2011/09/01 青年教学1級 開目抄第3段「外道の三徳」
外道の教えとは?
インドの外道の教えは、儒教よりも深くて、多少は過去・未来を知ることができる。
しかし、因果の理法を中途半端にしか説いていない。
だから結局、悟りに到ることはできない。
第3段「外道の三徳」二には月氏の外道・三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す、迦毘羅・ウ楼僧ギャ・勒娑婆・此の三人をば三仙となづく、此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり、此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり、乃至・仏・出世に当って六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり、一一に流流多くして我慢の幢・高きこと非想天にもすぎ執心の心の堅きこと金石にも超えたり、其の見の深きこと巧みなるさま儒家には・にるべくもなし、或は過去・二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云、此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より返つて三悪道に堕つ一人として天に留るものなし而れども天を極むる者は永くかへらずと・をもえり、各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに或は冬寒に一日に三度・恒河に浴し或は髪をぬき或は巌に身をなげ或は身を火にあぶり或は五処をやく或は裸形或は馬を多く殺せば福をう或は草木をやき或は一切の木を礼す、此等の邪義其の数をしらず師を恭敬する事・諸天の帝釈をうやまい諸臣の皇帝を拝するがごとし、しかれども外道の法・九十五種・善悪につけて一人も生死をはなれず善師につかへては二生・三生等に悪道に堕ち悪師につかへては順次生に悪道に堕つ、外道の所詮は内道に入る即最要なり或外道云く「千年已後・仏出世す」等云云、或外道云く「百年已後・仏出世す」等云云、大涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」等云云、法華経に云く「衆に三毒有りと示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」等云云。第2に、インドの外道(仏教以外のバラモン教などの諸教)においては三つの目と8本の臂をもつ摩醯首羅天と毘紐天とを二天といい、この二天を一切衆生の慈父であり、悲母であり、また天尊であり、主君であると称えている。
また迦毘羅、ウ楼僧ギャ、勒裟婆の3人を三仙と呼んでいる。
これら3人は釈尊が生まれる前800年前後の仙人である。
この三仙の説いた教えを四章陀(ヴェーダ)といい、その所説は6万蔵あると言われる。
釈尊が出現したころには、六師外道(6人の外道の論師)が、この外道の経を習い伝えて、5天竺(全インド)の王の師となり、その支流は95、96派にもなっていた。
一つ一つの流派にまた種々の流派が多くあって、それぞれが自分の流派が最高であるとし、その慢心の幢が高いことは三界の最頂である非想天より高く、執着心の固いことは金属や岩石をも超えていた。
その見解が深く、巧みなさまは儒教等の遠く及ぶところではない。
過去に遡ること二生、三生、七生、さらに8万劫まで照見することができ、またあわせて未来8万劫も知ることができると称していた。
その所説の法門の極理は、あるいは「因の中に果あり」という決定論、あるいは「因の中に果なし」という偶然論、あるいは「因の中にまたは果あり、または果なし」という折衷論などである。これがインド諸教における究極の理論である。
なかでも、いわゆる模範的な善い外道の修行者は、五戒や十善戒などの戒律をたもち、煩悩を断ずることができない不完全な瞑想を修行して、色界無色界を極め、その最上界(非想天)を涅槃(悟りの安穏の境地)と立てて、尺取り虫のように一歩一歩修行して登っていくけれども、非想天から、かえって三悪道に堕ちてしまい、一人として天界にとどまる者はいない。
しかし外道を信じる者は、一度、非想天を極めた者は永久にかえらないのだと思っていたのである。
おのおの自派の師匠の立てた法義を受けてかたく執着するゆえに、あるいは寒い冬に1日3回、ガンジス川に沐浴し、あるいは髪の毛を抜き、あるいは巌に身を投げつけ、あるいは身を火にあぶり、あるいは両手両足と頭の5ヵ所を焼く。あるいは裸体になったり、あるいは馬を多く殺せば幸福になれると言ったり、あるいは草木を焼き払い、あるいは、一切の木を礼拝する等々、その邪義は数え当これないほどである。
しかも、その師匠をつつしみ敬うさまは、あたかも諸天が帝釈天を敬い、諸臣が皇帝を拝するようであった。
しかしながら、外道の法は95派あるが、それらの修行では、善い外道であっても、悪い外道であっても、一人として生と死をくり返す迷いと苦しみの流転から離れることはできない。
善師につかえても、二生、三生等の後には悪道に堕ち、悪師に仕えては、次の生を受けるごとに悪道に堕ちていくのである。
結局のところ、外道というものは仏教に入るための教えであり、このことが外道のもつ最重要な意義なのである。
それ故、ある外道は「1000年以後に仏が世に出られる」と予言した。またある外道は「100年以後に仏が世に出られる」と予言した。
涅槃経には「一切世間の外道の経書は、すべて仏説であって、外道の説ではない」とある。
法華経の五百弟子受記品には「我が弟子たちは、自身の姿によって、衆生に貪・瞋・癡の三毒があることを示し、また邪見の相を現す。我が弟子は(実は菩薩であるが)このように方便で衆生を誘引し救済する」と説かれている。
インドの外道の教えは、儒教よりも深くて、多少は過去・未来を知ることができる。
しかし、因果の理法を中途半端にしか説いていない。
だから結局、悟りに到ることはできない。