2008/10/22  十四誹謗

印刷用ページを開く
十四誹謗は誹謗正法(ひぼうしょうほう)とも謗法(ほうぼう)とも言われる行為の分類。
松野殿御返事
「悪の因に十四あり、一に慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善なり。此の十四誹謗は在家出家に至るべし」(P1382)
とあります。
これは法華経譬喩(ひゆ)品第三の文からです。
1.驕慢(きょうまん)慢心。おごりたかぶって、仏法を侮る事。
2.懈怠(けたい)仏道修行をなまける事。
3.計我(けいが)我見と同意。自分の勝手な考えで、仏法の教えを判断する事。
4.浅識(せんしき)仏法の道理がわからないのに、求めようとしない事。
5.著欲(じゃくよく)欲望にとらわれて、仏法を求めない事。
6.不解(ふげ)仏法の教えをわかろうとしない事。
7.不信(ふしん)仏法を信じない事。
8.顰蹙(ひんしゅく)顔をしかめること。仏法を非難する事。
9.疑惑(ぎわく)仏法の教えを疑って、迷う事。
10.誹謗(ひぼう)仏法をそしり、悪口を言う事。
11.軽善(けいぜん)仏法を信じている人を軽蔑し、馬鹿にする事。
12.憎善(ぞうぜん)仏法を信じている人を憎む事。
13.嫉善(しつぜん)仏法の信者を怨嫉する事。和合僧を破る働きをする人。
14.恨善(こんぜん)仏道修行をする人をうらむ事。

1の驕慢はそのまま慢心。仏法を侮り「南無妙法蓮華経なんて」とか言って(思って)もしまう事とか。

2の懈怠は勤行・折伏(自行化他)などの「如説修行」を怠る事。「勤行しなきゃ」とか言ってしまうのも修行ではなく怠惰や義務になっている証拠。

3の計我は自分の考えに固執・執着し都合よく仏法を判断する事。生命(衆生)に仏性が備わっているからと言って修行をしなくても良い訳ではない。

4の浅識は「学会員なのに、事故にあったね。題目に力があるなら事故に合わないよね」とか正法を一現象だけで判断したりする事。

5の著欲は「なんで信心しているのに金持ちにならねーんだ」とか欲望に執着し振り回される事。

6の不解は初心の功徳で満足してしまい仏法を研鑽しない事。

7の不信は文字のまま仏法を信じない事。正法に帰依しながら神社(他宗)に参拝する事(夫婦なら浮気だ)も不信にはいると思われる。

8の顰蹙は正法に対し顔をしかめ不快に思う事。あまりやり過ぎると自分が顰蹙を買う。

9の疑惑は仏法の教えを疑り迷う事。本当に成仏できるのか?宿命転換できるのかと疑う事。乗り越えられない宿業はありません。願兼於業(がんけんおごう)です。
法華経法師品第十
「薬王当に知るべし。是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生をあわれむが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶるなり」
の文を、妙楽大師が法華文句記巻八の三で釈して、「願兼於業」(がんけんおごう)と呼んだ。
偉大な福運を積んだ大乗の菩薩(是の人)が、悪世で苦しむ人々を救うために、自らの清浄な業の報いを捨てて、悪世に生まれることを願うのです。
この場合、菩薩としての願いの力で悪世に生まれるのですが、業によって悪世に生まれた人と同じように悪世の苦しみを受けるので「願いが業を兼ねる」というのです。

10の誹謗は正法をそしる事。誹謗中傷の語源。インターネットでは匿名で出来るので近年問題化している。(匿名でも自分の生命には刻まれるよ【類似:同生天同名天】)

11~14の軽善、憎善、嫉善、恨善は仏法自体ではなく正法の信仰者に対しする謗法です。信仰者を軽蔑し憎み怨嫉し恨む事。

これら十四誹謗は在家・出家を問わずに謗法の可能性があります、十四誹謗を努めて起こさない事が必要です。
どんなに優れた修行をしても謗法を犯すことによってすべての福運・功徳を帳消しにしてしまいます。
念仏無間地獄抄
「譬喩品の十四誹謗も不信を以って体と為せり」(P97)
とあるように、十四誹謗を犯す人は所詮、信心していないのと同じことになり、いかに仏道修行をしても、福運や功徳を得られなくなります。

また宿命転換について、日蓮大聖人は佐渡御書の中で、御自身が大難を受けているのは、仏教で一般に言われる通常の因果によるものではなく、過去において法華経を誹謗した故であると述べられています。
これは、正法である法華経を誹謗すること、すなわち謗法こそが根本的な罪業であり、あらゆる悪業を生む根源的な悪であるということを教えられています。
謗法の行為は、正法(妙法)に対する不信・違背の心から起こります。そして、正法への不信・違背の心が、あらゆる悪業を生む根源悪なのです。
この正法に対する不信・謗法という根本的な悪業を、正法を信じ、守り、弘めていく(自行化他)という実践によって今世のうちに転換していくのが、大聖人の仏法における宿命転換です。
そして、その実践の核心が南無妙法蓮華経の題目です。

大聖人は
御義口伝巻下
「衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」(P786)
という普賢経の文を引いて、自身の生命に霜や露のように降り積もった罪障も、南無妙法蓮華経の題目の慧日(智慧の太陽)にあえば、たちまちのうちに消し去ることができると言われています。
御本尊を信受して自行化他にわたる唱題に励み、自身の胸中に太陽のような仏界の生命が現れれば、さまざまな罪業も霜露のように消えていくのです。



如説修行抄
「所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり」(P502)

※この解釈には私の計我謗法の可能性もあります。身近な幹部に確認して下さいね。


14:16:00

コメント

コメントはまだありません!

コメント送信

トラックバック

このエントリにトラックバックはありません!

http://kurasi.homeftp.net/~junkdark/action.php?action=plugin&name=TrackBack&tb_id=2
このトラックバックURLを使ってこの記事にトラックバックを送ることができます。
認証制です、お時間を頂きます。
もしあなたのブログがトラックバック送信に対応していない場合にはこちらのフォームからトラックバックを送信することができます。