«Prev || 1 | 2 | 3 |...| 7 | 8 | 9 |...| 28 | 29 | 30 || Next»

2011/09/06  青年教学1級 開目抄第33段「本尊への迷妄を呵責し正しく下種の父を明かす」

 諸宗は、父を知らない才能ある畜生。

第33段「本尊への迷妄を呵責し正しく下種の父を明かす」
 而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり、倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし、華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるに・つけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり、禅宗は下賎の者・一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり、例せば三皇已前に父をしらず人皆禽獣に同ぜしが如し、寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり、故に妙楽云く「一代教の中未だ曾て遠を顕さず、父母の寿知らずんばある可からず若し父の寿の遠きを知らずんば復父統の邦に迷う、徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず」等云云、妙楽大師は唐の末・天宝年中の者なり三論・華厳・法相・真言等の諸宗・並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり、徒謂才能とは華厳宗の法蔵・澄観・乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能の人師なれども子の父を知らざるがごとし、伝教大師は日本顕密の元祖・秀句に云く「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有つて厳の義を闕く、天台法華宗は厳愛の義を具す一切の賢聖・学・無学及び菩薩心を発せる者の父なり」等云云、真言・華厳等の経経には種熟脱の三義・名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり、種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしがごとし。
 宗宗・互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり天台の一念三千これなり、華厳経・乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子・皆一念三千なり天台智者大師・一人此の法門を得給えり
 ところが、天台宗以外の諸宗は皆、本尊に迷っている。
 倶舎宗・成実宗・律宗は、34種の心で見思惑を断じて成道したとされる小乗の釈尊を本尊としている。これは天尊の太子が迷って、わが身は民の子であると思っているようなものである。
 華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗などの4宗は大乗教の宗派である。
 このうち法相宗・三論宗は、勝応身に似た仏を本尊としている。これは、天王の太子が、わが父は天子に仕える侍であると思っているようなものである。
 華厳宗・真言宗は、釈尊をさげすんで慮舎那仏、大日如来などを本尊と定めている。これは天子である父をさげすみ、素性も知れないものが法王のように見せかけているのに、つきしたがっているようなものである。
 浄土宗は、釈尊の分身である阿弥陀仏を自らの有縁の仏であると思って、教主釈尊を捨ててしまった。
 禅宗は、下賎の者が自分に一分の徳があるからといって、それをもって父母をさげすんでいるようなもので、仏と経を見下している。
 これらの各宗は皆、本尊に迷っている。たとえば、中国古代の三皇時代以前には、人々は自らの父親を知らず、鳥や獣と同じだったようなものである。
 寿量品を知らない諸宗の者は、これらの獣と同じで、不知恩の者である。
 それゆえ、妙楽大師は「釈尊一代の仏教のうち、寿量品までの経は、いまだかって仏の久遠の寿命を明らかにしていない。子としては父母の寿命を知らないでいて良いわけはない。もし父の寿命が長遠であることを知らなければ、父の統治する国に迷うのである。いたずらに才能があるといっても空しく、これでは全く人の子ではない」(『五百問論』)と述べている。
 妙楽大師は、唐の末期、天宝年間の人である。三論宗・華厳宗・法相宗・真言宗などの諸宗、ならびにその依経を深く見、広く考えたうえで、「寿量品の仏を知らない者は父の統治する国に迷っている、才能ある畜生である」と書かれたのである。
 「いたずらに才能があるという」とは、華厳宗の法蔵・澄観、および真言宗の善無畏らのことで、彼らは才能ある人師であるけれども、父を知らない子のようなものである。
 伝教大師は日本における顕教・密教の祖である。その伝教の著した『法華秀句』で、「他宗が依り処としている経には、仏の母としての性質が一分は有るといえるが、ただ母の徳たる衆生をあわれむ愛だけがあって、父の徳たる(法を正しく教えて成仏へと導く)厳の義を欠いている。天台法華宗は、厳と愛の義をともに具備している。だから、一切の賢人・聖人、学ぶべきことのある声聞・もはや学ぶべきものがない声聞、および菩薩の心を起こした人すべての父である」等と述べている。
 真言宗・華厳宗などが依り所としている経々には、仏に成るための下種・調熟・得脱の三つの義について、その名称すらない。まして、その実義があるわけがない。
 したがって、華厳宗や真言宗などの経でも、「この一生のうちに初地にはいって、この身のままで成仏する」などといっているが、これらの経は権経であって、仏の久遠の過去を明かしていない。
 下種を知らない得脱なので、それはあたかも、中国・秦代の反逆者・趙高が皇帝の位にのぼろうとし、奈良時代の僧・道鏡が天皇の位につこうとしたのと同じである。
 各宗派が互いに成仏の種は自宗にあると争い合っている。私はこれについては争わない。ただ経文に任すのである。
 法華経に説かれている成仏の種にもとづいて、天親菩薩は法華経の種子が無上であると述べたのである。天台大師の一念三千がその種子である。
 華厳経はじめ諸々の大乗経、また大日経などの諸尊が成仏した種子は皆、一念三千なのである。天台智者大師だけが、この法門を得られたのである。

 久遠実成の釈尊こそ一切衆生の主師親であることが明らかなのに、天台宗以外の諸宗は本尊に惑っている。
 それらの人々は、本当の立派な父を知らずに、もっと低い者を自分の父と思っているようなもので、恩知らずである。
 才能ある畜生である。
 そもそも爾前経には、久遠を明かしてない故に、成仏の種子がないのだ。
 諸仏が成仏した「種子」とは「一念三千」であり、天台大師だけが、この法門を得られた。

2011/09/06  青年教学1級 開目抄第32段「脱益の三徳を明かす」

 久遠実成の釈尊こそ、一切衆生の主師親。

第32段「脱益の三徳を明かす」
 此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す、今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり、仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき、今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる、仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり、一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんが・ごとくして・あるべきを華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往・権宗の人人・且は自の依経を讃歎せんために或は云く「華厳経の教主は報身・法華経は応身」と・或は云く「法華寿量品の仏は無明の辺域・大日経の仏は明の分位」等云云、雲は月をかくし讒臣は賢人をかくす・人讃すれば黄石も玉とみへ諛臣も賢人かとをぼゆ、今濁世の学者等・彼等の讒義に隠されて寿量品の玉を翫ばず、又天台宗の人人もたぼらかされて金石・一同のをもひを・なせる人人もあり、仏・久成に・ましまさずば所化の少かるべき事を弁うべきなり、月は影を慳ざれども水なくば・うつるべからず、仏・衆生を化せんと・をぼせども結縁うすければ八相を現ぜず、例せば諸の声聞が初地・初住には・のぼれども爾前にして自調自度なりしかば未来の八相をごするなるべし、しかれば教主釈尊始成ならば今此の世界の梵帝・日月・四天等は劫初より此の土を領すれども四十余年の仏弟子なり、霊山・八年の法華結縁の衆今まいりの主君にをもひつかず久住の者にへだてらるるがごとし、今久遠実成あらはれぬれば東方の薬師如来の日光・月光・西方阿弥陀如来の観音勢至・乃至十方世界の諸仏の御弟子・大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩・猶教主釈尊の御弟子なり、諸仏・釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず何に況や此の土の劫初より・このかたの日月・衆星等・教主釈尊の御弟子にあらずや。
 このように過去常(釈尊が久遠の過去に成仏して以来、仏として婆婆世界に常住してきたこと)が明らかにされた時、諸仏は皆、釈尊の分身であ ることになった。
 爾前経や法華経迹門の時は、諸仏は釈尊と肩を並べた対等の仏で、おのおのの修行をして悟りを得た仏であった。そのため、諸仏を本尊とする者は釈尊ら他の仏を見下していた。
 ところが寿量品が説かれた今は、華厳経に説かれる台上の慮舎那仏も、方等経・般若経・大日経等に説かれる諸仏も皆、釈尊の春属であるということになったのである。
 釈尊は、30歳で成道された時に、大梵天王と第六天の魔王らが所有し治めていた裟婆世界を奪い取り、釈尊の国土とされた。
 しかし今は、爾前経や迹門において、十方の世界を浄土と名づけ、この裟婆世界を穢土と説かれていたのを打ち返して、この裟婆世界こそが釈尊の本国土であり、十方の浄土は垂迹の穢土となったのである。
 寿量品の釈尊は久遠の仏なので、迹化・他方の大菩薩も、教主釈尊の弟子である。
 一切の経の中に、この寿量品がなければ、天に太陽と月がなく、国に大王がなく、山河に宝珠がなく、人に魂がないようなものである。
 それなのに、華厳宗や真言宗などの権教の智者と思われている澄観・嘉祥・慈恩・弘法らの、一往の権教に基づく宗の人々は、自らの依り所とする経を讃嘆するために、次のように言っている。
 すなわち華厳宗では、「華厳経の教主が報身であるのに対して、法華経の教主は応身仏で劣っている」と言っている。
 あるいは真言宗では「法華経寿量品の仏はまだ無明惑を断ち切っていない境涯であり、大日経の仏は明の分位(悟りを得た境地)である」などと言っている。
 雲は月を隠し、讒言をする臣下は賢人を隠してしまう。人がほめれば、ただの黄色の石も宝玉と見え、こびへつらう臣下も賢人かと思われるものである。
 今、末法濁世の学者らは、澄観らの正法誹誇の邪義に惑わされて、寿量品の宝珠を見失い、それを愛玩することがない。
 また、法華経を依経とする天台宗の人々の中にも、彼らにたぶらかされて、黄金とただの石を同じだと思いこんでしまっている人々がいる。
 仏が久遠実成の仏でないならば、その仏から化導を受ける弟子も少ないはずであることをわきまえるべきである。
 月はその影を映すことを惜しまないが、水がなければ映ることができない。それと同じく、仏が衆生を化導しようと思っても、結縁がうすければ、仏は八相(下天・託胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃)を現じて化導することができない。
 たとえば、もろもろの声聞は、修行して初地・初住の位までのぼっても、爾前経の時に自分の悟りを得るためだけの修行をしていたので、彼ら自身が八相を現ずるのは未来世を待つしかなかった。
 よって、教主釈尊が始成正覚の仏であるならば、今、この裟婆世界の梵天や帝釈天、日天、月天、四天王らは、この世界の成り立った初めからこの世界を治めているけれども、わずか40余年間の仏弟子であるにすぎない。
 まして、霊鷲山での8年間で法華経に結縁した衆生などは、新参者が主君になじまず、古くからいる者によって隔てられているようなものであろう。
 今、久遠実成が顕されたので、東方世界の仏である薬師如来の脇士である日光菩薩・月光菩薩、西方世界の仏である阿弥陀如来の脇士である観音菩薩・勢至菩薩、あるいは十方世界の諸仏の弟子、大日経・金剛頂経などの金剛・胎蔵両部の大日如来の弟子である諸大菩薩なども、すべて教主釈尊の弟子となったのである。
 諸仏が釈迦如来の分身である以上は、この諸仏により化導された弟子も釈迦如来の弟子であることはいうまでもない。
 ましてや、この裟婆世界が成り立った最初から住んでいる日月、多くの星などが、教主釈尊の弟子であることはいうまでもないことである。

 寿量品によって、釈尊が久遠の過去に成仏して以来、ずっと仏として、この裟婆世界で説法教化してきたことが明らかになった。
 それまでは、ほかの仏たちは釈尊と肩を並べていたが、「今」寿量品が説かれたことによって、釈尊の立場が、ぐ-んと飛び抜けて、他の仏たちは釈尊の家来みたいな立場になったのだ。
 そういう意味で、一切経のなかで、寿量品こそ魂の存在なのです。

2011/09/05  青年教学1級 開目抄第23段「疑いを挙げて法華経の行者なるを釈す」

 それでも信じられない。

第23段「疑いを挙げて法華経の行者なるを釈す」
 但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし
 ただし世間の疑いとして、また自身の心から生まれる疑いとして、日蓮が法華経の行者であるなら、どうして諸天善神はこれを助けないのか。諸天らの守護神は、仏の御前での誓いがある。
 法華経の行者に対しては、たとえ猿であったとしても法華経の行者というならば、早々に仏前での誓いを成就しようと思われるべきであるのに、その義がないのは、我が身が法華経の行者ではないからであろうか。
 この疑いは、この書(開目抄)の肝心かなめであり、日蓮の一生の大事であるから、繰り返しこれを書き、疑いを強くし、その上で答えを示そう。

 この段が開目抄のテーマ。
 それにしても、諸天が日蓮を守護しないのはどういうわけだ、と疑っている人もいる。
 諸天善神は、猿になっても法華経の行者を守護すると誓ったはず。
 この疑いは、この書の肝心であり、私の一生の大事であるから、繰り返しこれを書き疑いを強くし、その上で答えを示そう。

 このように開目抄は、疑惑や疑問を重ねられて徹底的な理解が得られるように書かれている。

 <第24段以降は、二乗や菩薩たちは法華経のおかげで成仏できたんだから、法華経には深い恩があり、法華経の行者を守護すべきであることが記される。
 とくに次の31段以降は、菩薩が法華経に恩があることを言う>

2011/09/05  青年教学1級 開目抄第22段「経文に符合するを明かす」

 日蓮大聖人こそ法華経を身で読んでいる。

第22段「経文に符合するを明かす」
 されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし、定んで天の御計いにもあづかるべしと存ずれども一分のしるしもなし、いよいよ重科に沈む、還つて此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり、例せば世尊が付法蔵経に記して云く「我が滅後・一百年に阿育大王という王あるべし」摩耶経に云く「我が滅後・六百年に竜樹菩薩という人・南天竺に出ずべし」大悲経に云く「我が滅後・六十年に末田地という者・地を竜宮につくべし」此れ等皆仏記のごとくなりき、しからずば誰か仏教を信受すべき、而るに仏・恐怖悪世・然後末世・末法滅時・後五百歳なんど正妙の二本に正しく時を定め給う、当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん、南三・北七・七大寺等・猶像法の法華経の敵の内・何に況や当世の禅・律・念仏者等は脱るべしや、経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし、例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし、此れも又かくのごとし当時の責はたうべくも・なけれども未来の悪道を脱すらんと・をもえば悦びなり。
 そうである(法華経を末法に弘通して前代未聞の難にあっている)から、日蓮が法華経の法理を理解する智慧は天台大師や伝教大師には千万分の一にも及ばないけれども、難に耐え、慈悲が優れていることについては、誰もが恐れさえ抱くであろう。
 きっと諸天善神の配慮にもあずかるだろうと思うのであるが、少しの兆候もない。いよいよ重罪に陥れられている。ひるがえって、このことを考えてみると、我が身が法華経の行者ではないということなのか。また、諸天善神らがこの国を捨てて去ってしまっているということなのか。さまざまに疑わしいことである。
 しかしながら法華経の第5巻の勧持品の二十行の偈は、日蓮がこの国に生まれなければ、ほとんど釈尊は大嘘つきの人となってしまうのであり、80万億那由他の菩薩たちは提婆達多と同じ嘘つきの罪に堕ちてしまうにちがいない。
 法華経には「仏法に無知な多くの人がいて、法華経の行者に対して、悪口し罵倒し、刀や杖や瓦や石で攻撃してくる」(勧持品の二十行の偈のうち、俗衆増上慢の箇所)とある。今の世の中を見てみると、日蓮以外の諸僧の誰が、法華経のことで多くの人たちに悪口をいわれ罵倒され刀や杖などで攻撃されているだろうか。日蓮がいなければこの一偈に示された未来の予言はウソになってしまったところである。
 「悪世の中の比丘は邪智で心は諂い曲がっている」(同、道門増上慢の箇所)とある。また「在家の人の歓心を買うために法を説いて、世間で尊敬されているさまは六つの神通力を得た阿羅漢のようである」(同、僧聖増上慢の箇所)とある。これらの経文は、今の世の念仏者や禅宗・律宗などの法師がいなければ、釈尊はまた大嘘つきである。
 さらに「常に人々の中にいて(中略)国王、大臣、婆羅門、居士などに対して(法華経の行者の悪口をいう)」(同)等とある。今の世の僧らが日蓮のことを讒言して流罪に陥れていなければ、この経文も空しいものとなっていた。
 また「数数所を追われる」等とある。日蓮が法華経のゆえに度々、流されていなかったら、この「数数」という2字はどう考えればいいのだろう。
 この2字は、天台・伝教ですらまだ身で読んでいない。まして他の人はいうまでもない。今が末法の始めである証拠として、「恐ろしい悪世の中で」という仏の言葉が的中しているからこそ、ただ日蓮一人だけがこの経文を身で読んだのである。
 例を挙げれば、釈尊が付法蔵経に記していうには「私の滅後、100年たった時に、阿育大王という王が出現するだろう」と。また摩耶経には「私の滅後、600年には、竜樹菩薩という人が、南インドに生まれるだろう」と。大悲経には「私の滅後60年には末田提という者が、その土地に竜王の伽藍を築くであろう」と。これらはすべて皆、仏が予言したとおりに実現した。そうでなければ、誰が仏教を信受したであろうか。
 そして、仏は、「恐ろしい悪世」(勧持品)、「しかるに後の末の世」(正法華経)、「末の法滅の時」(安楽行品)、「後の五百年」(薬王品)などと説き、正法華経・妙法蓮華経の二つの漢訳本のどちらをみても、明確に時を定められている。
 (その末法である)今の世に法華経に説かれた三類の強敵がなければ、誰が仏説を信受するだろうか。日蓮がいなければ誰を(仏がその出現を予言した)法華経の行者であると定めて、仏の言葉が真実であると証明し助けることができようか。
 中国の南三北七の僧や奈良の7大寺の僧でさえも、(それぞれ天台や伝教に敵対したゆえに)像法の法華経の敵に含まれる。まして、(末法の法華経の行者を迫害している)当世の禅・律・念仏の徒らは法華経の敵と呼ばれるのを免れることはできない。
 経文の予言に、我が身が符合している。それ故、幕府から迫害を受ければ、いよいよ喜びが増してくる。たとえば、小乗経の菩薩でまだ煩悩を断じ切っていない者が願兼於業といって、つくりたくない罪であるけれども、父母らが地獄に堕ちて大苦を受けているのを見て、決まった形式の通り同じ業をつくって自ら願って地獄に堕ちて苦しみ、父母たちの苦しみに代われることを喜びとするようなものである。
 日蓮もまたこれと同じである。今現在の責めは耐えがたいほどの苦であるが、来世に悪道に堕ちることを免れることができるであろうと思えば、喜びである。

 日蓮は、法華経を理解する智慧が天台・伝教に及ばないとしても、難に耐え、慈悲がすぐれていることは、恐れさえ抱くであろう。
 それなのに諸天の加護がないのは、どうしたわけだ。
 法華経の勧持品には三類の強敵が説かれている。
 日蓮がいなければ、釈尊は大うそつきになってしまったであろう。
 『法華経の行者は、しばしば所を追われる」と書いてある。
 私は法華経のゆえに、たびたび流された。
 私がいなければ、この法華経の「しばしば(数数)』の文字は、どうなったのか。

 ※三類の強敵…第38、40、41段で詳しく。

«Prev || 1 | 2 | 3 |...| 7 | 8 | 9 |...| 28 | 29 | 30 || Next»