2011/09/06 青年教学1級 開目抄第32段「脱益の三徳を明かす」
久遠実成の釈尊こそ、一切衆生の主師親。
寿量品によって、釈尊が久遠の過去に成仏して以来、ずっと仏として、この裟婆世界で説法教化してきたことが明らかになった。
それまでは、ほかの仏たちは釈尊と肩を並べていたが、「今」寿量品が説かれたことによって、釈尊の立場が、ぐ-んと飛び抜けて、他の仏たちは釈尊の家来みたいな立場になったのだ。
そういう意味で、一切経のなかで、寿量品こそ魂の存在なのです。
第32段「脱益の三徳を明かす」此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す、今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり、仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき、今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる、仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり、一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんが・ごとくして・あるべきを華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往・権宗の人人・且は自の依経を讃歎せんために或は云く「華厳経の教主は報身・法華経は応身」と・或は云く「法華寿量品の仏は無明の辺域・大日経の仏は明の分位」等云云、雲は月をかくし讒臣は賢人をかくす・人讃すれば黄石も玉とみへ諛臣も賢人かとをぼゆ、今濁世の学者等・彼等の讒義に隠されて寿量品の玉を翫ばず、又天台宗の人人もたぼらかされて金石・一同のをもひを・なせる人人もあり、仏・久成に・ましまさずば所化の少かるべき事を弁うべきなり、月は影を慳ざれども水なくば・うつるべからず、仏・衆生を化せんと・をぼせども結縁うすければ八相を現ぜず、例せば諸の声聞が初地・初住には・のぼれども爾前にして自調自度なりしかば未来の八相をごするなるべし、しかれば教主釈尊始成ならば今此の世界の梵帝・日月・四天等は劫初より此の土を領すれども四十余年の仏弟子なり、霊山・八年の法華結縁の衆今まいりの主君にをもひつかず久住の者にへだてらるるがごとし、今久遠実成あらはれぬれば東方の薬師如来の日光・月光・西方阿弥陀如来の観音勢至・乃至十方世界の諸仏の御弟子・大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩・猶教主釈尊の御弟子なり、諸仏・釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず何に況や此の土の劫初より・このかたの日月・衆星等・教主釈尊の御弟子にあらずや。このように過去常(釈尊が久遠の過去に成仏して以来、仏として婆婆世界に常住してきたこと)が明らかにされた時、諸仏は皆、釈尊の分身であ ることになった。
爾前経や法華経迹門の時は、諸仏は釈尊と肩を並べた対等の仏で、おのおのの修行をして悟りを得た仏であった。そのため、諸仏を本尊とする者は釈尊ら他の仏を見下していた。
ところが寿量品が説かれた今は、華厳経に説かれる台上の慮舎那仏も、方等経・般若経・大日経等に説かれる諸仏も皆、釈尊の春属であるということになったのである。
釈尊は、30歳で成道された時に、大梵天王と第六天の魔王らが所有し治めていた裟婆世界を奪い取り、釈尊の国土とされた。
しかし今は、爾前経や迹門において、十方の世界を浄土と名づけ、この裟婆世界を穢土と説かれていたのを打ち返して、この裟婆世界こそが釈尊の本国土であり、十方の浄土は垂迹の穢土となったのである。
寿量品の釈尊は久遠の仏なので、迹化・他方の大菩薩も、教主釈尊の弟子である。
一切の経の中に、この寿量品がなければ、天に太陽と月がなく、国に大王がなく、山河に宝珠がなく、人に魂がないようなものである。
それなのに、華厳宗や真言宗などの権教の智者と思われている澄観・嘉祥・慈恩・弘法らの、一往の権教に基づく宗の人々は、自らの依り所とする経を讃嘆するために、次のように言っている。
すなわち華厳宗では、「華厳経の教主が報身であるのに対して、法華経の教主は応身仏で劣っている」と言っている。
あるいは真言宗では「法華経寿量品の仏はまだ無明惑を断ち切っていない境涯であり、大日経の仏は明の分位(悟りを得た境地)である」などと言っている。
雲は月を隠し、讒言をする臣下は賢人を隠してしまう。人がほめれば、ただの黄色の石も宝玉と見え、こびへつらう臣下も賢人かと思われるものである。
今、末法濁世の学者らは、澄観らの正法誹誇の邪義に惑わされて、寿量品の宝珠を見失い、それを愛玩することがない。
また、法華経を依経とする天台宗の人々の中にも、彼らにたぶらかされて、黄金とただの石を同じだと思いこんでしまっている人々がいる。
仏が久遠実成の仏でないならば、その仏から化導を受ける弟子も少ないはずであることをわきまえるべきである。
月はその影を映すことを惜しまないが、水がなければ映ることができない。それと同じく、仏が衆生を化導しようと思っても、結縁がうすければ、仏は八相(下天・託胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃)を現じて化導することができない。
たとえば、もろもろの声聞は、修行して初地・初住の位までのぼっても、爾前経の時に自分の悟りを得るためだけの修行をしていたので、彼ら自身が八相を現ずるのは未来世を待つしかなかった。
よって、教主釈尊が始成正覚の仏であるならば、今、この裟婆世界の梵天や帝釈天、日天、月天、四天王らは、この世界の成り立った初めからこの世界を治めているけれども、わずか40余年間の仏弟子であるにすぎない。
まして、霊鷲山での8年間で法華経に結縁した衆生などは、新参者が主君になじまず、古くからいる者によって隔てられているようなものであろう。
今、久遠実成が顕されたので、東方世界の仏である薬師如来の脇士である日光菩薩・月光菩薩、西方世界の仏である阿弥陀如来の脇士である観音菩薩・勢至菩薩、あるいは十方世界の諸仏の弟子、大日経・金剛頂経などの金剛・胎蔵両部の大日如来の弟子である諸大菩薩なども、すべて教主釈尊の弟子となったのである。
諸仏が釈迦如来の分身である以上は、この諸仏により化導された弟子も釈迦如来の弟子であることはいうまでもない。
ましてや、この裟婆世界が成り立った最初から住んでいる日月、多くの星などが、教主釈尊の弟子であることはいうまでもないことである。
寿量品によって、釈尊が久遠の過去に成仏して以来、ずっと仏として、この裟婆世界で説法教化してきたことが明らかになった。
それまでは、ほかの仏たちは釈尊と肩を並べていたが、「今」寿量品が説かれたことによって、釈尊の立場が、ぐ-んと飛び抜けて、他の仏たちは釈尊の家来みたいな立場になったのだ。
そういう意味で、一切経のなかで、寿量品こそ魂の存在なのです。