2008/10/23  如説修行

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我々が仏法を学び、信心をするのは何の為でしようか?
簡単に言うと「成仏」の為です。
成仏とは「仏に成る」ということではありません。

日蓮大聖人は「成とは開く義なり」と仰せです。「仏と成(ひら)く」と読むのが正しい読み方です。
仏の生命(仏性・仏界)を出す事です。

爾前教(法華経以前の教え)では、何回も生まれなおして修行して、位をひとつずつ上げていって、ようやく辿り着ける境涯だと説かれていました。
しかし法華経では、実は仏は常住していると説かれます。
すべての人に平等に十界が備わっている。
これが「全生命が平等である」という明確な根拠です。
今現在、不幸に喘いでいる人であっても、必ず成仏、つまり「仏と成(ひら)く」ことができるのです。

日蓮大聖人は
一念三千法門
「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す」(P416)
と仰せです。
成仏への実践が、如説修行(信行学の行・自行化他の化他)であります。

ここで言う如説修行は「安楽行品」の如説修行ではなく「法華経」の如説修行になります。
如説修行抄
「一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」 (P503)
末法では如説修行とは「折伏」になります。

折伏と言うとハードルが高いように感じるかも知れませんが、その様な事はありません。

成仏=如説修行=折伏=法華経を広める=折伏された人の成仏=如説修行
と、自分の成仏は他人の成仏につながります。

「○○さんが幸せになってほしい」と願い仏法対話をする事と「自分が幸せ」になる事はイコールです。

法華初心成仏抄
「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり 」(P552)

結果として折伏相手が入信をしなくても仏の種は蒔きました。(下種と言う)如説修行をしたことになります。
ただし、「強いて説き聞かすべし」です。勇気をもって言い切る事です。

池田先生は「折伏とは『真実を語る』ことです」「末法においては、法華経の真髄である『南無妙法蓮華経』の素晴らしさを語り、広げていく行動は、全部、『折伏』です」【法華経の智慧】
「折伏は、友情を深め、信頼を勝ち取っていくものでなくてはならない。表面的な語らいはあっても、真実の対話がない現代である。
だが、折伏は、ともに、真実の充実した幸福の道を歩みゆこうとの、友への深い思いやりの触発の語らいである。
人生の価値とは何か、何が正しく、何が悪なのかを、時に生活に即し、時に自らの体験のうえから語り合う、真心の仏法対話は、これ、人間主義の王道であり、それが折伏だ」【随筆 新・人間革命】
と書かれています。

友人には、真剣に真摯に誠実に仏法対話を重ねていく事こそ「成仏」への「直道」なのです。
23:00:00

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