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2009/01/13  三障四魔

この信心をしていれば「三障四魔」が起ります。
逆に言うと『起らなければ』信心がないと言う事。
兄弟抄
此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。(P1087)
有名な御文です。
特に『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る』という天台大師の言葉は有名です。

魔は「紛然」として顕れるのです。紛らわしいのです。
「まさか?」と思う所に魔はつけ入ります。
また、魔が顕れるのは、「此の法門を申す」時、「行解既に勤め」た時、信心が深まった時なのです。


三障
信心の実践を妨げる働きの事、障害です。信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げる働きをいいます。
煩悩障、業障、報障の3つです。

兄弟抄
三障と申すは煩悩障(ぼんのうしょう)・業障(ごうしょう)・報障(ほうしょう)なり、煩悩障と申すは貪瞋癡(とんじんち)等によりて障礙(しょうげ)出来すべし、業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし、又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し(P1088)

・煩悩障とは、餓鬼・修羅・畜生などの三毒(貧り、瞋り、癡)などの自身の煩悩が信心修行の妨げとなることをいいます。

・業障とは、五逆罪や十悪業などによって自身の生命に刻まれた悪業が信仰を妨げるものです。この御文では具体的に妻子等の身近な存在によって起こるとされています。

・報障とは、地獄・餓鬼・畜生等の三悪道や誹謗正法等の報いとして起こってくる障りをいいます。この御文では国主・父母等、自分が従わなければならない存在によって起こるとされています。


四魔
四魔の「魔」とは、能奪命者(のうだつみょうしゃ)、殺者(さつしゃ)、破壊(はえ)などと訳されるように、信心修行者の生命の内側から、妙法の当体としての生命の輝きを奪う働きをいいます。

四魔とは陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つです。
・陰魔とは五陰が魔によって冒されること。五陰とは、五感だと思ってください。体調不良によって信心活動を妨げることです。
・煩悩魔とは貪瞋癡、つまり本能的欲求に振り回されて信心が破壊されること。
・死魔とは、修行者の生命を断つことによって修行を妨げようとすることです。また、他の修行者等の死によって信心に疑いを生ずることも死魔に負けた姿といえるでしょう。
・天子魔とは、他化自在天子魔(たけじざいてんしま)の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による働きであり、最も本源的な魔です。

大聖人は
治病大小権実違目
元品(がんぽん)の無明(むみょう)は第六天の魔王と顕(あら)われたり(P997)
と仰せです。
すなわち、この魔は、生命の根本的な迷いから起こるものであり、権力者等の身に入るなど、あらゆる力をもって修行者に迫害を加えてきます。


兵衛志殿御返事
しおのひると・みつと月の出(い)づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違(そうい)する事あり凡夫(ぼんぷ)の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者(けんじゃ)は喜び愚者(ぐしゃ)は退(しりぞ)くこれなり(P1091)
季節の変わり目のように、変化するときには、必ずいつもと違うことが起きる。凡夫が仏になる時も、三障四魔が顕れるのは道理です。
「賢者は喜び愚者は退く」は特に大事な御金言です。だから、勇気が大切なのです。

2009/01/11  本部幹部会同時中継

同時中継の中で池田先生が種々のお詩を詠んまれた。

【創価班】
365日 創価の 宝城を
 守護し行く 創価班 万歳
  2009年1月8日-大城

【牙城会】
365日 創価の 宝城を
 守護し行く 天下一の牙城会 万歳
  2009年1月8日-大城

【少年部】
未来は 博士か 大臣か
  2009年1月8日-大城

【中等部】
未来は 世界の 指導者か
  2009年1月8日-大城

【高等部】
未来は 全員 大人材
 親孝行 健康 努力を
  一日一日 一歩一歩 歩みゆけ
   2009年1月8日-大城

【男子部】
努力 努力で 富士の山
  2009年1月8日-大城

【女子部】
幸福のために 成長 今日も明日も
  2009年1月8日-大城

【婦人部】
崇高な 母の活躍 皆 涙
  2009年1月8日-大城
他にもあったのだが、書き切れなかった。申し訳ない。
学生部、壮年部がなかった様な気がするけど気のせい?

2009/01/11  青春対話1巻「青春の悩み、青春の希望」に学ぶ

未来部はまさに、学会の宝です。次代を担い行く若人に先生はご指導くださっている。

青春は「悩みとの戦い」!
私は愛する諸君に、ともかく「悔(く)いなき青春」を送ってもらいたい。大切な、一生の土台である十代に、悔(く)いを残してはいけない。
 自分なりに、自分らしく、何でもいいから、自分はこれだけはやった、という満足感をもってもらいたい。
掃除でもクラブでも、ボランティアでも、何かやった、何か頑張(がんば)った。そこで「あいつは、どこか違うな」「あいつは偉いな」と言われる存在になってもらいたい。 (P10-11)
勉強のことだけではない。家族のこと、健康や容姿のこと、異性のこと、友人のこと、いろいろな悩みがある。苦しみもある。不安もある。悔(くや)しさもある。悲しみもある。あらゆる悩みとの戦いが青春時代です。
 そのなかで、もがきながら、暗雲(あんうん)をかきわけ、太陽に向かっていこう、待望(たいぼう)に向かっていこう。この力が青春です。悩みや、失敗や、後悔があるのは当たり前です。大事なのは、それらに負けないことだ。悩みながら、苦しみながら、前へ前へ進むことです。 (P12-13)
人生には悩みが付き物です。未来部だから悩みがない訳ではない。当然に悩みはある。「煩悩即菩提」と大聖人は教えてくれている。
悩みが境涯を開く成長の糧になるのです。

自分らしい夢に挑戦しよう
理想的には、大学に進学することに大賛成(だいさんせい)です。そのほうが、実力をつけやすい環境になるし、より大勢の人に貢献していくうえで役に立つ場合が多いからです。
 しかし、自分の道を行くことも自由です。何かに自分の道を見いだし、使命を感じていけば、それも当然でしょう。大事なのは親に心配をかけないことです。そして、「自分はこれでいくんだ」という自分らしい夢をもって、挑戦していってもらいたい。
 勉強は、大学に行くためだけにあるのではない。自分を豊かにするためにある。「学(まな)ばずは卑(いや)し」という言葉があるが、人間の人間らしさというものは、「学ぶ」ところにある。
 (中略) 
 今の世の中の行き詰まりは、じつは指導者(しどうしゃ)自身の行き詰まりにある。「学ばない」からです。 (P16-17)
自身の成長は自分自身だけでなく、家族や友人にも影響を与えます。自分の使命とは?自分の夢とは?大いに学び見つけて頂きたい。

忍耐(にんたい)強く、断じて進みゆけ!
「負けない」ことだ。「自分が強くなる」ことだ。人に頼る根性、人に責任を押しっける卑しさ、弱さであってはならない。人を恨み、うらやみ、わびしい自分であっては、雲におおわれた太陽の自分です。
 どんな悩みがあっても、それをバネにし、じっと我慢(がまん)し、こらえて、「今に見てろ」と自分を励まして進むのです。行くべき自分の軌道(きどう)を、黙々と、忍耐強く進んでいくのです。
 君が「太陽」なのです。あなたが「太陽」なのです。まず、そう決めることです。
 自分が太陽である限り、今どんな悩みがあろうとも、「朝」がこないわけがない。「快晴」の日がこないわけがない。「春」がこないわけがないのです。 (P31)
我慢強く乗り越えて行く事が出来たら一番良いが、悩みがある時には相談指導を受けよう。
指導を受けるのは人に頼るのではない、どこまでも自身の宿命と使命の再確認です。
人生の羅針盤を見ることと一緒です。

唱題(しょうだい)した分、深い人生に
道に迷った。海に出るには、どうするか。
 どの道でもいいから前へ進めばいい。そうすれば川に出る。川筋(かわすじ)をたどっていけば、いつか必ず海へ出る。
 前へ進むことです。もがきながら、題目をあげ、一ミリでも二ミリでもいいから、前へ進む。そうやって生きぬいていけば、あとで振り返って、ジャングルを抜けたことがわかる。
 そして、苦しんだ分だけ、悲しんだ分だけ、題目をあげた分だけ、深い人生となっている。それが二十一世紀の指導者となるための栄養になっているのです。 (P13)
唱題は福運の貯金です。日々の薄皮の積み重ねみたいの物です。重ねなければ厚くはならない。

勉強は「不幸な人を救う」ため
勉強は当然、大事です。しかし高校の成績で一生が決まるものではない。努力で決まる。正しく歩んでいるかどうかで決まる。人と比べてどうかではありません。きのうの自分と比べてどうか。一歩でも進んでいれば勝利です。
  (中略)
 悩める人、苦しんでいる人、不幸の人の味方になれる人が偉い人です。それが「新世紀の指導者」です。
 現実の今の社会は、不幸の人を足げにし、バカにし、片隅に置き、のけものにする。今の多く町指導者はそうです。とんでもない間違いです。そういう不幸の人を救うための勉強です、本当は。それを下に見て、ますます苦しめている。こんな残酷な、傲慢な、無慈悲な、卑怯な世の中はない。これを、どうしても変えたい。そのために私は戦っているのです。
 この心を知ってもらいたい。そして、後に続いてほしいのです。 (P14-15)
勉強は辛いかもしれない。しかしその先には成長がある。自身を、世の中を、変革する力をつける事です。
人間味あふれる大人材になって頂きたい。

仏法は、すべてに意味がある
この地球上の、この地の、この家に生まれてきた。ほかの、どの家にも生まれなかった。そこにすべての「ありとあらゆる意味」が含まれている。
 仏法に偶然はない。必ず意味がある。だから、「ありとあらゆる宝」を自分は与えられたと思うべきです。
 どんなに苦しくても、自分は今、「生きている」。生命以上の宝はありません。まして諸君は若い。若き生命という宇宙で一番の財宝を授かっているのです。その宝を、やけになって自分で壊したり、ゆがめてはいけない。 (P29)
この先の人生には「挫折」があると思う。悩み夢破れ落ち込みへこむ事もあるでしょう。しかし腐ってはいけない、なぜなら私たちは仏の命を持っています。仏の境涯を開けば挫折なんか、それも又成長の一因になる。
これをすこし難しいが「願兼於業(がんけんおごう)」と言う
この願兼於業は「宿命を使命に変える」と言える。
池田先生は
「誰しも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。そして、宿命と戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。
すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。『宿命を使命に変える』人は、誰人も『願兼於業』の人であるといえるでしょう。
だから、全てが、自分の使命であると受け止めて、前進し抜く人が、宿命転換のゴールへと向かっていくことができるのです」
とご指導くださっている。

誰しも各々の使命をもって生まれてきています。本人が気付いていないだけです。
未来部の皆さんは、長い人生に於て悩みや挫折に負けない、悠々たる未来を築いて行きましょう。

2009/01/06  勤行指導

我が家の仏壇の経机にもう30年以上は勤行指導が敷いてある。

勤行指導
一.勤行は早からず遅からず声は大きからず小さからず中道が良いのです。五座三座の勤行を、きちんとやれば体がきちんとする。やっていない人に限っておかしくなるのだ。体を大事にしなければ広布の使い物にならない。

二.勤行の弱々しい人必ず病気になっています。声の大小早い遅いではなく御本尊に響きある題目をあげることが大事なのです。その響きが返ってくるのです。それが功徳となるのです。

三.五座三座の勤行をしっかりやりなさい。そうすればどんな願いも叶うし病気の人も体の調子がよくなる。いねむりをしていたら駄目だ。おかしくなるのは勤行をきちんとやっていないからだ。勤行をきちんとやっているか、いないかは自分が一番良く知っている。やりきれば軌道にのっていく。

四.体が疲れている時寝てしまった方が回復するのではないかと思うかも知れないが、そうではなくしっかり勤行するのだ。寝不足なんかなくなる。仕事もうまくいく態勢を整えるために勤行するのだ。宇宙と合致しているのだから生命が大宇宙のリズムにのらないわけがない。小さくいえば実相は生活だ。

五.勤行こそ心の生命の最高の化粧法であり、且つまた最高の健康法である、白馬がパッパッと駆けているような朗々とした勤行唱題をしていきましょう。御本尊にビンビンと響き感応していく勤行唱題に無限の功徳があるのです。そういう勤行唱題を実鏡し、はつらつとした人生を送っていこうではありませんか。

六.本当に苦しんだ時、百万遍の題目を唱えなさい。勇気ある実践をしていきなさい。皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも受信機が壊れては駄目だ。

七.自分自身の生活又は生命の上で悩みがあったら堂々と、のびのびと百万遍の題目をあげきってみてどういう結果が出るかということを我が身に体験していただきたい。それが論より証拠です。ああいうことは出来るだろうか、こうだと観念的に思ってもしょうがない御本尊にぶつかりなさい。

八.題目をあげきった場合は全部変毒為薬される。福運に変わっていく。だから今どんなに苦しい境涯であっても仏法の原理から歯をくいしばって戦えば何倍、何十倍、何百倍と荒野が開けてくる、それでまた行き詰まる。そしてまた広がっていく。それを繰リ返すのです。その時題目を忘れてはいけない全部解決します。

九.題目をあげておかないと長い人生において非常に困ることになる。唱えられる時に唱えておきなさい。題目は貯金です。充電です。人は死ぬまでさまざまな苦悩に直面するものです。思っていなかった時に題目をあげていた人と、あげていなかった人の差があらわれてくるのです。あげている人は変毒為薬し、あげていない人は奈落に落ちこんでいく。

十.喜びにも題目、悲しみにも題目、戦いにも題目、一切の人生の活動の源泉は題目を唱えて唱えきっていくことだ。これが大聖人の仏法の神髄である。
先日の大掃除の際に新しく印刷して敷き直した。

全国の同志の仏壇にも似た様な物があると思う。それぞれが指導集から引用し見える所に飾ってあるのでしょう。
某部長の家にも別ヴァージョンがある。(手書きガリ版&藁半紙。一体何年物だろう?)

勤行唱題の姿勢が惰性にならないように、身を引き締めて境涯革命をして行きたいと思います。
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