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3.一念三千と十界互具
一念三千の構成
一念三千とは、法華経に説かれている一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が「摩訶止観」のなかで、体系化して説明したものです。
「一念」とは、我々の瞬間瞬間の生命のことで、この一念に、すべての現象、働きを意味する三千の諸法が具わっていることを説いたのが一念三千の法理です。
「三千」とは、十界互具と十如是、そして三世間を合わせて総合したものです。(百界×十如是×三世間=三千)。十界と十如是と三世間という、それぞれ異なった角度から生命をとらえた法理を総合し、私たちの生命の全体観を示したものです。
(1)十界互具
十界は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種類の生命の境涯のことです。
これら10種の生命境涯は、十界いずれの衆生にも欠けることなく具わっています。このように十界のおのおのの生命に十界が具していることを「十界互具」といいます。
分けることができます。例えば、毎日苦しんでばかりの人は「地獄界」の境涯。いつも争ってばかりの人は「修羅界」の境涯と言えます。
しかし、地獄界の人にも、たまには喜ぶ時(天界)があるでしょうし、修羅界の人にも自分の子供を慈しんだりする時(菩薩界)があります。これを十界互具と言います。つまり、どのような境涯の衆生にも成仏する可能性があることを説いたのが十界互具です。
(2)十如是
十如是とは、十界の衆生に共通して具わる生命の10種類の側面を示したものです。
私たちが、日々読誦している法華経方便品第2の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の10種です。
(3)三世間
三世間とは、五陰世間、衆生世間、国土世間の三つをいいます。「世間」とは、差異・差別のことで、十界の差異は、この三つの次元に現れます。
以上の十界互具・十如是・三世間の法理を総合して成立したのが一念三千の法門です。
一念と三千
「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」(238ページ)
ここで、わずかでも私たちの「一念の心」があるところ、そこに「三千の諸法」が具わるということが示されています。
三千の諸法」とは。先ほどの三千の構成で示された、全宇宙に起こりうる、あらゆる現象です。
要するに瞬間瞬間のわが生命に、”無限の可能性”が秘められている、という希望の原理が一念三千の法理です。
凡夫成仏・即身成仏・一生成仏
日蓮大聖人は「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり」(1446ページ)と仰せです。
法華経以外の諸経では、「成仏」が説かれていても、少なくとも二つのことが条件とされていました。
一つは衆生が悪人であったならば善人に生まれ変わることが必要があり、女性であったならば男性に生まれ変わることが必要であるということです。
悪人や女性が、そのまま成仏することはできないとされていたのです。
それに対して、法華経では十界互具が説かれることにより、成仏とは「仏という特別な存在に成る」ことではなく、自身の九界の身に「仏界の生命を開く」ことであると説いたのです。
成仏の「成」について「成とは開くの義なり」(753ページ)と仰せです。
なお凡夫の身のままで成仏できることを即身成仏、一生のうちに成仏できることを一生成仏をいいますが、どちらも同じ法理を表現した言葉です。
煩悩即菩提・生死即涅槃
この即身成仏の法理を別な角度から表したのが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。
小乗教の考え方では、凡夫は煩悩を断じて、初めて悟り(菩提)を得て成仏するとされています。
また、権大乗経では一応、煩悩即菩提を説きますが、九界を離れて初めて仏になると説くので、実質的には小乗教と同じ悟りの考え方になってしまいます。
これに対し、法華経では、凡夫のもっている煩悩を断ずることなく、直ちに仏の菩提(=悟り)が得られることが明かされました。
「御義口伝」に「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」(710ページ)とあるように、悩みを避けたり、悩みから逃げたりするのではなく、信心を根本に、煩悩に真っ向から取り組んでいくとき、煩悩を縁として悟りの智慧が現れて、煩悩をコントロールしていけるのです。
この「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法理に立脚するとき、あらゆる苦悩を自身の成長と幸福の因に転じていく積極的な生き方が可能になるのです。
2.日蓮大聖人と法華経
末法の法華経の行者
日蓮大聖人は、法華経の経文通りに実践し、大難を越えて妙法を弘通した御自身のことを、「法華経の行者」と仰せになっています。
法華経には、釈尊の滅後において、法華経を信じ、行じ、広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されています。
法師品第10には、「如来現在猶多怨嫉。況滅度後」と説かれています。
見宝塔品第11では、六難九易を説いて、滅後に法華経を受持し、広めることが困難であることを強調し、菩薩たちに、釈尊滅後に法華経を弘通する誓いを立てるように勧めています。
また、勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者には俗衆、道門、僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起るとしています。
このように見ると法華経は、末法における大聖人の出現とその振る舞いを予言した経典ととらえることができます。
逆に大聖人が法華経を身読されたことによって、法華経が虚妄にならずにすみ、釈尊の言葉が真実であることを証明したことになります。
「猶多怨嫉・況滅度後」「六難九易」「三類の強敵」の用語をしっかり覚えましょう。
上行菩薩
日蓮大聖人は、外用(=外面の姿、働き)としては、釈尊から付嘱を受けた、地涌の菩薩の上首(=最上の導師)上行菩薩として振る舞われましたが、御内証(=内心の悟りの境涯)においては、久遠元初の自受用報身如来にほかなりません。
大聖人は、法華経の行者として幾重もの大難を乗り越え、文永8年9月12日の竜の口の法難の時に、この久遠元初自受用報身如来の境地を御自身の凡夫の胸中に顕され、その根源の仏の生命を南無妙法蓮華経の御本尊として御図顕されたのです。
また、末法において法華経を弘通したと言っても、大聖人が広められた「法」は、釈尊の残した法華経28品ではありません。
「今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546ページ)と仰せのように、大聖人は法華経の肝心(文底)である三大秘法の南無妙法蓮華経を顕し、広められたのです。そこに末法の御本仏たるゆえんがあります。
1.法華経
万人の成仏の経典
釈尊の説いた仏教の教えは、さまざまな経典として残されていますが、「万人の成仏」を実現する完全な教えを説いた経典は「法華経」だけです。他の経典は部分的な教えにとどまっています。
例えば、爾前経(法華経以前のさまざまな経典)では、声聞・縁覚の二乗や、女人や悪人は成仏できないと説き、一切衆生の成仏を明かしていません。
法華経のあらすじと構成
法華経は、8巻28品(章)から成り立っています。天台大師(6世紀の中国で法華経を宣揚した人)は、この28品のうち、前半14品(序品第1~安楽行品第14)を「迹門」、後半14品(涌出品第15~普賢品第28)を「本門」と分類しました。
迹門の中心は、方便品第2で説かれた「諸法実相」です。また、譬喩品第3から人記品第9までで最も強調されているのは「二乗作仏」(二乗の成仏)です。これらの教えによって、一切衆生の成仏を可能にする十界互具・一念三千の法理が明らかになります。
法師品第10からは、釈尊入滅後の未来、とりわけ末法に、この法華経をだれが弘通するのか、だれが悪世に生きる人々を救うのかいうテーマのもとで展開していきます。
まず宝塔品第11では、7種の宝で飾られた巨大な宝塔が大地から涌現して空中に浮かびます。その宝塔の中にいた多宝如来が、釈尊の法華経の説法は真実であると証明します。続いて十方の仏土、すなわち全宇宙から一切の仏や菩薩が来集します。そして、釈尊が宝塔の中に入り、多宝如来と並び座ります(二仏並坐)。法華経の説法の場である霊鷲山にいた大衆も、仏の神通力によって虚空(=空中)に浮かび、虚空での説法が始まります。(虚空会・二処三会)
この虚空会で釈尊は、釈尊滅後の悪世における法華経の弘通を勧めます。
(「六難九易」や「三類の強敵」が説かれて)悪世に法を弘通する困難さを示しています。
そうした大難を覚悟して多くの菩薩が弘通を誓いますが、釈尊はそれらを制止し、涌出品第15で滅後弘通の真の主体者として無数の「地涌の菩薩」を大地の下方から召し出されます。
この地涌の菩薩の出現から、本門が始まります。
そして、寿量品第16で久遠実成を説いて真実の仏の境地を明らかにしたうえで、神力品第21で地涌の菩薩のリーダーである上行菩薩に法華経の肝要を付嘱し、未来を託します。
この付嘱の儀式の後、舞台は再び霊鷲山に戻り、薬王・妙音・観世音・普賢菩薩などの振る舞いを通して、人々を救う菩薩の姿を説きます。また、薬王品第23などで後五百歳(末法)に一閻浮提(全世界)に法華経が広宣流布することを予言され、さらには、諸天善神が正法を弘通する者を守護することを誓い、法華経の説法が終了します。
諸法実相と久遠実成
法華経迹門の中心的法理は「諸法実相」と「二乗作仏」です。この諸法実相は方便品第2の中で説かれます。
諸法実相の「諸法」とは、この現実世界において、様々な姿をとってあらわれている”すべての現象”です。「実相」とは”究極の真理”です。
この諸法と実相とが別々のものではなく、諸法はそのまま実相の現われであり、実相は決して諸法から離れてあるものではないというのが諸法実相です。
方便品では、諸法がすべて十如是の姿をとっていることを示して実相を指し示しています。しかし日蓮大聖人は実相とは妙法蓮華経であると明確に明かされています。
法華経本門の中心的法理は「久遠実成」です。この久遠実成は、寿量品第16の中で説かれます。
すなわち、「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」と説かれます。これによって、釈尊が今世ではじめて成仏した(始成正覚)というこれまでの考え方を打ち破り、釈尊は実は五百塵点劫というはるか久遠の昔に成仏して以来、この娑婆世界に常住してきた仏であることが明かされます。
また、釈尊は、「私がもと菩薩の道を実践して(我本行菩薩道)、成就したところの寿命は、今なお尽きていない」と示します。
地涌の菩薩
地涌の菩薩とは、涌出品第15で釈尊が滅後弘通のために大地から呼び出した無数の菩薩をいいます。
この地涌の菩薩には、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩という4人の導師(=衆生を導くリーダー)に率いられています。
そして、上行菩薩らは、神力品第21において、仏の滅後に大法を広めることを誓います。これを受けて釈尊から滅後の弘教を付嘱されます。
この付嘱通りに末法の初めに、南無妙法蓮華経を弘通された日蓮大聖人が上行菩薩にあたります。
また、「諸法実相抄」に「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」(1360ページ)と仰せのように、日蓮大聖人の教えを信受して、大聖人の御精神の通り広布の実践に励む私たち一人一人も全て地涌の菩薩であり、末法の御本仏・日蓮大聖人の本眷属なのです。
不軽菩薩
仏の滅後の悪世に、正法を弘通する実践の在り方を示したのが、不軽品第20に説かれる不軽菩薩の実践です。
不軽菩薩は、釈尊の過去世の修行の姿で、「二十四文字の法華経」を説いて、一切衆生を礼拝し続けました。
悪世末法は、「争い」の時代であります。その争いの時代を変革するためには、一人一人が「自他の仏性」を信じ、「人を敬う」行動を続ける以外にありません。「人を敬う」という、人間としての最高の振る舞いを説き、万人が同じ実践を貫くように教えたのが仏教です。
大聖人は「人の振る舞い」について次のように仰せです。
「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174ページ)
自他を信じ、現わしていく不軽菩薩の実践に象徴されるような「人の振る舞い」こそ仏法の目的であることが明確に示されています。
兄弟抄の御書講義のまとめ。
一念三千の法門が仏教の肝心である。
三障四魔が必ず起きる事。
三障四魔に随ってはならない。
三障四魔はいろいろな形で出て来る。
魔性と戦うには「師弟不二」と「異体同心」です。
「心こそ大切なれ」
でも、自分の心を師としてはならない。
魔の分断を見抜き打ち破る「団結」。
「賢者はよろこび」の信心。
師弟不二の難を乗り越える信心。
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