法こそ、末法の一切衆生の一生成仏を可能にする宗教であることを学びます。

 三証
 三証とは、「文証」「理証」「現証」の三つをいいます。
 「文証」とは、その宗教の教義が依りどころとする経文、聖典のうえで裏づけをもっているかどうか、ということです。(略)
 次に「理証」とは、その宗教の教義や主張が道理にかなっているかどうか、ということです。「仏法と申すは道理なり」(1169ページ)と仰せのように、仏法は あくまで道理を重んじます。(略)
 「現証」とは、その宗教の教義を実践した結果が生命や生活、そして社会にどのように現れたか、ということです。(略)
 日蓮大聖人は「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468ページ)と仰せです。この御文で、道理とは理証、証文とは文証のことです。この御文に明らかなように、大聖人が一番重視されたのが現証です。それは、本来、現実の人間を救うために仏法があるからです。
(略)
 この三証のどれか一つが欠けても正しい宗教とはいえません。
 理証(理屈)だけでも駄目ですし、現証だけでも駄目です。
 3つ揃って初めて「教判」出来るのです。
五重の相対
 五重の相対とは、内外相対、大小相対、権実相対、本迩相対、種脱相対の五つの相対(比較)をいいます。
 これは、日蓮大聖人御在世当時の日本で知られていた一切の思想、宗教、なかでも仏教の種々の教えを比較検討して、それらの浅深、高低を判定し、現実に苦悩を解決し、人々を絶対的幸福境涯に導く究極の正法を明らかにしていくものです。
(略)
①内外相対
 内外相対とは、内道と呼ばれる仏教と、仏教以外の教えとの相対です。大聖人御在世当時に知られていた仏教以外の教えとは、中国の伝統思想である外典(儒教・道教など)と、古代インドの諸宗教である外道(伝統的なバラモン教や釈尊と同時代に生まれた六師外道と呼ばれる諸思想など)です。
(略)
 この人間の幸・不幸に視点を当てた因果を的確に説いているのが仏教(内道)で、仏教以外の諸宗教はその因果を説かないか、説いても偏った因果観にとどまっています。
(略)
 内道・外道は比較的一般的な用語なので覚え易いと思います。
 内外相対の過去記事はこちら
②大小相対
 大小相対とは、仏教のなかで小乗教と大乗教を比較相対し、大乗教が小乗教よりも勝っていることを明かすものです。「乗」とは、乗リ物の意味で、仏の教えが、人々を迷いと苦悩から悟りの境地へと運び、導くので、乗リ物に譬えたのです。
(略)
 小乗教は、出家して修行し、自分だけが悟ることを目指す二乗(声聞、縁覚)のための教えです。これは小さな範囲の人々しか救えないという意味で、小さな乗り物に譬えるのです。
(略)
 大乗教は、自分も他人もともに幸福になろうとする菩薩のための教えです。大乗教は、自分の救いを求めるだけでなく、他の多くの人々を救うことを目指すので、大きな乗り物に譬えられるのです。
(略)
 大小は救える人数の差です。また、大乗経は自分以外の他人をも救う教えになります。
 大小相対の過去記事はこちら
③権実相対
 権実相対とは、大乗教を、仏の真実の悟りを明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備、方便として説かれた権大乗教に立て分け、権大乗教よりも実大乗教か勝ることを示したものです。権とは仮の意、実とは真実の意です(なお、小乗経と権大乗経は法華経以前に説かれた経,という意味で爾前経と呼ばれることもあります)。
(略)
 仏は本来、いかなる境涯の人をも成仏させる根本法を悟ったのですが、大乗経典のなかでも華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経などの法華経以外の諸経では、二乗(声聞・縁覚)の成仏や、悪人・女性の成仏を否定しています。これは結局、九界と仏界の断絶を説いていることになります。
(略)
 それに対して、実教である法華経は、一切衆生に仏としての境地(仏界)が本来的に可能性として具わっており、平等に成仏できるという究極の真実のすがた(諸法実相)を強調します。それに基づき、二乗作仏(権大乗教で決して成仏できないとされた声聞・縁覚の成仏)や悪人・女性の成仏を説いて十界互具が明かされ、九界と仏界の断絶がなくなるのです。
(略)
 大乗経を法華経と爾前経に分けたのが権実相対です。
 二乗・悪人・女性の不成仏を説いている爾前経より、当然に一切衆生の成仏を説いた法華経が勝ります。
 権実相対の過去記事はこちら
④本迹相対
 法華経は28品(章)からなり、その内容から前半14品と後半14品とに立て分けられます。
 法華経の前半14品では、教えを説く釈尊が権教と同じく衆生を教化するために現した姿(垂迹)のままなので迹門といいます。
 法華経の後半14品は、釈尊が仏としての本来の真実の境地(本地)をあらわしたので本門といいます。
 本迹相対とは、法華経の前半14品の迹門と後半14品の本門を比較相対して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。

「始成正覚」の立場で説かれた迹門
 法華経の前半14品では、二乗作仏、諸法実相を説いて一切衆生の成仏の法理を明かしましたが、教えを説く釈尊が、いくつもの生を繰り返し、長遠な期間の修行を経て、今世でインドの伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟り(正覚)を得た仏であるという権教と同様の成仏観・仏陀観のままです。この仏の立場を「始成正覚」(始めて正覚を成ず)といいます。

「久遠実成」を明かした本門
(略)
 それに対して後半の本門14品、特に要の寿量品では、釈尊はインドの伽耶城近くの菩提樹下で初めて成仏したのではなく、実は想像を絶するはるか久遠の昔に成仏して以来、十界の種々の姿を現して衆生を教化している永遠の仏であるという釈尊の真実の姿が明かされたのです。
 この仏の立場を「久遠実成」といいます。
 このように、本門で仏の生命の常住(過去・現在・未来の三世にわたって常に存在すること)が明かされたことによって、初めて、迷いの境地にある一切衆生の生命にも仏の境地が常に内在することが示されたのです。
 また、永遠の仏によって久遠の昔から衆生が教化されてきたことが説かれ、衆生の生命も、永遠の仏と共に常住であることが示されるのです。
(略)
 この本門において、自身に本来具わる仏界の生命を覚知して開きあらわすという真実の成仏観が明らかになったのです。
 法華経前半14品は迹門、仏の立場は「始成正覚」。
 法華経後半14品は本門、仏の立場は「久遠実成」。
 これだけは覚えて下さい。
 本迹相対の過去記事はこちら
⑤種脱相対
 末法の衆生は、釈尊の仏法では成仏できず、大聖人の仏法によって初めて成仏できることを明確に明かすのが種脱相対です。
 種脱相対とは、久遠実成を明かす法華経文上の本門(脱益)と、南無妙法蓮華経を明かす日蓮大聖人の文底独一本門(下種益)を相対したものです。
 文底独一本門とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている成仏の根本の法を明らかにした日蓮大聖人の仏法のことです。

(略)
 「種脱相対」の「種脱」とは、「下種益」と「脱益」のことです。
(略)
 そして、最終的に成仏することを「得脱」といい、それを実現させる利益を「脱益」といいます。

釈尊の仏法は「脱益」
 釈尊の真実の仏の境涯を明かした法華経文上の本門は、他の諸経や迹門の教えによって調熟されてきた衆生を、仏の悟りに至らせ、得脱させる「脱益」の働きがあります。すなわち、この本門の教えを聞いた人々は、自身の生命にも本来的に仏の偉大な生命が具わっていることを実感し、得脱できたのです。
(略)

大聖人の仏法は「下種益」
 日蓮大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せです。
 その法は、釈尊を成仏させ、また、あらゆる仏を成仏させる根本の因となる法です。この「仏種」を直ちに説き、衆生に本来具わる永遠の仏界の生命を直接に触発する教えが「下種益」の教法です。
(略)
 日蓮大聖人はこの仏種である根源の法を南無妙法蓮華経としてあらわし、弘められました。末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し、自ら唱え、他の人にも教え、勧めることにより、自身の生命に仏界が涌現し、即身成仏することができるのです。
 法華経本門が脱益にとどまるのに対し、南無妙法蓮華経は下種益の法です。
このことを日蓮大聖人は「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(249ページ)と述べられています。「彼」とは釈尊在世の法華経文上の本門、「此れ」とは末法の初めに弘められる文底独一本門のことです(「一品二半」とは法華経本門の中心となる部分で、寿量品の一品とその前後の半品ずつのこと)。
 このように、末法の衆生は釈尊の脱益仏法では成仏できず、大聖人の下種仏法によって初めて成仏できることを明かしたのが種脱相対です。
(略)
日蓮大聖人の仏法は、最も人間を信頼し、尊敬し、その可能性を開くことを教える仏法です。そして苦悩に満ちた現実世界に生きる私たちに、希望を与え、勇気を与え、生き抜く力を与える教えなのです。
 種脱相対は難しいので、繰り返し読んで下さい。
 久遠実成でも「文上の本門」と「文底独一本門」とに別れます。
 末法の衆生は下種されていない衆生ですので、下種が必要になるのです。
 下種とは「南無妙法蓮華経」の題目を、唱えさせる事になります。
 種脱相対の過去記事はこちら

2010/10/30  2010年度任用試験 受験者講座

 任用試験の受験者講座が開かれますね。
 数回の放送ですので、参加が厳しい方も居られますね。

 「sokanet」で3日から放送されますから、必ず繰り返し見て下さい。
 講座で出た御文や説明から、問題が作られると思って下さいね。

2010/10/30  2010年度任用試験 教学入門「十界論と一生成仏」

 教学入門「十界論と一生成仏」

 前に書いた「 十界と十界互具」も参考までに。

2.十界論と一生成仏
 (略)
 十界
 「十界」とは、生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものです。十界の法理を学ぶことによって、境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの境涯を変革していく指針を得ることができます。
 「十界」それぞれの名を挙げれば、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。
 このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩蘇・仏をまとめて「四聖」といいます。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したものです。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯です。
 法華経以外の経典では、地の下に地獄があると説いたり、遠く離れた所に浄土(清らかな国土)を求めるなど、十界は全く別々に存在する世界としてとらえられていました
 しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、九界の衆生に仏界が具わっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯が具わることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命に具わる10種の境涯であることを示したのです。したがって、今の瞬間に十界のいずれか一界の姿を現している生命にも十界がすべて具わっており、縁によって次の瞬間に他の界の境涯をも現しうることが明らかになります。これを十界互具といいます。
 十界の名称・順番を覚えましょう。
 六道は、仏道修行をしなくても、その境涯になりますが、四聖は仏道修行を行う事によって、その境涯になるので、その差を覚えましょう。
 日蓮大聖人は、「浄土と云うも地獄と云うも外には候はず、ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏、といふ・これにまよふを凡夫と云う」(1504ページ、通解──仏の浄らかな国土といっても、地獄といっても、外にあるのではありません。ただ我々の胸の間にあるのです.このことを悟るのを仏といい、このことに迷うのを凡夫というのです)と述べられています。
 凡夫と仏の違いは何か覚えましょう。
 それでは、十界のそれぞれの境涯について述べます。まず、私たちの生命に具わる六道について、大聖人は観心本尊抄で次のように述べられています。
 「数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(241ページ)
 この御文に基づき、六道の一つ一つについて述べていきます。
 ①地獄界
 (略)
 大聖人は、観心本尊抄で「瞋るは地獄」と仰せです。「瞋り」とは、思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心です。苦の世界に囚われ、どうすることもできない生命のうめき声が瞋りです。いわば「生きていること自体が苦しい」、「何を見ても不幸に感じる」境涯が地獄界です。
 ②餓鬼界
 大聖人は「餓鬼悲むくし飢渇にうへて子を食ふ」(1439ページ)、「貧るは餓鬼」と仰せです。飢えて子まで食べるというような貧り、すなわち際限のない欲望にふりまわされ、そのために心が自由にならず、苦しみを生じる境涯のことです。
 もちろん、欲望そのものには善悪の両面があります。(略)しかし、欲望を創造の方向に使えず、欲望の奴隷となって苦しむのが餓鬼界です。
 ③畜生界
 (略)
 大聖人は「癡は畜生」と説かれています。因果の道理が分からず、正邪・善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動してしまう境涯です。
 また「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」(957ページ)、「畜生は残害(傷つけ殺すこと)とて互に殺しあふ」(1439ページ)といわれるように、畜生界の生命は、理性や良心を忘れ、自分が生きるためには他者をも害する弱肉強食の生存競争に終始していく境涯です。目先のことしか見えず、未来を思考できない愚かさの故に、結局は、自己を破滅させ、苦しむのです。
 (略)
 ◇
 地獄界・餓鬼界・畜生界の三つは、いずれも苦悩の境涯なので「三悪道」といいます。

 ④修羅界
 (略)
 自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強くもっているのが修羅界の特徴です。
 (略)
 自分をいかにも優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人をよそおい、謙虚なそぶりすら見せることもありますが、内面では自分より優れたものに対する妬みと悔しさに満ちています。このように内面と外面が異なり、心に裏表があるのも修羅界の特徴です。
 故に、大聖人は「諂曲なるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは「諂い」「曲がった」心のことで、「諂」も「曲」も「心が曲がっている」ことです。「諂い」とは、具体的には「自分の本心を見せないで従順をよそおう」ことです。
 ◇
 この修羅界は、貪瞋痴の三毒(貪り、瞋り、癡という三つの根本的な煩悩)にふりまわされる地獄・餓鬼・畜生の三悪道と異なり、自分の意思で行動を決めている分だけ三悪道を超えているといえます。しかし、根本は苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣」ともいいます。
 三悪道と四悪趣の違いを覚えましょう。 どちらかは試験で出る確率が高いです。
 ⑤人界
 人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯をいいます。大聖人は「平かなるは人」と仰せです。
 この人界の特質は、因果の道理を知り、物事の善悪を判断する理性の力が明確に働いていることです。大聖人は「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174ページ)と言われています。善悪を判別する力を持ち、自己のコントロールが可能になった境涯です。
 (略)
 また人界の生命は「聖道正器」といわれ、仏道(聖道)を成ずることができる器であるとされています。
 人界は悪縁にふれて悪道に堕ちる危険性もある半面、修行に励むことによって四聖への道を進むことができる可能性をもっているのです。
 ⑥天界
 (略)
 仏法では、天界を生命の境涯の一つとして、欲望を満たした時に感じる喜びの境涯として位置づけています。大聖人は「喜ぶは天」と仰せです。
 (略)さまざまな欲望が満たされ、喜びに浸っている境地が天界です。
 しかし、天界の喜びは永続的なものではありません。時の経過とともに薄らぎ、消えてしまいます。ですから天界は、目指すべき真実の幸福境涯とはいえないのです。

 六道から四聖へ
 以上の地獄界から天界までの六道は、結局、自身の外の条件に左右されています
 たまたま欲望が満たされた時は天界の喜びを味わったり、環境が平穏である場合は人界の安らぎを味わえますが、ひとたびそれらの条件が失われた場合には、たちまち地獄界や餓鬼界の苦しみの境涯に転落してしまいます。
 環境に左右されているという意味で、六道の境涯は、本当に自由で主体的な境涯とはいえないのです。
 これに対して、その六道の境涯を超え、環境に支配されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行です。
 そして仏道修行によって得られる境涯が声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境涯です。
 六道と四聖の違いは、環境に影響されるか、されないかの違いです。
 そして四聖は仏道修行で得られるのです。
 ⑦声聞界
 ⑧縁覚界

 声聞界と縁覚界の二つは、仏教のなかでも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びます。
 声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な悟りを獲得した境涯をいいます。
 これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、自らの力で仏法の部分的な悟りを得た境涯です。
 (略)
 私たちも日々の生活の中で、自分自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがあります。ゆえに大聖人は「世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや」(241ページ)と言われ、人界に二乗界が具わっているとされたのです。
 この二乗の境涯は、仏教のなかでも小乗教が目標としたもので、二乗の境涯を得た小乗教の聖者は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとしました。しかし、そのために自分自身の心身のすべてを消滅させるという誤った道(灰身滅智といわれる)に入ってしまいます
 二乗が得た悟りは、仏の悟りから見れば、あくまでも部分的なものであり、完全なものではありません。(略)
 また、二乗は自らの悟りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。
 このように、「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。
 ⑨菩薩界
 菩薩とは、仏の悟りを得ようとして不断の努力をする衆生という意味です。二乗が仏を師匠としていても、自分たちは仏の境涯には至れないとしていたのに対し、菩薩は、師匠である仏の境涯に到達しようと目指していきます。
 また、仏の教えを人々に伝え弘めて人々を救済しようとします。
 すなわち、菩薩の境涯の特徴は、仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。
 (略)
 この菩薩界の境涯の根本は「慈悲」です。大聖人は、観心本尊抄で 「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」(241ページ)と仰せです。他人を顧みることのない悪人ですら自分の妻子を慈愛するように、生命には本来、慈悲が具わっています。この慈悲の心を万人に向け、生き方の根本にすえるのが菩薩界です。
 ⑩仏界
 仏界は、仏が体現した尊極の境涯です。
 仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法を覚った人のことです。(略)
 日蓮大聖人は、末法の一切衆生を救うために、一個の人間として御自身の生命に仏界の境涯をあらわし、一切衆生の成仏の道を確立された末法の御本仏です。
 仏界とは、自身の生命の根源が妙法であると悟ることによって開かれる、広大で福徳豊かな境涯です。この境涯を開いた仏は、無上の慈悲と智慧を体現し、その力で一切衆生に自分と等しい仏界の境涯を得させるために戦い続けます。
 仏界は、私たちの生命に本来、具わっています。ただ、それを悩み多き現実生活の中で現すことは難しいので、大聖人は人々が仏界の生命を現していくための方途として御本尊を顕されました。「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ……日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124ページ)と仰せのように、御本尊に末法の御本仏・日蓮大聖人の仏界の御生命があらわされているのです。その真髄が南無妙法蓮華経です。私たちは御本尊を信じて自行化他にわたる唱題に励むときに、自身の生命の仏界を現すことができるのです。
 仏界の生命と信心との深い関係について大聖人は、観心本尊抄で「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(241ページ)と言われています。法華経は万人が成仏できることを説く教えですが、その法華経を信ずることができるのは、人間としての自分の生命の中に本来、仏界が具わっているからです。
 また、この大聖人の仰せを受けて日寛上人は「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と述べています。
 この法華経とは末法の法華経である御本尊のことで、御本尊を信じて生き抜く「強い信心」そのものが仏界にほかならないということです。
 この仏界の境涯を現代的に言うならば、何ものにも侵されることのない「絶対的な幸福境涯」といえましょう。戸田第2代会長は、信心によって得られるこの境涯について「生きていること自体が幸福であるという境涯」と述べています。
 また仏界の境涯は、しばしば師子王に譬えられます。どのような状況下でも師子王のように恐れることのない、真の安心立命の境涯であるといえます。
 声聞縁覚はなぜ「二乗」と言われるのか?
 菩薩界の境涯の根本の「慈悲」は悪人にも具わっている事。
 仏界は、末法の御本仏・日蓮大聖人が書き顕した御本尊を信受し、自行化他にわたる唱題を励む時に、その境涯になれます。
 「仏界」という「絶対的幸福」について次の「一生成仏」で学びます。
 一生成仏
 信心の根本的な目的は、私たち自身が仏の境涯を得ることです。
 御本尊を信受して純真に自行化他の実践に励むならば、どのような人でも必ず一生のうちに成仏の境涯を得ることができるのです。これを「一生成仏」といいます。
 自行化他の「自行」とは、自分自身が利益を受けるために修行すること。「化他」とは、他人に利益を受けさせるために教え導くことです。
 日蓮大聖人は「法華経の行者は如説修行せぱ必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、警えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む」(416ページ、通解──法華経の行者は、仏の説いた通りに修行するならば、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができる。譬えば、春、夏に田を作るのに、早く実る品種と遅く実る品種の違いがあっても、どちらも一年のうちには必ず収穫できるようなものである)と述べられています。
 (略)
 また成仏とは、他の世界に行くことではなく、あくまでもこの現実世界において、なにものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいうのです。
 御書に、「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」(784ページ、 通解──桜、梅、桃、李のそれぞれが、その特質を改めることなく、そのままの姿で無作三身の仏であると見るのである)と仰せのように、成仏とは、自分自身が本来持っている特質を生かしきって、自身をもっとも充実させていく生き方をすることです(「無作三身」とは何も飾らないそのままの姿で仏の特質をすべて具えている真実の仏のこと)。
 すなわち、仏の境涯、とは、生命の全体が浄化され、本来もっている働きを十分に発揮して、様々な困難に直面しても動揺しない、力強い境涯になることをいいます。
 また、成仏とはゴールに到達するということではありません。妙法を受持して、悪を減し善を生ずる戦いを続けていく、その境涯が仏の境涯なのです。間断なく広宣流布に戦い続ける人こそが仏なのです。

 相対的幸福と絶対的幸福
 戸田第2代会長は、幸福には「相対的幸福」と「絶対的幸福」があると述べています。
 相対的幸福とは、物質的に充足したり、欲望が満ち足りた状態をいいます。しかし、欲望には際限がないし、たとえ、一時は満ち足りたようでも永続性はありません。外の条件が整った場合に成立する幸福なので、条件が崩れた場合には、その幸福も消えてしまいます。
 これに対して、絶対的幸福とは、どこにいても、また、何があっても、生きていること自体が幸福である、楽しいという境涯をいいます。それは外の条件に左右されることのない幸福なので、絶対的幸福というのです。成仏とは、この絶対的幸福境涯をいいます。
 現実世界に住んでいる以上、人生にさまざまな苦難はつきものです。(略)あらゆる困難を乗り越えていく生命力と智慧を身につけた人にとっては、困難が渦巻く現実世界そのものが、充実感に満ちた価値創造の場となるのです。
 また、環境に依存する相対的幸福が「死」によって途絶えるのに対し、絶対的幸福である仏の境涯は、「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(724ページ、通解──我が身が、妙法の大地を生死生死とめぐり行くのである)と仰せのように、死をも超えて存続していくのです。
 相対的幸福(六道天界の幸福や二乗・菩薩の幸福)では揺らいでしまいます。
 最高の仏界境涯の「絶対的幸福」を目指す事が生死を超え、自他共に揺るがない境涯を築けるのです。

 十界は基本法門です。
 誰しも仏界を持ち、その境涯になれるのです。(十界互具)
 そして仏界境涯になると言う事は、自行化他の唱題をして「一生成仏」する事も明かです。
 全ては繋がっている事を覚えて下さい。

2010/10/19  2010年度任用試験 教学入門「日蓮大聖人の御生涯」

 教学入門「日蓮大聖人の御生涯」
 文中の日蓮大聖人の年齢は全て「数え年」で記します。
 そのまま、丸暗記が多いですが、概略だけでも覚えて下さい。
 「立正安国論の提出の後に、松葉ケ谷の法難」といった感じです。
 また、各章ごとの年号も出題されやすいです。
 「(4)竜の口の法難と発迹顕本」なら「文永8年(1271年)9月12日」と言った感じです。

1.日蓮大聖人の御生涯
日蓮大聖人の御生涯──それは、全人類の不幸を根絶し、すべての人々に仏の境涯を開かせたいとの誓願と慈悲に貫かれた妙法弘通の御一生でした。そして、民衆の幸福を阻む一切の悪を責め抜き、大難につぐ大難の御生涯でもありました。
(1)誕生・出家・遊学
 日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷の片海(現在の千葉県鴨川市)という漁村で誕生されました。漁業で生計を立てる庶民の出身でした。12歳から安房国の清澄寺で、教育を受けられました。
 大聖人は、仏法を究めるために、16歳の時、清澄寺の道善房を師匠として出家されました。
 大聖人は、鎌倉・京都・奈良等の各地の諸大寺を巡る遊学を開始し、一切経を学ぶとともに、各宗派の教義の本質を把握していかれました。その結果として、法華経こそが仏教のすべての経典のなかで最も勝れた経典であり、御自身が悟った南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要であリ、万人の苦悩を根本から解決する法であることを確認されました。そしてこの南無妙法蓮華経を、末法の人々を救う 法として弘める使命を自覚されました

(2)立宗宣言
 遊学によって妙法弘通の使命とその方途を確認された大聖人は、大難が起こることを覚悟のうえで、妙法弘通の実践に踏み出すことを決意されました。 そして、建長5年(1253年)4月28日の「午の時」(正午ごろ)、清澄寺で、念仏などを破折するとともに、南無妙法蓮華経の題目を高らかに唱えて末法の民衆を救済する唯一の正法を宣されました。これが「立宗宣言」です。立宗とは宗旨(肝要の教義)を立てることです。32歳の時でした。この頃、みずから「日蓮」と名乗られました。
 この立宗宣言の際に念仏宗の独善的な教義を厳しく批判した大聖人に対し、地頭の東条景信は念仏の強信者であったために激しく憤りました。
 そして、大聖人に危害を加えようとしましたが、大聖人は無事、その難を免れました。
 鎌倉に出られた大聖人は名越の松葉ケ谷に草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。
 この弘教の初期に、富木常忍・四条金吾・池上宗仲らが入信しました。

(3)立正安国論の提出と法難
 大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震等の天変地異が相次ぎ、大飢鰻・火災・疫病(伝染病)などが続発していました。
 特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震(正嘉の大地震)は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらしました。
 大聖人は、この地震を機に、世の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世に示すため、駿河国(現在の静岡県中央部)にある岩本実相寺で一切経を読まれました。この時、日興上人が大聖人の弟子となっています。
 そして大聖人は立正安国論を著され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出されました。これが大聖人による最初の国主諌暁です。
 人々が悪法への帰依を止めて正法を信受するなら平和楽土が現出するが、悪法(念仏など)への帰依を続けるなら、経文に説かれている三災七難等の種々の災難のうち、まだ起こっていない自界叛逆難(内乱)他国侵逼難(他国からの侵略)の二つの災難が起こるであろうと警告し、速やかに正法に帰依するよう諌められました
 立正安国論提出後ほどない、ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、松葉ケ谷の草庵を襲いました(松葉ケ谷の法難)
 幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。
 翌・弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました(伊豆流罪)。
 弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。
 文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時の戦闘で、門下が死亡し、大聖人も額に傷を負い、左の手を折られました(小松原の法難)。

(4)竜の口の法難と発迹顕本
 文永5年(1268年)、蒙古からの国言が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されていました。立正安国論で予言した他国侵逼難が、現実のものとなって迫ってきたのです。
 そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11カ所に対して書状(十一通御書)を送り、公の場での対決を迫りました。

 文永8年(1271年)に大早勉(長期間のひでり)が起こった時、極楽寺良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされました。
 それは、もし良観が7日のうちに雨を降らせたなら、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。
 その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は7日の延長を申し入れて祈りましたが、それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。
 しかし、良観はみずからの敗北を素直に認めず、大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちに働きかけて、権力による弾圧を企てました。
 良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。
 9月10日、大聖人は幕府から呼び出されて、侍所の所司(侍所は軍事・警察を担当する役所。所司は次官のこと。長官は執権が兼務)である平左衛門尉頼綱の尋問を受けました。
 この時、大聖人は平左衛門尉に対して仏法の法理のうえから、国を治めていく一国の指導者のあるべき姿を説いて諌め られました。
 2日後の文永8年(1271年)9月12日、平左衛門尉が武装した兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人は謀叛人(時の為政者に叛逆する人)のような扱いを受けて捕らえられました。この時、大聖人は、平左衛門尉に向かって「"日本の柱"である日蓮を迫害するならば、必ず自界叛逆・他国侵逼の二難が起こる」と述べて、強く諌暁されました(第2回の国主諌暁)
 大聖人は、何も取り調べがないまま、夜半に鎌倉のはずれにある竜の口に連行されました。平左衛門尉らが、内々で大聖人を斬首することを謀っていたのです。しかし、まさに刑が執行されようとしたその時、突然、江ノ島の方から”まリ”のような大きな光リものが夜空を北西の方向へと走りました。兵士たちはこれに怖じ恐れて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)
 この法難は、大聖人御自身にとって極めて重要な意義をもつ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、凡夫という迹(仮の姿)を開いて、久遠元初自受用報身如来という本地(本来の境地)を顕されたのです。これを「発迩顕本」(迹を発いて本を顕す)といいます。
 この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としてのお振る舞いを示されていきます。そして、万人が根本として尊敬し、帰依していくべき御本尊を御図顕されていきました。

(5)佐渡流罪
 幕府では竜の口の法難後のしばらくの間、大聖人への処遇が定まらず、約1ヵ月間、大聖人は相模国の依智(現在の神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門(佐渡国の守護代)の館に留め置かれました。
 結局、佐渡流罪と決まり、大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し、11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に入りました。
 他方、竜の口の法難での弾圧は、鎌倉の門下にも及び、土牢に入れられたり、追放、所領没収などの処分を受けます。そして、多数の門下が臆病と保身から大聖人の仏法に疑いを起こして退転してしまいました。
 翌文永9年(1272年)1月16日、17日には、佐渡だけでなく北陸・信越等から諸宗の僧など数百人が集まり、大聖人に法論を挑んできましたが、大聖人は各宗の邪義をことごとく論破されました(塚原問答)。
 2月には北条一門の内乱が起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました(二月騒動)。大聖人が竜の口の法難の際に予言された自界叛逆難が現実になったのです。
 この佐渡流罪の間、日興上人は、大聖人に常随給仕して苦難をともにされました。
 大聖人は、この佐渡の地で多くの重要な御書を著されていますが、とりわけ重要な著作が開目抄観心本尊抄です。
 文永9年2月に著された開目抄は、日蓮大聖人こそが法華経に予言された通りに実践された末法の「法華経の行者」であり、末法の衆生を救う主師親の三徳を具えられた末法の御本仏であることを明かされているところから、「人本尊開顕の書」といわれます。
 文永10年(1273年)4月に著された観心本尊抄は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かしており、「法本尊開顕の書」といわれます。
 文永11年(1274年)2月、大聖人は赦免され、3月に佐渡を発って鎌倉へ帰られました。4月に平左衛門尉と対面した大聖人は、蒙古調伏の祈祷を邪法によって行っている幕府を強く諌めるとともに、平左衛門尉の質問に答えて、蒙古の襲来は必ず年内に起こると予言されました(第3回の国主諌暁)
 この予言の通り、同年10月に蒙古の大軍が九州地方を襲ったのです(文永の役)。
 これで、立正安国論で示された自界叛逆難・他国侵逼難の二難の予言が、二つとも的中したことになりました。
 このように、幕府を直接に諌暁して、二難を予言し、的中させた御事跡は、これで3度目になります(1度目は立正安国論提出の時、2度目は竜の口の法難の時)

(6)身延入山
 3度目の諌暁も幕府が用いなかったため、日蓮大聖人は鎌倉を離れることを決意し、文永11年(1274年)5月に甲斐国(現在の山梨県)波木井郷の身延山に入られました。しかし、大聖人の身延入山は、決して隠棲(俗世間から離れて静かに住むこと)などではありませんでした。
 身延において大聖人は撰時抄、報恩抄をはじめ、数多くの御書を執筆されて、大聖人の仏法の重要な法門を説き示されました。特に、三大秘法(本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目)を明らかにされました。
 さらに、法華経の講義などを通して未来の広布を担う人材の育成に全力を注がれました。また、多くの御消息(お手紙)を書かれ、在家信徒一人一人を激励し、各人が人生の勝利と成仏の境涯が得られるよう、指導・激励を続けられました。

(7)熱原の法難と出世の本懐
 日蓮大聖人の身延入山後に、駿河国(現在の静岡県中央部)の富士方面では、日興上人が中心となって折伏・弘教が進められ、天台宗などの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨てて、大聖人に帰依するようになりました。
 そのために、地域の天台宗寺院による迫害が始まり、大聖人に帰依した人々を脅迫する事件が次々に起こいりました。
 弘安2年(1279年)9月21日には、熱原の農民信徒20人が無実の罪を着せられて逮捕され、鎌倉に連行されました。農民信徒は平左衛門尉の私邸で拷問に等しい取り調べを受け、法華経の信心を捨てるよう脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました
 そして、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人の兄弟が処刑され、残る17人は居住する地域から追放されました。この弾圧を中心とする一連の法難を「熱原の法難」といいます。
 農民信徒たちの不惜身命(仏道修行のためには身命を惜しまないこと)の姿に、大聖人は、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられて、10月1日に著された聖人御難事で、立宗以来「二十七年」目にして、「出世の本懐」を遂げられたと宣言されました。
 そして、弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立されたのです。
 熱原の法難において、民衆が不惜の強き信心を表したことこそが、大聖人の大願である広宣流布成就の根本要件なのです。
 また、この法難において、大聖人門下は異体同心の信心で戦いました。特に、21歳の青年・南条時光は同志を守るなど活躍ました。

(8)御入滅と日興上人への継承
 弘安5年(1282年)9月8日、大聖人は、弟子たちの勧めで常陸国(現在の茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行くとして、9年間住まわれた身延山を発ちました。そして、武蔵国池上(現在の東京都大田区)にある池上宗仲の屋敷に滞在し、後事について種々定められました。
 9月25日には、病を押して、門下に対し立正安国論を講義されました。
 弘安5年(1282年)10月13日、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で61歳の尊い生涯を終えられたのです。
 なお、大聖人は身延を発たれる前、及び御入滅の日に日興上人に付嘱されました。
 日興上人はただ一人大聖人の不惜身命の広宣流布の精神と行動を受け継がれました。また広宣流布の継承者の自覚から、謗法厳誡の精神を貫き、国主諌暁を推進するとともに、御書を末法の聖典と拝して研さんを奨励し、行学の二道に励む多くの優れた弟子を輩出しました。


日蓮大聖人略年譜
貞応元年(1222年)1歳 2・16 安房国長狭郡東条郷の片海に御誕生
建長5年(1253年)32歳 4・28 清澄寺で立宗宣言
文応元年(1260年)39歳 7・16 立正安国論を北条時頼に提出し、諌暁する
                    直後に、松葉ヶ谷の法難(7月または8月)
弘長元年(1261年)40歳 5・12 伊豆に流罪される
文永元年(1264年)43歳 11・11 小松原の法難
文永5年(1268年)47歳 10・11 十一通御書をしたため、各所に送る
文永8年(1271年)50歳 9・12 竜の口の法難
               10・10 流罪地・佐渡に向かう
文永9年(1272年)51歳 1・16、17 塚原問答
               2月 鎌倉と京都で内乱(二月騒動)
               2月 開目抄を著す
文永10年(1273年)52歳 4・25 観心本尊抄を著す
文永11年(1274年)53歳 3・26 佐渡から帰還され、鎌倉に着く
                4・8 平左衛門尉と会見、年内の蒙古襲来を予言
                5・17 身延に入る
                10月 蒙古の大軍が九州を襲う(文永の役)
弘安2年(1279年)58歳 9・21 熱原の農民信徒20人が捕らえられる
               10・12 一閻浮提総与の大御本尊を御建立
弘安4年(1281年)60歳 5月~ 蒙古襲来(弘安の役)
弘安5年(1282年)61歳 10・13 武蔵国の池上宗仲邸で御入滅

 年号や日付など覚える事が多いのが「大聖人の御生涯」です。
 最後の略年譜だけでも絶対に暗記しましょう。

 物語として、大聖人の御生涯を想像してみるのも手です。
 「佐渡の塚原で寒そうにしている大聖人と、一生懸命にお世話する日興上人」といった感じです。
 日蓮大聖人の事績の聖歳は、過去あまり問題になってません。(何歳の時に何があったか)
 みんなでワイワイと想像しながら話すと覚えやすいです。(他の事と関連付けると覚え易い)

 この「日蓮大聖人の御生涯」は試験日まで繰り返し読んで下さいね。
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