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2010/03/13  個人指導・家庭訪問の重要性について

 ちょっと、ecoさんとは中断して新・人間革命から研鑽です。
 ecoさん申し訳ありません。m(_ _)m

 引用が多いですが、大事な部分なのです、申し訳ありません。
新・人間革命 第8巻 宝剣(P102-)
 次いで、伸一は、「女子部の皆さんも、どうか真心を込めて、一人ひとりのメンバーの個人指導を実践していっていただきたい」と呼びかけた。
 彼は、男女青年部の活動が、会合や行事の運営などが中心となり、個人指導がなおざりになっていくことを心配していたのである。
 学会活動の基本は、自行としての勤行・唱題と、化他行としての折伏と個人指導にある。
 また、見方によっては、折伏とは、一人の人が入会することで終わるのではなく、個人指導を重ね、その人が自分以上の人材に育ってこそ、完結するということができる。
 「折伏を…」「人材を…」と頑張ってみても、中途半端では駄目ですね。
 最終目的を見失っては、空しいだけになってしまう。

 会合も大切であることはいうまでもないが、会合に出席する人というのは限られている。たとえば、座談会を見ても、参加者に倍するほどのメンバーが、それぞれの組織にはいるはずである。そこに、満遍なく激励の手を差し伸べてこそ、盤石な学会がつくられ、それが拡大にもつながり、広宣流布の広がりも生まれる。いわば、個人指導なき活動は、画竜点晴を欠いているといってよい。
 ひとくちに個人指導といっても、決して、容易なことではない。
 会員のなかには、さまざまな人がいる。会って話すことを拒む人もいれば、子供のころに親と一緒に入会してはいるが、自分は信仰をした覚えはないという人もいるかもしれない。あるいは、学会に著しく批判的な人もいるだろう。さらに、病苦や経済苦などに悩み、未来への希望を見いだせずに悶々としている人もいる。そうした人びとの家を訪ね、知恵を絞って対話の糸口を探し、友情を結び、信仰の大切さを語り、勤行や教学を教えていくことは、並大抵のことではない。
 会合に出るだけ、運営をする事で満足をしてはならない。
 夜遅くまで活動をしていると、それだけで「やった気」になってしまう心を戒めないとね。
 会い易い人にだけ訪問しても駄目だ。
 行き難い所に行って友誼を結ばないと真の連帯も人材も出来ない。

 それは、会合で話をしたり、行事の運営をすることより、はるかに難しいにちがいない。しかし、そこにこそ、自身の鍛錬がある。他者を育成するなかにこそ、自己の成長もあるからだ。また、その労作業のなかに、まことの仏道修行がある。
 会合に集って来る人だけを相手に、活動を進めることは楽ではあるが、そこには本当の広宣流布の広がりはない。それでは、海の彼方の岸辺をめざしながら、入り江のなかを巡って満足しているに等しいといえよう。学会活動の主戦場となる舞台は、会合の先にこそあることを、幹部は深く認識しなければならない。
 リーダーの意識も持ちようで、その組織が広宣流布の主戦場に立っているかいないかが決まる。
 いつも来るNL、地区Lとだけ活動するのは楽だ。
 でも、それでは組織が停滞してしまう。
 自分の成長は、他人の成長と共にある事を自覚しよう。

 創価学会の真心のネットワークを形成してきたものも、家々を訪問しての個人指導であった。大樹が、網の目のように、地中深く張り巡らされた根によって支えられているごとく、学会を支えているものも、この地道な個人指導の積み重ねであるといってよい。
 臆病で怠惰なスタンドプレーヤーには、この勇気と忍耐の労作業を成し遂げることはできない。民衆のなかへ、友のなかへ、人間のなかへと、個人指導の歩みを進める人こそが、仏の使いであり、まことの仏子であり、真正の勇者といえるのだ。
 山本伸一は、青年部の幹部が、個人指導に徹していくならば、学会の未来は永遠に磐石であると確信していた。川が流れるにつれて川幅を広げ、水かさを増すように、時代を経るごとに、人の輪が広がり、数多の人材が輩出されていくことになるからである。
 しかし、青年部の幹部がそれを怠るならば、学会という大樹の根を、自らの手で断ち切ることに等しい。ゆえに彼は、この女子部の幹部会で、個人指導の大切さを訴えたのである。
 個人指導と家庭訪問をしない「臆病者」になってはならない。
 リーダーなら、打って出る勇気と忍耐を身に付けよう。
 点での訪問では人との繋がりは出来ない。
 足繁く通い、話を聞き、共に進み行くリーダーになろう。


 ここ最近の聖教紙上でもずーっと「対話」「仏子を敬え」「同志を護り抜け」等など、ご指導されている。
 大白蓮華でも、同時中継でも同じ事を師匠は仰しゃられている。

 訪問しづらい家庭は、中々敬えないかもしれない。
 塩をまく部員さんは、同志と思えないかもしれない。
 でも、個人指導と家庭訪問は自身の成長と、惰性を排する事になる。
 なにより、そこに価値の創造がある。

2009/12/28  楽観と楽天

 野球の話ではなく、信心の話。(笑)

楽観主義と指導者
終了後、質問会が行われた。一人の受講者が勢いよく手を挙げた。
 「孫文にしても毛沢東にしても、楽天的だといわれますが、楽天的ということは指導者の要素なのでしようか」
 会長は、熟慮しながら答えた。
 「指導者の一つの要素として、包容力があるということは共通です。指導者は必ず包容力をもたなければならない。一念の中に、戦いを絶対に勝ち抜こうという用心と気概がなくてはならない。
 それがない楽天的というのは、民衆の心を本当に考えてない指導者の証拠になります。誤りです」
 「たとえば、あなたが悪口を言われた。また大罰を受けた。それでも、広宣流布のために、人生の確立に向かって、ほほ笑みながら、凜然として進んでいく。それが真の楽観主義です」
大白蓮華2009年12月号より

 昔の話です。
 私は信心をしていて、普通では考えられない様な苦難の乗り越え方をしました。
 「信心をしているから大丈夫だ」と「楽天的」に考えて惰性の信心になった事がある。
 そんな時に「楽天と楽観は違う」と先生の指導を聞いた。
 正に目から鱗だった。(^^)
 「信心をしているからこそ諸事に一念を尽くす」、頭で判っていても出来ませんでした。
 「そうか、私は楽天的に考えてたんだ。」
 何も考えてない事(楽天)と、考えて用心してその上で「乗り越える!」と決意する事(楽観)は違うと知った。

 楽天的にノープランで、考えている同志がいた。
 自分の苦境で最悪の事態を想定しつつ、打てる手を打って初めて楽観的になれるんだ。と話した。
 そんな中、大白蓮華が届き上記の部分を読んだ。
 時の附合に驚いた。(^^)

 学会が明るく楽しいのは、皆が楽観だからでしょう。
 棚ぼた的に宿業を乗り切った人はいない。
 「こうこうこうして、乗り越えたんだ」と用心して勝つと気概を持ったから体験を語れる。

 私も今年は今年で宿業を乗り越えたが、来年もまた違う宿業は出て来るはずだから、楽観的に行きたいと思います。(笑)

2009/06/07  今日6月7日は「高等部結成記念日」

-今年は、結成45周年-

 高等部の設置は今から45年前の1964年(昭和39年)6月1日、男子部幹部会の席上、発表されました。

 6月7日。晴れやかに開催された旧・東京第2本部の男子高等部結成式。新出発の会合は喜びにあふれ、学会歌を合唱し、質問会も活発に行われていました。そして、最後の質間者が手をあげる直前、場内に拍手と歓声が上がりました。
 「やあ、ご苦労さま!」
──池田先生が突燃。会場に姿を見せたのです。
 先生は参加者と一緒に勤行をし、ご指導をしました。
 大きな期待を込めて語りかける池田先生。
 「世界の指導者を見ると、多くは、十代、二十代で、人生の哲学、思想、信念をもち、それを貰いて、三十代、四十代で、偉大な仕事を成し遂げております。
 青春時代に、生き方の骨格をつくり、さらに完成させていくところに、確かな入生の道があります。その意味から、諸君も、信心に励み、題目を唱えきって、最高の生命の哲学である仏法を、人生の根本の思想にしていっていただきたいのであります」──この日が、先生と高等部の出発の曰であり、部の淵源となっているのです。

後継の心と”大楠公”

 高等部結成の翌65年(昭和40年)10月、高等部の部旗授与式が行われた。
 席上、池田先生は恩師・戸田先生の前で幾度となく”大楠公”を歌った思い出を語った。
 ♪青葉(あおば) 茂(しげ)れる桜井(さくらい)の
  里(さと)のわたりの夕(ゆう)まぐれ
 の歌詞で始まる、この歌に後継の思いを託(たく)されたのです。

 この歌は、戸田先生が生前、よく青年たちに歌わせた歌であった。
 大楠公は、一三三六年(延元(えんげん)元年・建武(けんむ)三年)、朝敵・足利尊氏の上洛を防ぐために、湊川(みなとがわ)の戦いに赴く武将・楠木(くすのき)正成(まさしげ)と、長子の正行(まさつら)の、父子の別れを歌った歌である。
 敗北が必至の湊川の戦いに臨む正成は、桜井の地でわが子・正行を呼び、故郷に引き返すように告げる。だが、正行も父とともに死ぬ覚悟であり、帰ろうとはしなかった。
 しかし、正成は、二人が討ち死にするならば、尊氏の天下となってしまうことを訴え、生きて、早く立派に成長し、国のために仕えよと諭して、故郷に帰すのである。

 池田先生は語った。
「この歌を歌わせた恩師の真意は何か。
 それは、当時の私たちに対して”青年幹部よ、早く広布の人材となり創価学会の中核となって、日本の大指導者となっていきなさい”ということです。」
 ”大楠公”は、恩師と愛弟子が二人して歌った忘れ得ぬ歌であったのです。

5項目の指針

 高等部の歴史に深く刻まれているのが、68年(同43年)8月8日に行われた、第1回高等部総会です。
 池田先生は、高等部の飛躍を願い、次の5項目の指針を示しました。
 ①未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる
 ②才能は独創性をもたなければ、偉大な力として発揮されない
 ③英知なくして知識は生きない。信心なくして真実の英知はない
 ④十代に身体を鍛えあげること
 ⑤まず一カ国の外国語に習熟すること
 この指針の発表は大きな波動となり、高等部の語学委員会(現在の国際委員会)の発足の源流ともなりました。
 池田先生の慈愛に包まれて、師弟の黄金の歴史を築いてきた高等部。今年は意義深き45周年を迎えます。

2009/03/03  毎日新聞へ寄稿文

先日の3月1日の毎日新聞に池田先生の寄稿文が掲載された。

発言席 「青年と平和」 創価学会名誉会長池田大作

危機の打開へ若き活力を
 「平和は自動的にくるものではなく、若者がかかわることで確保されるものだ」
 私の友人である統一ドイツのワイツゼッカー初代大統領は、沖縄の青年たちを励まされた。(毎日新聞・大阪朝刊1999年5月7日付)
 青年こそ、平和の原動力である。
 あの「ベルリンの壁」を崩して、東西冷戦の終結をもたらしたのも、ドイツで政財界を動かして環境保護の政策を推進したのも、青年の声の力が大きい。それゆえに、大統領は強く期待されていた。
 "大人は情けない妥協をしてしまいがちだ。若い人は控えめにならず、どしどしものを言ってほしい"
 大統領や私は、戦争で青春を踏みにじられた世代である。わが家も、4人の兄が徴兵され、長兄は戦死。父母の嘆きは深かった。家は空襲で焼かれ、私自身も肺病を患っていた。
 あんな苦しい悔しい思いを、二度と青年にさせてはならない――私たちの世代の祈りであり、決心である。
 人も社会も、学ぶ心を失った時に老いる。青年と共に生き生きと学び、青年の新たな発想と創造性を伸びやかに引き出していくことこそ、あらゆる危機を打開する活路であろう。
 「変化」は小さな一歩から始まる。
 私が知るアメリカの若者たちは10年前、衝撃的な高校生の銃乱射事件を機に、身近な地域や学校から、いじめや暴力をなくそうと立ち上がった。展示会や対話を軸に「暴力に打ち勝つ運動」を積み重ね、「自分の生命を尊重しよう」「すべての生命を尊重しよう」を合言葉に100万人を超える共感の輪を広げた。「友情の力は暴力に勝る」と、青年たちは誇り高い。
 アインシュタインが精神分析の創始者フロイトに「戦争を避ける方途」を尋ねた。答えは明快であった。「人と人の間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻む」「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」(浅見昇吾訳)。すなわち対話によって、心の温かみのある社会を建設することだ。そして文化の創造と交流である。特に良質の活字文化は絶対に護らねばならぬ平和の砦だ。
 戦争中、私は新聞配達をしていた。今でも、雨の日や寒い日など、配達の方々の苦労が偲ばれてならない。
 私が見つめてきた関西出身の青年は、先天性の脳性小児マヒを乗り越えながら、毎日新聞を配達した。その陰には、不自由な体でも自転車に乗れるよう、一緒に傷だらけになって練習してくれた仲間がいた。新聞を配り、定時制高校に学ぶ日々のなかで、彼は心に決めた。「弱気になったり、挫折感に苦しんだりする人に、勇気を贈れる人間になりたい」
 大学を卒業し、就職も勝ち取って、今、誓い通りの社会貢献の人生を、良き家族と朗らかに歩んでいる。いかなる逆境も突破しゆく不屈の活力こそ、青年の特権ではあるまいか。
 世界は若い力が台頭している。私も年頭「若き米ロ首脳の早期会談で、大胆に核軍縮の前進を」と提言した。
 私たちが手を携えて行動してきた国連協会世界連盟も、明年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け、「核兵器のない世界のためのグローバル若者運動」を展開している。
 平和の原点・広島と長崎を擁する日本の青年が、生命の尊厳と共生へ、一段と声を強めゆく時である。
 「青年が取り組んで、英雄になれないような事業や仕事など、何一つとしてない」――若き友に贈りたいホイットマンの詩の一節である。
2009年3月1日付毎日新聞
先生はいつも青年に期待をされている。
多分それは学会員であるとかないとかは関係ないのでしょう。
勿論、学会青年部にとりわけ期待はされている。
この寄稿文からは時代を切り開く世代へのエールと指針が見える。

一般紙に先生の掲載があると「聖教新聞の様だ」「お金で乗っとられた」などと言う愚か者がいる。
大抵はその中身には触れず、己の好き嫌いの判断だけで発言している。
掲載内容を読まずに脊椎反射で反応しているに過ぎない。

内容に反論をする「アンチ」は見た事がない。いや、あったかもしれないが論理になっていなかった記憶がある。
1.26SGI記念提言なども論理的な反論は世間の批評家もしてはいない。皆無かったかの様に無言のままだ。


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