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2009/11/09  初級・3級教学試験 「兄弟抄」(下)その3

 前回の御書講義続き。

本文
 心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり。設ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし

通解
 「心の師とはなっても、自分の心を師としてはならない」とは、六波羅蜜教の文である。
 たとえ、心を煩わせる、どのようなことがあっても、夢と思って、ただ法華経のことだけに専念していきなさい。

解説
 「心こそ大切なれ」(1192ページ)です。
 「心こそ大切に候へ」(1326ページ)です。
 「心」には、生命に無上の尊極性を開く力があります。一方で、無明につき動かされ堕落するのも「心」です。したがって「心」の変革こそが一切の根幹となります。
 その時に、凡夫の揺れ動く自分の「心」を基準にしては、三障四魔の烈風が吹く険しき尾根を登ることはできません。絶対に揺るがない成仏の山頂を見据えて、「心の師」を求め抜くしかありません。それが「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」との一節です。
 「心の師」──断固として揺れ動くことのない不動の根拠とは「法」しかありません。したがって、「法」を悟り弘める仏の説き残した「経典」が大事になります。私たちで言えば、「御本尊根本」「御書根本」の姿勢が「心の師」を求めることになります。
 そして、「法」と私たちを結びつけるのが、仏法実践の「師匠」の存在です。自分中心の慢心ではなく、師弟不二の求道の信心に生き抜くことが「心の師」を求める生き方にほかなりません。
 現代において、「只法華経事のみ」という「心の師」を求める生き方を堅実に歩んできた学会員は皆、見事に勝利の実証を示しています。日本中・世界中に庶民の信心の英雄は数多くおられます。その方たちこそ、「広宣流布の宝」です。また、「人類の宝」です。「法」を根幹として、また「師弟不二」に徹して、自身の宿命を転換し、何ものにも揺るがぬ幸福境涯を確率されています。


 「法」という永遠の存在に軸足にして行けばブレることはありません。
 「どうしたらいいのか?」「なにをすれば良いのか?」。ここで自分の「心」を師にしては無明に入って迷ってしまいます。

本文
 中にも日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし、設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず、(中略)此の御文は別してひやうへの志殿へまいらせ候、又太夫志殿の女房兵衛志殿の女房によくよく申しきかせさせ給うべしきかせさせ給うべし

通解
 なかでも日蓮の法門は、昔には信じることが難しかったが、今は前々から言っておいたことが的中しているので、理由もなく誹謗した人々も、悔いる心が起きているであろう。たとえ、これより後に信仰する男女があっても、あなたがたに替えて思うことはできない。(中略)
 このお手紙は、特に兵衛志殿にあてたものである。また太夫志殿の夫人、兵衛志殿の夫人にも、よくよく言い聞かせてください。言い聞かせてください。

解説
 本抄の結びに、あらあためて「師弟不二」の重要性を教えられています。
 人間の心の動きは千差万別です。なかには、大聖人の予言的中の現証を見て、誹謗していたことを撤回して悔いる心をもつ人もいました。反対に、信心をしていながら迫害を恐れて退転し、あまつさえ、もともと誹謗していた人よりも一層激しく毀謗する心をもつ人も多くいました。
 心浅き人間。退転反逆の輩。臆病な者たち。人間の心は恐ろしいものです。だからこそ、大聖人は、まっすぐに師弟の道を歩み通した池上兄弟と夫人たちに「設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず」とまで仰せくださったと拝されてなりません。
 どんな嵐が吹き荒れても、いささかも微動だにせずに、背信の者たちを悠然と見おろし、ただ広宣の大道を貫いてきた門下たちこそ真の弟子であると、大聖人は最大に賛嘆なされております。「師弟」こそ、人生の無上の価値です。
 戸田先生は、次のように語られたことがあります。
 「一生成仏という大空に悠々と舞い上がっていくには、難という烈風に向かって飛び立たねばならない。難に負けない信心こそが、永遠の幸福の城を築きゆく力なのだ。信心で越えられぬ難など、断じてない」
 この戸田先生の決然たるご確信こそ、学会精神であり、折伏精神であり、魔と戦う攻撃精神です。
 どこまでも大事なのは信心です。
 大聖人は池上兄弟に対して、「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091ページ)と仰せになられました。
 「賢者はよろこび」の信心に立てば、三障四魔の激しき風は、わが生命を覆う宿命の「雲」を吹き払います。澄み切った天空に、大歓喜の虹がかかることは絶対に間違いありません。そこにこそ「正義」と「幸福」と「勝利」の太陽の光が燦然と輝くことを確信して、大難に対して威風堂々と挑んでいくことです。三障四魔を打ち破る弟子の勝利こそ、師匠の祈りであり、喜びなのです。


 世間でも師弟の絆は尊ばれます、まして広布の師弟ならば尚更です。
 この厳粛な師弟は創価学会の中にしかありません。

2009/11/09  初級・3級教学試験 「兄弟抄」(下)その2

 前回の御書講義続き。

本文
 之に随えば将に人をして悪道に向わしむと申すは只三悪道のみならず人天九界を皆悪道とかけり、されば法華経を除きて華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等なり、天台宗を除きて余の七宗の人人は人を悪道に向わしむる獄卒なり、天台宗の人人の中にも法華経を信ずるやうにて人を爾前へやるは悪道に人をつかはす獄卒なり

通解
 「これに随うならば、必ず人を悪道に向かわせる」(摩訶止観)というのは、ただ地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道だけではなく、人界や天界、そして仏界以外の九界をすべて悪道と書いているのである。それゆえ、法華経を除いて華厳経・阿含経・方等経・般若経・涅槃経・大日経などが、これに当たるのである。天台宗を除いて、他の七宗の人々は、人を悪道に向かわせる地獄の鬼である。天台宗の人々のなかでも、法華経を信じているようにみえて、実は人を法華経以前の教えへと向かわせる者は、やはり人を悪道に追いやる地獄の鬼なのである。

解説
 大聖人は再び、「摩訶止観」の「之に随えば将に人をして悪道に向わしむ」の文を引かれます。
 人々を三障四魔によって悪道に堕としていくのは、悪知識である諸宗の悪僧たちです。そうした輩は、三悪道へ、爾前経の九界へと人々を向かわせる「獄卒」にほかならないと喝破されています。
 この建治年間、大聖人はいよいよ、日本中の法華経謗法の根本の因を作った天台座主の慈覚・智証に対して、破折の舌鋒を鋭くされていきます。法華経を守るべき彼らが、自宗に真言を取り入れ、「法華経をころす人」(1081ページ)となってしまった。
 毒気深入の一国謗法と化した時代に、いわば「敵前上陸」して、人々が智者としてよりどころとしている僧を「根源の悪」として責めるのです。「仏と魔王との合戦にも・をとるべからず」(313ページ)との原理のままに、三障四魔が激しく出来するのは必然です。
 その矢面に立つ日蓮大聖人と共に立ち上がっているのが、池上兄弟をはじめとする真正の弟子たちです。大聖人は、「正義」を弘める師弟の「共戦」をあらためて強く呼びかけられていると拝されます。


 弱気になって三障四魔に従ってしまうと、あっと言う間に三悪道に堕ちてしまいます。
 同じ法華経の天台宗でも獄卒になってしまうほど、小さな差ですが、結果は大きな差になるのです。

本文
今二人の人人は隠士と烈士とのごとし一もかけなば成ずべからず(中略)此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ、一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ末代悪世の女人の成仏の手本と成り給うべし、此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも日蓮が二聖二天十羅刹釈迦多宝に申して順次生に仏になしたてまつるべし

通解
 今、あなたがた二人の兄弟は、隠士と烈士のようである。一人でも欠けるならば、仏道を成就することはできない。(中略)
 この法門のためには、たとえ夫から害を受けるようなことがあっても後悔してはならない。御夫人がたが心を合せて夫の信心を諫めるならば、二人は竜女の跡を継ぎ、末法悪世の女性たちの成仏の手本となることであろう。このように振る舞われるならば、たとえどのようなことがあっても、日蓮が、二聖・二天・十羅刹女・釈迦・多宝に申し上げ、次の世には、かならず成仏の境涯を得させるであろう。

解説
 魔性と戦う信心の要諦は、「師弟不二」と「異体同心」です。
 魔は分断を企みます。今回の勘当事件も、父親が兄弟二人を同時に勘当するのであれば、親と子の信仰上の軋轢であり、誤解がとければ解決する問題であると言えます。しかし、兄を勘当して、弟に家督相続を誘惑する。この事件は明らかな離間策であり、まさに第六天の魔性の働き以外なにものでもありません。
 魔を打ち破ることのできるのは、「善の連帯」しかありません。
 さらに大聖人は、兄弟の夫人たちにも、勇気ある信心を貫き通すべきことを御指導されます。
 いざという時、女性の信心がどれほど大切か。深く拝すべき御文です。そのうえで、一家和楽の信心を築くにあたって、焦る必要は全くありません。ただ一人でも妙法を持つことは、家族・一族全員を照らす太陽が昇ったのと同じです。その功徳は、眷属全員に及びます。大切なのは、「全員を幸せにしてみせる」という祈りであり確信です。
 大聖人は、「物に随って物を随える身なり」(1088ページ)、「一同して夫の心をいさめば」と仰せられております。夫人たちが聡明に毅然たる信心を貫けば、魔を必ず破り、家族一同に成仏の大境涯をあらわすことができると励まされているのです。兄弟の父が遂に正法に帰依できた陰には、大聖人の御指導通りに振る舞う夫人たちの賢い支えがあったことも拝察されます。


 団結が大事と判っていても、馬が合わなかったりするでしょう。見栄やプライドが邪魔をするかもしれません。でも信心根本の団結の前には些細な事です。よくよく話し合いましょう。

2009/11/01  初級・3級教学試験 「兄弟抄」(下)その1

 池田名誉会長 御書講義

背景と大意
 本抄で、日蓮大聖人は、池上宗仲・宗長の兄弟に、「難を乗り越える信心」について教えられています。
 池上兄弟は、立宗宣言から3年後の建長8年(1256年)ごろ入信したと伝えられる草創からの門下です。しかし、父・康光は念仏の強信者で、極楽寺良観の信奉者でもあり、兄弟の信心に反対し続けました。
 良観は、幕府権力に取り入って、大聖人に迫害を加えていた黒幕でした。特に大聖人の身延入山後は、迫害の刃を大聖人の門下に向けていきます。
 本抄は、兄弟が入信してはぼ20年となる文永12年(1275年、異説もある)、父 ・ 康光が兄の宗仲を勘当したことを受けて送られた御書です。この勘当の背後にも良観の陰謀があったと考えられます。池上家は幕府の建設・土木関係を担う家柄であり、勘当されれば、こうした地位を引き継ぐ権利が奪われ、生活が根底から脅かされます。
 大聖人は、兄よりも、弟・宗長の信心が動揺することを心配され、さまざまな角度から激励されています。
 まず、難の本質について、第六天の魔王が取りついた悪知識が引き起こしたものであると述べられています。また、難にあうのは、過去世の謗法の重罪の報いを現世に軽く受けて消滅させるためであるという転重軽受の法門を説かれます。さらに、諸天善神が兄弟に試練を与えているのだ、と難の意義を教えられます。
 そして、紛然と競い起こる三障四魔と最後まで戦い抜く信心の大切さを訴えられ、兄弟と夫人たちが、信心の団結で一切を乗り越えていくよう渾身の励ましを送られています。
 こうして弟の宗長も、兄とともに信心を貫くことを決意し、兄弟は数年後、見事、父の入信を勝ち取るのです。(背景と大意は大白2005年2月号のものです)

本文
 されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし(中略)其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。

通解
 さて、天台大師の摩訶止観という書は、天台の生涯における大事であり、釈尊一代の教えの肝要を述べたものである。(中略)摩訶止観の第五巻に説かれる一念三千の法門は、もう一重深く立ち入った法門である。この法門を説く時には、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらないならば、正法であると知ることができない。
 摩訶止観の第五巻には「仏法の修行が進み、その理解が深まれば、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。…だが、この三障四魔に、決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、必ず人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」とある。この摩訶止観の釈は、日蓮の身に当てはまるばかりではなく、わが一門の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたる糧とすべきである。

解説
 大聖人は、大難に直面した池上兄弟に対する「兄弟抄」を結ぶにあたって、三障四魔の出現を説く「摩訶止観」の文を通して、断じて魔に破られてはならないと御指導されています。
 まず、大聖人は、天台大師の「摩訶止観」第五の巻を取り上げられ、「一念三千の法門」こそ仏教の肝心であることを示されます。
 「一念三千」とは、万人成仏を示す法華経の思想の真髄を、観心という生命変革の実践の指標として表現した法理です。
 天台大師は「摩訶止観」第五の巻の「正修止観」の章の冒頭で、いよいよ仏法の極理である一念三千法門を説き明かすにあたって、まず、三障四魔を恐れて退転してはならないとの警鐘を鳴らしています。この点に、大聖人は鋭く注目されます。
 すなわち「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」と仰せのように、正しい仏法の実践には必ず魔が出来する。その確信と覚悟のもとで敢然と魔を打ち破り、生命変革を勝ち取っていかなければならない。その真剣勝負の指標が、ここに説かれているのです。
 まず、「行解既に勤めぬれば」とあります。これは、経典に対する理解が深まり、その理解に基づいての修行が整った時、という意味です。すなわち、いよいよ生命変革のための本格的な修行に入る時だからこそ、三障四魔が競い起こる。
 次に、三障四魔は「紛然として競い起る」とあります。「紛然」とは、入り乱れているさま、ごたごたしているという意味です。まさしく「紛然として競い起る」とは、三障四魔が入り交じって争うように出てくるさまであるといえましょう。三障四魔は、不意を突き、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させる等、紛然たる策動を働かせてくる。
 この三障四魔に立ち向かう信心の要諦を、天台大師は明快に2点、挙げています。それが、「随う可らず」、そして「畏る可らず」です。魔に随えば、その人は悪道に引き落とされてしまう。魔を畏れれば、正法を修行することの妨げとなってしまう。
 結論を言えば、「智慧」と「勇気」が勝利への根幹です。魔に従わず、魔を魔と見破る「智慧」。魔を恐れず、魔に断固立ち向かっていく「勇気」。要するに、南無妙法蓮華経の唱題行が、魔を破る「智慧」と「勇気」の源泉となるのです。妙法の力用が、「無明」を即「法性」へ転じ、「難来るを以って安楽」(750ページ)と言う境涯を開いていくからです。
 三障四魔と戦うことで信心が磨かれるのです。それはあたかも、金山がますます輝き、大海がますます豊かになり、火がますます燃え盛り、求羅がますます大きくなるようなものです。法華経への強盛な信心こそ、変毒為薬の妙用をもたらします。「災い」を変じて「幸い」へと変えるのです。
 「法華経の行者は火と求羅との如し薪と風とは大難の如し」(1136ページ)、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(1448ページ)と仰せです。大難は、法華経の行者の生命を強くします。大難に雄々しく立ち向かってこそ、仏界の生命は、いやまして光り輝いていくのです。
 大聖人は、この「難即成仏」の軌道を示して、池上兄弟に最後まで戦う覚悟を促されていると拝されます。
 ありがたいことに、三障四魔と戦い、勝ち切っていく軌道は、師匠であられる御本仏・日蓮大聖人御自身が歩んでこられた道です。まさに「日蓮が身に当る」実践です。
 そして、師に続いて同じ栄光の大道を歩めと、池上兄弟に呼びかけられているのです。それが「日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり」との仰せです。
 また、池上兄弟が実践し、勝利した姿が、後に続く門下たちの未来永遠の手本となります。ゆえに「謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」と仰せられているのです。


 どんな人でも難のない人生はありません。三障四魔の難を受けきって乗り越えれば、その難は成仏になります。
 だれしも苦難は避けたいものですが避けられません、妙法を根本に勝ち切る要諦がここにあります。

本文
 此の釈に三障と申すは煩悩障業障報障なり、煩悩障と申すは貪瞋癡等によりて障礙出来すべし、業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし、又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し今日本国に我も止観を得たり我も止観を得たりと云う人人誰か三障四魔競へる人あるや

通解
 この釈にある「三障」というのは、煩悩障・業障・報障のことである。煩悩障というのは、貪・瞋・痴などによって妨げが現れるのである。業障というのは、妻子らによって妨げが現れるのである。報障というのは、国主や父母らによって妨げが現れるのである。
 また、「四魔」のなかで天子魔というのも同様である。今の日本国で、「私も止観を体得した」「私も止観を体得した」と言っている人々のなかで、いったいだれに、三障四魔が競い起こっているであろうか。

解説
 続けて大聖人は、池上兄弟のために、三障四魔の具体的な姿を教えておられます。
 そして、現実に三障四魔と戦い続ける大聖人と門下だけが、真の正法実践の継承者であることを明かされます。
 大聖人は本抄において、業障を「妻子による妨げ」、報障を「国主父母による妨げ」というように、具体的に示されています。これは現実に池上兄弟が直面している事態に即して明瞭に言われたものであると拝されます。
 ただし、ここで確認しておかなければならないことは、妻子や国主・父母が信仰の妨害をすることは、あくまで自身の信心を妨げる「悪縁」にすぎません。退転してしまうかどうかは、自分自身の心の問題です。妻子・国主・父母そのものが絶対的な悪の存在だということなどではありません。自身が勝利すれば一切が善知識となります。さらに言えば、自分自身を変革することで、他者の生命を変革していくことも可能になるのです。
 経論によって種々の魔が説かれますが、「大智度論」等では、煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔の四魔が挙げられています。「煩悩魔」とは、煩悩が衆生の心を悩乱し智慧の命を奪うことです。「陰魔」とは、五陰(肉体や心)の不調和から心に懊悩(おうのう)が生じて信心を破壊することで、病魔なども含みます。「死魔」は、修行者自身の生命が奪われることと、修行者の死によって周囲の者が信心に疑いを生ずることです。そして「天子魔」は他化自在天子魔、すなわち第六天の魔王による信心の破壊です。
 ここで、大聖人は四魔のうち天子魔のみを取り上げられています。これは池上兄弟が現実に直面している課題にかかわる点に絞られたゆえであると拝されます。
 ここでは、この三障四魔を起して、打ち破ることができるのは、日蓮大聖人及び大聖人門下しかいないことを強調されていきます。
 創価教育学会の第5回総会(昭和17年11月)で、牧口先生は「兄弟抄」のこの一節を引かれ、このように師子吼されました。
 「従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい」
 「魔が起こらないで、人を指導しているのは『悪道に人をつかはす獄卒』でないか。しからば、魔が起こるか起こらないかで、信者と行者の区別がわかるではないか。
 自分の一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起こらない。これに反して、菩薩行という大善生活をやれば、必ず魔が起こる」
 「我々は、蓮華が泥中よりぬけ出でて清浄の身をたもつがごとく、小善中善の謗法者の中に敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているようなものであれば、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるがゆえに行者といわれるのである」
 一生成仏そして広宣流布という大利益のため、身命を賭して三障四魔との戦いに挑む人こそ、真の「行者」です。そして、わが学会員の皆様こそ、現代における誉れの「行者」なのです。


 我々学会員はむしろ難を競い起して行くのです。大変と思うかもしれませんが、そこが大事なのです。臆病な勇者はいません。人生の勇者になりましょう。

2009/10/24  初級・3級教学試験 「佐渡御書」(上)まとめ

 佐渡御書の御書講義のまとめ。

 佐渡御書は、門下全員に宛てられた御書です。
 貴重な人生で何が大事か?
 正法の為に行動すること。
 その行動は末法には「折伏」しかないこと。
 我々が皆、「師子王」であること。
 弾圧の権力者は「畜生」であること。
 「法根本」の不惜身命にこそ、立ち向かう勇気が出て来ること。
 「師子王の心」の師に続き、弟子の我々が勝つ。
 そうして「佐渡御書」を身読する創価の師弟の常勝が築かれて来たのです。
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