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2011/09/03  青年教学1級 開目抄第15段「本迹相対して判ず」

 本門で久遠実成が説かれる。

第15段「本迹相対して判ず」
 二には教主釈尊は住劫・第九の減・人寿百歳の時・師子頬王には孫・浄飯王には嫡子・童子悉達太子・一切義成就菩薩これなり、御年十九の御出家・三十成道の世尊・始め寂滅道場にして実報華王の儀式を示現して十玄・六相・法界円融・頓極微妙の大法を説き給い十方の諸仏も顕現し一切の菩薩も雲集せり、土といひ機といひ諸仏といひ始めといひ何事につけてか大法を秘し給うべき、されば経文には顕現自在力・演説円満経等云云、一部六十巻は一字一点もなく円満経なり、譬へば如意宝珠は一珠も無量珠も共に同じ一珠も万宝を尽して雨し万珠も万宝を尽すがごとし、華厳経は一字も万字も但同事なるべし、心仏及衆生の文は華厳宗の肝心なるのみならず法相・三論・真言・天台の肝要とこそ申し候へ、此等程いみじき御経に何事をか隠すべき、なれども二乗闡提・不成仏と・とかれしは珠のきずと・みゆる上三処まで始成正覚と・なのらせ給いて久遠実成の寿量品を説きかくさせ給いき、珠の破たると月に雲のかかれると日の蝕したるがごとし不思議なりしことなり、阿含・方等・般若・大日経等は仏説なれば・いみじき事なれども華厳経にたいすれば・いうにかいなし、彼の経に秘せんこと此等の経経にとかるべからず、されば雑阿含経に云く「初め成道」等云云、大集経に云く「如来成道始め十六年」等云云、浄名経に云く「始め仏樹に坐して力めて魔を降す」等云云、大日経に云く「我昔道場に坐して」等云云、仁王般若経に云く「二十九年」等云云。
 此等は言うにたらず只耳目を・をどろかす事は無量義経に華厳経の唯心法界・方等・般若経の海印三昧・混同無二等の大法をかきあげて或は未顕真実・或は歴劫修行等・下す程の御経に我先きに道場菩提樹の下に端坐すること六年阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たりと初成道の華厳経の始成の文に同せられし不思議と打ち思うところに此は法華経の序分なれば正宗の事をいはずもあるべし、法華経の正宗・略開三・広開三の御時・唯仏与仏・及能究尽・諸法実相等・世尊法久後等・正直捨方便等・多宝仏・迹門八品を指して皆是真実と証明せられしに何事をか隠すべきなれども久遠寿量をば秘せさせ給いて我始め道場に坐し樹を観じて亦経行す等云云、最第一の大不思議なり、されば弥勒菩薩・涌出品に四十余年の未見今見の大菩薩を仏・爾して乃ち之を教化して初めて道心を発さしむ等と・とかせ給いしを疑つて云く「如来太子為りし時・釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり、是より已来始めて四十余年を過ぎたり世尊・云何ぞ此の少時に於て大いに仏事を作したまえる」等云云、教主釈尊此等の疑を晴さんがために寿量品を・とかんとして爾前迹門のききを挙げて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏・釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり」等と云云、正しく此の疑を答えて云く「然るに善男子・我実に成仏してより已来無量無辺・百千万億・那由佗劫なり」等云云。
 (爾前・権教と比較して法華経が信じがたい点として、第1に二乗作仏を説いていることを、これより以前の部分〈第11段~第14段〉で述べてきたが)その第2は久遠実成である。教主釈尊は、住劫の第9番目の減劫の時代、人間の寿命が100歳の時に、師子頬王には孫、浄飯王には嫡子として生まれ、子どものときの名を悉達太子という。漢訳では、一切義成就菩薩(すべての徳を成就した菩薩)である。
 御年19歳で出家し、30歳で成道された世尊は、はじめは寂滅道場で実報土と蓮華蔵世界の教主の荘厳な儀式を示して、十玄・六相などの法門を中心に一切の事象が互いに妨げがなく融合していることを明かし、ただちに究極の悟りを得ることができる不可思議なる大法を説かれた。
 その場には、十方の諸仏も顕現し、一切の菩薩も雲のごとく集った。
 その立派な国土といい、説法を受けた衆生の機根といい、集った諸仏といい、説法の最初であることといい、どこに大法を秘し隠される理由があろうか。
 故に華厳経の経文には、「自在の力を顕現して、(真理をすべて明かした)円満な経を説き示す」とある。華厳経一部60巻は、一字一点のどの一つもが円満経なのである。
 警えば如意宝珠は、たった一珠であっても無量珠であっても同じことである。一珠であっても、万宝をことごとく降らすことができるし、万珠であっても万宝を降らし尽くすことができる。それと同じである。
 華厳経は、一字であっても、万字であっても、ただ同じことなのである。
 この華厳経の「心と仏と衆生の三つには差別がない」との文は、華厳宗の肝心であるだけではなく、法相・三論・真言・天台の各宗の肝要であるといわれる。
 これほどまでに素晴らしい御経であるのに、何事を説かずに隠してい るといえようか。
 けれども、”二乗と一闡提とは、成仏できない“と説いているのは、珠のきずのように思われる。
 そのうえ、3ヵ所にまで、釈尊自身が”始成正覚である”と名のられていて、久遠実成の寿量品を説き隠しておられる。これは、珠が割れ、月に雲がかかり、太陽が蝕しているようなものである。不可解なことである。
 阿含・方等・般若・大日経などは、仏の説かれた経であるので、その点では尊い経ではあるけれども、華厳経に対すれば、とるにたりない劣った経典である。
 あの華厳経に秘されていることをこれらの経典に説かれるはずがない。
 そこで、雑阿含経には「初めて成道して」とある。大集経には「如来が始めて成道してから16年」とある。浄名経(維摩経)には「始め仏樹(菩提樹)のもとに坐して、つとめて魔を降す」とある。大日経には「私は昔、道場に坐して」とある。仁王般若経には「(成道してから)29年間説いてきた」とある。
 以上のことは取り立てて言うに足りないことである。ただ耳目を驚かすことは、以下のことである。
 法華経の開経である無量義経では、華厳経の「唯心法界」とか、方等経の「海印三昧」とか、般若経の「混同無二」などの大法を列挙して、これらに対して「いまだ真実を顕していない」、あるいは「歴劫修行の説である」などと下しているが、これほどのこの御経に、「私は、かつて道場の菩提樹の下に端坐すること6年にして、阿耨多羅三藐三菩提という最上の悟りを成ずることを得た」と説いて、初成道の華厳経の始成の文に同じられているのである。不可解なことだと思うが、これはまだ法華経の序分であるので、正宗分のことは、きっと言わないでおいたということもあるのであろう。
 その法華経の正宗分で「略開三顕一」「広開三顕一」の法門が説かれた時、「唯、仏と仏とのみがよく諸法の実相を究め尽くされている」、「世尊は久しく方便の教えを説いた後に真実の教えを説く」、「正直に方便を捨ててただ無上の道を説く」と述べ、さらに多宝仏が迹門8品を指して「皆、これは真実である」と証明された。このような法華経正宗分に何事を隠す必要があろうか。
 けれども、久遠の寿量を秘し隠されて、「私ははじめ道場に坐して樹を観じて、また経行した」と説かれている。これこそは、最第一の大不思議である。
 そこで、弥勒菩薩は、涌出品で、仏が40余年の間いまだ見たことがなく今はじめて見た大菩薩たちを呼び出し、「私がこれらの無数の大菩薩たちを教化して初めて道心を発させた」と説かれたことを疑って、こう述べた。
 「如来は、太子であった時、釈迦族の宮殿を出て、伽耶城を去ること遠くない道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提という最上の悟りを成ずることを得られた。この時以来、40年余りが過ぎただけである。世尊よ、どのようにしてこのわずかな時に仏としての大いなる仕事をなされたのか」と。
 教主釈尊は、これらの疑いを晴らすために、寿量品を説こうとして、爾前・迹門で人々が聞いてきたことを挙げて、こう述べられた。
 「一切の世間の天・人、及び阿修羅は、皆、今の釈迦牟尼仏は釈迦族の宮殿を出て、伽耶城を去ること遠くない道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得られた、と思っている」と。
 そして、まさしくこの疑いに答えて、こう言われた。
 「しかしながら、善男子たちよ。私は実に成仏して以来、無量無辺百千万億那由他劫なのである」と。

 「然るに善男子・我実に成仏してより已来・無量無辺・百千万億・那由他劫なり」
 なんと言う衝撃の告白だろう。(笑)

 爾前経の中でも、最も優れている華厳経ですら「始成正覚」である。
 また、法華経迹門だって「始成正覚」である。
 ところが、本門寿量品に到って、「久遠実成」──すなわち釈尊は、久遠の昔に成仏したことが明かされる。

2011/09/02  青年教学1級 開目抄第6段「文底真実を判ず」

 三重秘伝。
 法華経-本門寿量品-文の底

第6段「文底真実を判ず」
 但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり、一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。
 ただし、この法華経に二つの大事な法門(迹門理の一念三千と本門事の一念三千)がある。
 倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗などは、一念三千の名さえ知らない。華厳宗と真言宗との二宗は、一念三千の法門をひそかに盗んで自宗の教義の骨格とし、眼目としている。
 この一念三千の法門は釈尊の一代仏教の中でもただ法華経、法華経の中でもただ本門寿量品、本門寿量品の中でもただその文底に秘し沈められたのである。
 正法時代の竜樹や天親は、一念三千の法門が法華経に秘められていることは知っていたが、それを拾い出して説くことはせず、ただ像法時代の正師であった中国の我が天台智者だけがこれを心の中に懐いていたのである。

 仏法の究極である一念三千の法門は、法華経の、本門の寿量品の、文の底に沈めてある。
 ※「但」の字は三重に冠して読む。
  但法華経…………権実相対
  但本門寿量品……本迹相対
  但文の底…………種脱相対


2011/09/02  青年教学1級 開目抄第5段「権実相対して判ず」

 仏説はいろいろあるが、法華経が一番です。

第5段「権実相対して判ず」
 但し仏教に入て五十余年の経経・八万法蔵を勘たるに小乗あり大乗あり権経あり実経あり顕教・密教・ナン語・ソ語実語・妄語・正見・邪見等の種種の差別あり、但し法華経計り教主釈尊の正言なり三世・十方の諸仏の真言なり、大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給しかば多宝仏・大地より出現して皆是真実と証明す、分身の諸仏・来集して長舌を梵天に付く此の言赫赫たり明明たり晴天の日よりも・あきらかに夜中の満月のごとし仰いで信ぜよ伏して懐うべし。
 ただし、仏教の中に入って、50年余りの間に説かれた経々、すなわち八万法蔵といわれる数多くの経について考えてみると、そのなかに小乗経もあり、大乗経もある。
 大乗経の中でも、真実の教えを説くための方便として仮に説かれた権経もあり、真実を明かした実経もある。
 衆生の機根に応じて真意をはっきりと言葉で説いた顕教と仏の真意を秘密にして説かれた密教、あるいは意を尽くした語(ナン語)と粗雑で意を尽くさない語(ソ語)、また、真実の言葉(実語).と偽りの言葉(妄語)、正しい見方(正見)と誤った見方(邪見)等々、種々の差別がある。
 こうしたなかで法華経だけが教主釈尊の正しい真実の言葉であり、三世十方、すなわち全宇宙の一切の仏のまことの言説である。
 釈尊は法華経以前の40年余りという年限を指して、その期間に説かれた数多く、の経々を無量義経で「いまだ真実を顕さず」と述べられ、最後の8年間に説いた法華経において「要ず当に真実を説くべし」(方便品)と定めたところ、多宝仏は大地から出現して「釈尊の説法は皆これ真実である」(宝塔品)と証明した。
 さらに分身の諸仏は十方の世界から集まりきたって、長舌を梵天につけ、法華経が真実であることを証明した。
 この「法華経が真実である」等の言葉は光り輝いて、晴天の太陽よりも明らかであり、夜中の満月のように明るくはっきりしている。仰いで信じ、伏して思うべきである。

 でも仏の教えはたくさんあって、いろいろな種類がある。
 その中でも、「法華経」だけが 真実の言葉だ。
 なぜなら法華経を説く前に釈尊は、それまでの教えを.「未顕真実」(未だ真実を顕さず)と言い、法華経では『要当説真実」(これから真実を説きます)と言った。

2011/09/01  青年教学1級 開目抄第4段「内外相対して判ず」

 儒教・外道に対して釈尊はすごい。

第4段「内外相対して判ず」
 三には大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり、外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし我が大師は変易・猶を・わたり給へり況や分段の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり況や見思枝葉のソ惑をや、此の仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間・一代の聖教を説き給へり、一字一句・皆真言なり一文一偈・妄語にあらず外典・外道の中の聖賢の言すらいうこと・あやまりなし事と心と相符へり況や仏陀は無量曠劫よりの不妄語の人・されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし、初成道の始より泥オンの夕にいたるまで説くところの所説・皆真実なり。
 第3に大覚世尊(釈尊)は一切衆生の偉大な導師・偉大な眼目・偉大な橋・偉大な舵取り・偉大な福徳の田等である。
 儒教の四聖(尹寿、務成、太公望、老子)や、外道の三仙(迦毘羅・ウ楼僧ギャ・勒裟婆)は、その名は聖人といっても、実際には見思惑・塵沙惑・無明惑という三惑のうち一つさえ断ち切っていない迷いの凡夫である。また、賢人といっても、実は因果の道理を知らないことは、まるで赤子のようなものである。
 そのような聖人、賢人を船と頼んで、この苦悩と迷いの生死の大海を渡ることができようか。彼らを橋として六道の悪路をこえることは難しい。
 それに対して、我が釈迦仏は、変易の生死(二乗や菩薩等の迷いの生死)を超えられた方である。まして分段の生死(六道を輪廻する凡夫の生死)を超えているのはもちろんである。
 生命に本来そなわっている元品の無明(=根本の迷い)をも断ち切られている。まして見惑・思惑など枝葉の迷いを断たれているのは言うまでもない。
 この釈迦仏は、30歳で成道されてから80歳で入滅されるまで、50年間に一代聖教を説かれた。その一字一句は皆真実の言葉であり、一文一偈として偽りの語はない。
 外典や外道のなかの聖人・賢人の言葉ですら、その言っていることに誤りはなく、事(言動)と心が相一致している。ましてや仏陀は無量曠劫というはるか遠い昔から、ウソ偽りの言葉を言われなかった方である。
 故に、その一代50余年の説教は、外典や外道に対すれば、すべて大乗であり、偉大な人(大人)の真実の言葉なのである。
 30歳での成道の初めから、釈尊最後の説法の時に至るまで、説くところの法は皆、真実なのである。

 因果を弁えない外道では、生死の大海も六道の巷も渡り超えることはできない。
 内道(仏法)に比べれば、それは「赤子」のようなもので、釈尊の説く法は「大人の実語」なのです。
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