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2011/09/08  青年教学1級 開目抄第37段「二箇の諌暁を引き一代成仏不成仏を判ず」

 悪人成仏と女人成仏を説く法華経が孝経。

第37段「二箇の諌暁を引き一代成仏不成仏を判ず」
 宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諌暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり、善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり、竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり、挙一例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし、儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり、外道は過未をしれども父母を扶くる道なし仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ、しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし何に況や父母をや但文のみあつて義なし、今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり、二箇のいさめ了んぬ。
 宝塔品の三箇の勅宣に加えて、提婆達多品において、(悪人成仏・女人成仏の)二箇の諌暁がある。
 提婆達多は一闡提の者であった。しかし、法華経において、未来に天王如来となる記別を与えられた。
 涅槃経40巻には、一切衆生に仏性があると説き、一闡提の成仏の理を一応明かしているが、その現証は提婆品にあるのである。
 善星比丘や阿闍世王ら、無数の五逆罪を犯した者や、謗法の者の中から、一つの例を取り上げ、頭を挙げて、他のすべてをそこに収め、枝葉をしたがえたものである。
 すなわち、一切の、五逆罪・七逆罪を犯した者や、謗法の者、一闡提の成仏が、提婆達多が天王如来の記別を与えられたことによって、明確になったのである。
 これは、毒薬が変じて甘露(不死の妙薬)となることであり、それはあらゆる味にすぐれているのである。
 また、竜女の成仏も竜女一人だけの成仏ではなく、一切の女人が成仏することを示している。法華経以前の諸の小乗教では、女人の成仏は許していない。
 諸の大乗経には、女人の成仏・往生を許しているように見えるが、あるいは、女人は身を改めて男となって成仏できるという改転の成仏であって、一念三千の成仏、すなわち即身成仏ではないので、有名無実の成仏・往生である。「一つを挙げてすべてに通じる例とする」といって、竜女の成仏は、末法の女人の成仏往生の道を踏み開けたのである。
 儒教で説く孝養は、ただ今世に限られている。父母の未来を救わないのだから、儒教などで言われる聖人・賢人は、有名無実である。
 インドの外道は、過去世・未来世を知っているが、父母を助ける方法は説かれていない。仏道こそ、父母の来世を助けることができるので、真実の聖賢の名があるのである。
 しかし、法華経以前に説かれた大乗・小乗の経々を立てる宗派は、自分自身の成仏さえ叶えられない。
 まして、父母については、なおさらである。成仏といっても、ただその言葉があるだけで、内実はないのである。
 今、法華経の時に至って、女人が成仏した時、すべての悲母の成仏の道も明らかとなり、悪人の提婆達多が成仏した時、すべての慈父の成仏も実証されたのである。ゆえに、この法華経こそ仏教典内の孝経ともいうべきである。
 以上で、二箇の諌暁は終わる。

 宝塔品の三箇の勅宣に加えて、提婆品の二箇の諌暁がある。
 「二箇の諌暁」とは、「悪人成仏」と「女人成仏」のこと。

 これによって、一切の父と母の成仏が確実になった。
 父母を救える法華経こそ、孝行の教えである。

2011/09/08  青年教学1級 開目抄第36段「諸経の浅深勝劣を判ず」

 どの経が最も勝れているか知っているのは日蓮。

第36段「諸経の浅深勝劣を判ず」
 一タイ(サンズイに帯)をなめて大海のしををしり一華を見て春を推せよ、万里をわたて宋に入らずとも三箇年を経て霊山にいたらずとも竜樹のごとく竜宮に入らずとも無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも二所三会に値わずとも一代の勝劣はこれをしれるなるべし、蛇は七日が内の洪水をしる竜の眷属なるゆへ烏は年中の吉凶をしれり過去に陰陽師なりしゆへ鳥はとぶ徳人にすぐれたり。日蓮は諸経の勝劣をしること華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり、天台・伝教の跡をしのぶゆへなり、彼の人人は天台・伝教に帰せさせ給はずば謗法の失脱れさせ給うべしや、当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし、大海の主となれば諸の河神・皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし
 一滴の水をなめただけで大海の塩味を知り、一つの花が咲いたのを見て、春の訪れを推し量りなさい。
 万里を渡って宋の国まで行かなくても、(中国の法顕のように)3ヵ年かかって霊鷲山に行かなくても、竜樹菩薩のように竜宮に行かなくても、無著菩薩のように弥勤菩薩に会わなくても、法華経の二処三会の会座にあわなくても、釈尊一代仏教の勝劣は知ることができるのである。
 蛇は7日以内に洪水が起こることを知ると言われるが、それは竜の誉属だからである。
 烏が、年中の良い出来事と悪い出来事を知っているのは、過去世に陰陽師(陰陽道によって占術を行う人)だったからである。鳥は飛ぶ力では、人よりすぐれている。
 日蓮は諸経の勝劣を知ることにおいては、華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の弘法よりすぐれている。それは、(正師である)天台、伝教の跡を継承しているからである。
 かの諸宗の人々は、天台・伝教に帰伏しなかったならば、謗法の罪を免れることができなかったであろう。
 今の世において、日本国で第一に富んでいる者は、日蓮である。命は法華経にたてまつり、名を後代にとどめるであろう。
 大海の主となれば、諸の河の神も皆、したがう。須弥山の王に、諸の山の神がしたがわないことがあろうか。
 法華経の六難九易をわきまえれば、一切経を読まなくても、六難九易をわきまえた人にしたがってくるのである。

 日蓮は、どの経が最も勝れているか、だれよりも知っている。
 私は今の日本で第一に富める者である。
 法華経に命を捧げ、名を後代に留めるであろう。
 六難九易をわきまえれば、一切経を読まなくても、日蓮にしたがってくるのである。

2011/09/06  青年教学1級 開目抄第34段「菩薩等守護無き疑いを結す」

 疑いの結論を書き、自身の身にあててみる。

第34段「菩薩等守護無き疑いを結す」
 されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なり給へり、釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、予事の由を・をし計るに華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば・その経経の仏・菩薩・天等・守護し給らん疑あるべからず、但し大日経・観経等をよむ行者等・法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし、例せば孝子・慈父の王敵となれば父をすてて王にまいる孝の至りなり、仏法も又かくのごとし、法華経の諸仏・菩薩・十羅刹・日蓮を守護し給う上・浄土宗の六方の諸仏・二十五の菩薩・真言宗の千二百等・七宗の諸尊・守護の善神・日蓮を守護し給うべし、例せば七宗の守護神・伝教大師をまほり給いしが如しと・をもう、日蓮案じて云く法華経の二処・三会の座にましましし、日月等の諸天は法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく須臾に来つて行者に代り仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候にいままで日蓮をとぶらひ給はぬは日蓮・法華経の行者にあらざるか、されば重ねて経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし。
 以上のことから、諸経に説かれている諸仏や菩薩や人界・天界などの衆生は、それぞれの経において仏に成ったようであるが、実際には法華経によって真の悟りを得たのである。
 釈迦仏や諸仏が立てた、すべての衆生を苦しみから救おうとする誓願は、すべて法華経において成就したのである。法華経方便品の「今、ついに満足した」との経文はこのことである。
 私がこうしたいきさつから考えると、華厳経や観無量寿経や大日経などを読み修行する人を、それぞれの経に説かれている仏や菩薩や諸天などが守護することは疑いない。ただし、大日経や観無量寿経などを読む行者が、法華経の行者に敵対したならば、仏菩薩たちはそれらの行者を捨てて法華経の行者を守護するはずである。例えば孝行な子は、慈父が王の敵となった場合に、その父を捨てて王につくのである。それが本当の孝である。仏法もまた同じである。
 法華経で説かれている諸仏や菩薩や十羅刹女が日蓮を守護するうえ、浄土宗の六方(東西南北と上下)の諸仏や二十五の菩薩、真言宗の千二百あまりの仏・菩薩、七宗のすべての仏・菩薩や守護の善神が日蓮を守護するはずである。例を挙げれば、かつて七宗(南都六宗と真言宗)の守護神が伝教大師を守ったのと同様であると、このように考えるのである。
 日蓮はこう思う。法華経の二処三会の場にいた日天・月天などの諸天は、法華経の行者が現れたならば、磁石が鉄を吸い寄せるように、月が水面に身を移すように、すぐにやって来て、行者に代わって難を受け、守護する。という仏前での誓いを果たすはずであると思っていたが、今まで日蓮を訪ねてこないのは、日蓮は法華経の行者ではないということか。それならば、重ねて経文を検討して我が身に引き当てて、自身の誤りを知ろうと思う。

 法華経の行者に、仏菩薩の守護があるのは間違いない。
 では、なぜ日蓮を守らないのか?
 日蓮は法華経の行者ではないからか?
 日蓮自身の誤りで、守護がないのか検証してみる。


2011/09/06  青年教学1級 開目抄第33段「本尊への迷妄を呵責し正しく下種の父を明かす」

 諸宗は、父を知らない才能ある畜生。

第33段「本尊への迷妄を呵責し正しく下種の父を明かす」
 而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり、倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし、華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるに・つけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり、禅宗は下賎の者・一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり、例せば三皇已前に父をしらず人皆禽獣に同ぜしが如し、寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり、故に妙楽云く「一代教の中未だ曾て遠を顕さず、父母の寿知らずんばある可からず若し父の寿の遠きを知らずんば復父統の邦に迷う、徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず」等云云、妙楽大師は唐の末・天宝年中の者なり三論・華厳・法相・真言等の諸宗・並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり、徒謂才能とは華厳宗の法蔵・澄観・乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能の人師なれども子の父を知らざるがごとし、伝教大師は日本顕密の元祖・秀句に云く「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有つて厳の義を闕く、天台法華宗は厳愛の義を具す一切の賢聖・学・無学及び菩薩心を発せる者の父なり」等云云、真言・華厳等の経経には種熟脱の三義・名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり、種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしがごとし。
 宗宗・互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり天台の一念三千これなり、華厳経・乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子・皆一念三千なり天台智者大師・一人此の法門を得給えり
 ところが、天台宗以外の諸宗は皆、本尊に迷っている。
 倶舎宗・成実宗・律宗は、34種の心で見思惑を断じて成道したとされる小乗の釈尊を本尊としている。これは天尊の太子が迷って、わが身は民の子であると思っているようなものである。
 華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗などの4宗は大乗教の宗派である。
 このうち法相宗・三論宗は、勝応身に似た仏を本尊としている。これは、天王の太子が、わが父は天子に仕える侍であると思っているようなものである。
 華厳宗・真言宗は、釈尊をさげすんで慮舎那仏、大日如来などを本尊と定めている。これは天子である父をさげすみ、素性も知れないものが法王のように見せかけているのに、つきしたがっているようなものである。
 浄土宗は、釈尊の分身である阿弥陀仏を自らの有縁の仏であると思って、教主釈尊を捨ててしまった。
 禅宗は、下賎の者が自分に一分の徳があるからといって、それをもって父母をさげすんでいるようなもので、仏と経を見下している。
 これらの各宗は皆、本尊に迷っている。たとえば、中国古代の三皇時代以前には、人々は自らの父親を知らず、鳥や獣と同じだったようなものである。
 寿量品を知らない諸宗の者は、これらの獣と同じで、不知恩の者である。
 それゆえ、妙楽大師は「釈尊一代の仏教のうち、寿量品までの経は、いまだかって仏の久遠の寿命を明らかにしていない。子としては父母の寿命を知らないでいて良いわけはない。もし父の寿命が長遠であることを知らなければ、父の統治する国に迷うのである。いたずらに才能があるといっても空しく、これでは全く人の子ではない」(『五百問論』)と述べている。
 妙楽大師は、唐の末期、天宝年間の人である。三論宗・華厳宗・法相宗・真言宗などの諸宗、ならびにその依経を深く見、広く考えたうえで、「寿量品の仏を知らない者は父の統治する国に迷っている、才能ある畜生である」と書かれたのである。
 「いたずらに才能があるという」とは、華厳宗の法蔵・澄観、および真言宗の善無畏らのことで、彼らは才能ある人師であるけれども、父を知らない子のようなものである。
 伝教大師は日本における顕教・密教の祖である。その伝教の著した『法華秀句』で、「他宗が依り処としている経には、仏の母としての性質が一分は有るといえるが、ただ母の徳たる衆生をあわれむ愛だけがあって、父の徳たる(法を正しく教えて成仏へと導く)厳の義を欠いている。天台法華宗は、厳と愛の義をともに具備している。だから、一切の賢人・聖人、学ぶべきことのある声聞・もはや学ぶべきものがない声聞、および菩薩の心を起こした人すべての父である」等と述べている。
 真言宗・華厳宗などが依り所としている経々には、仏に成るための下種・調熟・得脱の三つの義について、その名称すらない。まして、その実義があるわけがない。
 したがって、華厳宗や真言宗などの経でも、「この一生のうちに初地にはいって、この身のままで成仏する」などといっているが、これらの経は権経であって、仏の久遠の過去を明かしていない。
 下種を知らない得脱なので、それはあたかも、中国・秦代の反逆者・趙高が皇帝の位にのぼろうとし、奈良時代の僧・道鏡が天皇の位につこうとしたのと同じである。
 各宗派が互いに成仏の種は自宗にあると争い合っている。私はこれについては争わない。ただ経文に任すのである。
 法華経に説かれている成仏の種にもとづいて、天親菩薩は法華経の種子が無上であると述べたのである。天台大師の一念三千がその種子である。
 華厳経はじめ諸々の大乗経、また大日経などの諸尊が成仏した種子は皆、一念三千なのである。天台智者大師だけが、この法門を得られたのである。

 久遠実成の釈尊こそ一切衆生の主師親であることが明らかなのに、天台宗以外の諸宗は本尊に惑っている。
 それらの人々は、本当の立派な父を知らずに、もっと低い者を自分の父と思っているようなもので、恩知らずである。
 才能ある畜生である。
 そもそも爾前経には、久遠を明かしてない故に、成仏の種子がないのだ。
 諸仏が成仏した「種子」とは「一念三千」であり、天台大師だけが、この法門を得られた。

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