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2011/09/15  青年教学1級 開目抄第47段「不求自得の大利益」

 諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし。

第47段「不求自得の大利益」
 涅槃経に曰く「譬えば貧女の如し居家救護の者有ること無く加うるに復病苦飢渇に逼められて遊行乞丐す、他の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐して去らしむ、其の産して未だ久しからず是の児をケイ抱して他国に至らんと欲し、其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫毒虫のスい食う所となる、恒河に逕由し児を抱いて渡る其の水漂疾なれども而も放ち捨てず是に於て母子遂に共倶に没しぬ、是くの如き女人慈念の功徳命終の後梵天に生ず、文殊師利若し善男子有つて正法を護らんと欲せば彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ、善男子護法の菩薩も亦是くの如くなるべし、寧ろ身命を捨てよ是くの如きの人解脱を求めずと雖も解脱自ら至ること彼の貧女の梵天を求めざれども梵天自ら至るが如し」等云云、此の経文は章安大師・三障をもつて釈し給へり、それをみるべし、貧人とは法財のなきなり女人とは一分の慈ある者なり、客舎とは穢土なり一子とは法華経の信心・了因の子なり舎主駈逐とは流罪せらる其の産して未だ久しからずとはいまだ信じて・ひさしからず、悪風とは流罪の勅宣なり蚊虻等とは諸の無智の人有り悪口罵詈等なり母子共に没すとは終に法華経の信心をやぶらずして頚を刎らるるなり、梵天とは仏界に生るるをいうなり引業と申すは仏界までかはらず、日本・漢土の万国の諸人を殺すとも五逆・謗法なければ無間地獄には堕ちず、余の悪道にして多歳をふべし、色天に生るること万戒を持てども万善を修すれども散善にては生れず、又梵天王となる事・有漏の引業の上に慈悲を加えて生ずべし、今此の貧女が子を念うゆへに梵天に生る常の性相には相違せり、章安の二はあれども詮ずるところは子を念う慈念より外の事なし、念を一境にする、定に似たり専子を思う又慈悲にも・にたり、かるがゆへに他事なけれども天に生るるか、又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ、此の一念三千も我等一分の慧解もなし、而ども一代経経の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり、余経の理は玉に・にたる黄石なり沙をしぼるに油なし石女に子のなきがごとし、諸経は智者・猶仏にならず此の経は愚人も仏因を種べし不求解脱・解脱自至等と云云、我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし。
 涅槃経には次のように説かれている。
 「誓えば、一人の貧しい女性がいる。その人は居るべき家もなく、助けてくれる者もいない。それに加えて病苦や飢え、のどの渇きにせめられながら、さまよい、ものごいをしていた。
 ある時、ゆかりもない宿にとどまって、子どもを産んだが、この宿の主人は、この女性を追い出してしまった。
 出産してまだ日もたっていないこの子を抱いて、他の国に行こうとした。
 ところが、その途中でひどい風雨にあって寒さや苦しみにせめられ、多くの蚊や虻や蜂や刺す虫や毒虫などにくわれた。
 ガンジス川にさしかかって、子を抱いて渡り始めた。その水は急流であったが、子どもを放さなかったため、ついに母子ともに沈んでしまった。
 この女性は、子を慈しみ念った功徳によって、亡くなった後、梵天に生まれた。
 文殊師利よ、もし善男子がいて正法を護ろうとするなら、この貧しい女性がガンジス川で子どもを愛し思うゆえに自らの命を捨てたようにせよ。
 善男子よ、法を護ろうとする菩薩もまた、まさにこの例のようになるであろう。
 むしろ正法を護るためには命を捨てよ。このような人が、悟りの境涯を求めなくても、悟りの境涯が自然と訪れることは、この貧しい女性が梵天に生まれることなどは求めなかったのに、梵天に自然と至ったようなものである」等と。
 この経文については、章安大師が三障に当てはめながら解釈している。それを参照するがよい。
 ここで「貧しい人」というのは、法の宝がないことである。「女人」というのは、一分の慈悲がある人のことである。「宿」というのは、穢土のことである。
 「一人の子」というのは、法華経の信心であり、正了縁の三因仏性のうちの了因仏性という子である。
 「宿の主人が追い出す」というのは、流罪にされることである。
 「子どもを産んで日がたっていない」というのは、まだ信じて日が浅いことである。
 「悪風」というのは、流罪の命令である。「蚊・虻」等というのは「もろもろの無智の人が悪口をいい、ののしる」等のことである。
 「母子もろとも沈んだ」というのは、最後まで法華経の信心を破ることなくして、首をはねられることである。
 「梵天に生ずる」というのは、仏界に生まれることをいうのである。
 次の生の境涯を決める引業というのは、(六道や九界だけでなく)仏界にも当てはまる。
 日本・中国の万国の人々を殺したとしても、五逆罪や謗法がなければ、無間地獄には堕ちない。それ以外の悪道で、多くの歳月を過ごすのである。
 色界の天に生まれることだが、多くの戒を持ち、多くの善業を修めても、散乱した心で行えば、生まれることはできない。また、梵天の王となることは、煩悩のなごりが残っている有漏の禅定の修行を引業として、これに慈悲の行を加えて生まれることができる。
 今、この貧しい女性が子を思う慈悲の心のゆえに梵天に生まれたのは、通常の因果の様相とは違っている。
 それについては、章安大師が二つの理由をあげて解釈しているが、結局は、子を思う慈悲心よりほかに梵天に生じた因はない。
 思いを一つの対象に定めているのは、禅定と同じである。もっぱら子どものことを思うのは、また慈悲に似ている。このような理由で、他に何の善根もないけれども天に生まれたと言えよう。
 また仏に成る道について、華厳宗は唯心法界、三論宗は八不中道、法相宗は唯識、真言宗は五輪観などを立てているが、これらは実際にはかなうとは思えない。
 ただ天台宗の一念三千こそ、仏に成ることができる道であると思われる。
 この一念三千についても、私たちには智慧による理解が一分もない。しかし、釈尊一代の諸経の中で、この法華経だけが一念三千の宝珠をいだいている。
 他の経の法理は、宝玉に似ているがただの黄色い石である。
 涅槃経に「砂をしぼっても油は出ない」「石女に子どもはいない」とあるようなものである。
 諸経は智者ですら仏に成らない。この経は愚かな人でも仏と成る因をうえることができる。
 「解脱(苦しみからの根源的解放)を求めなくても、解脱が自然に訪れる」等とあるのは、このことである。
 私ならびに私の弟子は、諸難があっても、疑う心がなければ、自然に仏界に至ることができる。
 諸天の加護がないからといって、疑ってはいけない。現世が安穏でないことを、嘆いてはいけない。
 私の弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、疑いを起こして皆、信心を捨ててしまったようである。
 つたない者の習性として、約束したことをいざという時には忘れてしまうものである。
 妻子をふびんと思うため、この現世の別れを嘆くのであろう。
 しかし、これまでのきわめて多くの生死流転の中で、なれ親しんだ妻子には、自分から願って離れたであろうか。それとも仏道を成就するために離れたであろうか。いずれにしても必ず別れが待っているのである。
 まず、自分が法華経の信心を破らずに成仏して、霊山浄土へ赴き、そのうえで妻子を導くがよい。

 涅槃経に説かれる「貧女のたとえ」を通して、どれほどの苦難があっても、信心を貫いていけば、自ら求めてもいないのに、想像以上の境涯──すなわち仏界を得ることができることを述べている。

2011/09/14  青年教学1級 開目抄第46段「転重軽受を明かす」

 転重軽受とはなにか?

第46段「転重軽受を明かす」
 疑つて云くいかにとして汝が流罪・死罪等を過去の宿習としらむ、答えて云く銅鏡は色形を顕わす秦王・験偽の鏡は現在の罪を顕わす仏法の鏡は過去の業因を現ず、般泥オン経に云く「善男子過去に曾て無量の諸罪種種の悪業を作るに是の諸の罪報は或は軽易せられ・或は形状醜陋・衣服足らず・飲食ソ疎・財を求むるに利あらず・貧賎の家邪見の家に生れ・或は王難に遭い・及び余の種種の人間の苦報あらん現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由るが故なり」云云、此の経文・日蓮が身に宛も符契のごとし狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし一一の句を我が身にあわせん、或被軽易等云云、法華経に云く「軽賎憎嫉」等云云・二十余年が間の軽慢せらる、或は形状醜陋・又云く衣服不足は予が身なり飲食ソ疎は予が身なり求財不利は予が身なり生貧賎家は予が身なり、或遭王難等・此の経文疑うべしや、法華経に云く「数数擯出せられん」此の経文に云く「種種」等云云、斯由護法功徳力故等とは摩訶止観の第五に云く「散善微弱なるは動せしむること能わず今止観を修して健病虧ざれば生死の輪を動ず」等云云、又云く「三障四魔紛然として競い起る」等云云我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頚を刎こと其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木をもつて急流をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ。
 疑って言うには、どうしてあなたの流罪や死罪などが、過去世からの宿業によると分かるのか、と。
 答えて言うには、銅の鏡は、姿や形をはっきりと映し出す。
 中国・秦の始皇帝の用いたという験偽の鏡は、今世の罪を映し出したという。
 仏法の鏡は、過去世の業因を映し出す。
 般泥オン経には、「善男子よ。過去世に数え切れないほどの諸罪、種々の悪業を作った場合、この諸々の罪の報いとして、人に軽んじられ、あるいは姿や顔かたちが醜く、衣服が不足したり、飲食物が粗末で不自由したり、財宝をいくら求めても利益がなく、貧しく賎しい身分の家や邪教を信じる家に生まれたり、あるいは権力者による難にあったり、その他の種々の人間としての苦しみの報いを受けるであろう。これらの報いを現世で軽く受けるのは、仏法を護る功徳の力による故である」と説かれている。
 この経文は、日蓮の身にあたかも割り符を合わすように一致している。これによって、なぜ難にあうのかという疑いがとけた。千万の疑難も、もはや、何でもないことである。一々の句を我が身に引き合わせてみよう。
 「あるいは人に軽んじられ」等、また、法華経譬喩品にも「軽んじられ、賎しまれ、憎まれ、ねたまれる」等と説かれているように、私は20年余りの間、軽んじられ、あなどられてきた。
 「あるいは姿や顔かたちが醜い」、また「衣服が不足する」というのは、私の身の上である。
 「飲食物が粗末で不自由する」とは、私の身の上である。
 「財宝をいくら求めても利益がない」というのは、私の身の上である。
 「貧しく、賎しい家に生まれる」というのは、私の身の上である。
 「あるいは国主による難にあう」等というのも、今まさにその通りで、この経文を疑うことができようか。
 法華経勧持品には、「しばしば所を追われるだろう」とあり、般泥オン経には「そのほか種々の苦の報いを受ける」等と説かれている。
 「これは仏法を護る功徳の力によるのである」とあるのは、『摩訶止観』第5巻に「散乱した心で行う微弱な善の修行では、宿業を揺り動かすことはできないが、今、止観を修行すれば、健康と病の状態の両方の状態を欠けずに観察し把握するので、生死を繰り返す輪廻の輪が動くのである」と。
 また、『摩訶止観』に「(修行に励み仏法を理解しようと努力を重ねたなら)三障四魔が紛然と競い起こる」と説かれている。
 私は無始の昔から今に至るまで、悪王と生まれて、法華経の行者の衣服や食べ物、田畑などを奪い取ってきたことは数知れない。それは、今の世の日本国の諸々の人が、法華経の寺々を破壊しているのと同じである。また、法華経の行者の首をはねたことは、数知れないほどである。
 これらの重罪の中には、すでに報いを受けて終わったものもあれば、まだ終わっていないものもあるだろう。
 一応、報いは受けたけれども、その残滓がまだ尽きていないものもある。
 生死の迷苦を離れて成仏する時には、必ずこの重罪を消し切って、苦しみの境涯から離れていくのである。
 これまで積んできた功徳は浅く軽い。これらの罪は深く重い。権経を修行していた時には、この重罪の報いは起こってこなかった。
 たとえば、鉄を焼く時、強く鍛えないと、その中の傷は隠れたままで見えない。たびたび強く責めて鍛えると、傷が現れてくるようなものである。
 また、麻の種子をしぼる時、強く責めてしぼらないと、取れる油が少ないようなものである。
 今、日蓮は、強盛に日本国中の謗法を責めたので、この大難が起こってきたのであり、これは過去世につくった重罪が、今世の護法の実践で招きだされてきたものであろう。
 鉄は火にあわなければ黒いままである。火とあえば赤くなる。木をもって急流をかけば、波が山のようにおこる。眠っている獅子に手をつければ、大いに吠える。これらと同じ原理なのである。

 法華経弘通のゆえに難にあえば、自分自身の無始以来の罪障を消滅することができる。
 受けなければならない『重い』宿業を『軽く』受けることができる。
 それが『転重軽受』。

2011/09/12  青年教学1級 開目抄第45段「法華経の行者を顕す文を結す」

 諸天の加護なんていらない!3つの誓い。

第45段「法華経の行者を顕す文を結す」
 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。
 結局のところは、天も私を捨てるがよい。いかなる難にもあおう。身命をなげうつ覚悟である。
 舎利弗が過去世に60劫という長い間、修行してきた菩薩行を途中で退転したのは、舎利弗の眼を求めた婆羅門の責め苦に堪えられなかったからである。
 久遠五百塵点劫、および三千塵点劫の昔に、法華経の下種を受けながら、退転して悪道に堕ち、五百塵点劫や三千塵点劫を経たのは悪知識にあって惑されたからである。
 善につけ悪につけ、法華経を捨てることは地獄に堕ちる業となる。
 「私は、大願を立てよう。たとえ、『日本国の王の位を譲るから、法華経を捨てて観無量寿経等に付き従って、後生の浄土への往生を目指せ』と誘惑されたり、『念仏を称えなければ父母の首をはねる』と脅されるなどの種々の大難が出てきても、私の正義が智者に破られることがない限り、彼らの要求を決して受け入れることはない。
 それ以外の大難は、私にとっては風の前の塵のような、とるに足りないものである。
 私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」等と誓った大願は、決して破ることはない。

 この段は、殆どが重文ですので、暗記しましょう。
 諸天の加護は大聖人にとって、重要ではないのです。
 退転することの恐ろしさを仰せになっている。
 「王位を譲ろう」との誘惑や「父母の首を刎ねる」との脅迫にも従わない不退転の覚悟を述べられる。

 また、「我日本の柱とならむ」「我日本の眼目とならむ」「我日本の大船とならむ」の3つの誓願をどんな事があっても破ることはないと仰せになっている。

 「柱」は主徳、「眼目」は師徳、「大船」は親徳に当たる。
 この一切衆生救済の大願の主師親の三徳は、法華経の行者であることの根本条件です。

2011/09/12  青年教学1級 開目抄第44段「行者値難の故を明かす」

 法華経の行者が難にあう3つの訳。

第44段「行者値難の故を明かす」
 有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり、此の経に云く「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わざらん」又云く「若し人悪罵すれば口則閉塞す」等、又云く「現世には安穏にして後・善処に生れん」等云云、又「頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝の如くならん」又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等又云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん」等云云、答えて云く汝が疑い大に吉しついでに不審を晴さん、不軽品に云く「悪口罵詈」等、又云く「或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、涅槃経に云く「若しは殺若しは害」等云云、法華経に云く「而かも此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し」等云云、仏は小指を提婆にやぶられ九横の大難に値い給う此は法華経の行者にあらずや、不軽菩薩は一乗の行者といはれまじきか、目連は竹杖に殺さる法華経記ベツの後なり、付法蔵の第十四の提婆菩薩・第二十五の師子尊者の二人は人に殺されぬ、此等は法華経の行者にはあらざるか、竺の道生は蘇山に流されぬ法道は火印を面にやいて江南にうつさる・此等は一乗の持者にあらざるか、外典の者なりしかども白居易北野の天神は遠流せらる賢人にあらざるか、事の心を案ずるに前生に法華経・誹謗の罪なきもの今生に法華経を行ずこれを世間の失によせ或は罪なきをあだすれば忽に現罰あるか・修羅が帝釈をいる金翅鳥の阿耨池に入る等必ず返つて一時に損するがごとし、天台云く「今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り」等云云、心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云、不軽品に云く「其の罪畢已」等云云、不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり、又順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり、涅槃経に云く「迦葉菩薩仏に白して言く世尊・仏の所説の如く大涅槃の光一切衆生の毛孔に入る」等云云、又云く「迦葉菩薩仏に白して言く世尊云何んぞ未だ菩提の心を発さざる者・菩提の因を得ん」等云云、仏・此の問を答えて云く「仏迦葉に告わく若し是の大涅槃経を聞くこと有つて我菩提心を発すことを用いずと言つて正法を誹謗せん、是の人即時に夜夢の中に羅刹の像を見て心中怖畏す羅刹語つて言く咄し善男子汝今若し菩提心を発さずんば当に汝が命を断つべし是の人惶怖し寤め已つて即ち菩提の心を発す当に是の人是れ大菩薩なりと知るべし」等云云、いたうの大悪人ならざる者が正法を誹謗すれば即時に夢みて・ひるがへる心生ず、又云く「枯木・石山」等、又云く「ショウ種甘雨に遇うと雖も」等・又「明珠淤泥」等、又云く「人の手に創あるに毒薬を捉るが如し」等、又云く「大雨空に住せず」等云云、此等多くの譬あり、詮ずるところ上品の一闡提人になりぬれば順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし例せば夏の桀・殷の紂の世には天変なし重科有て必ず世ほろぶべきゆへか、又守護神此国をすつるゆへに現罰なきか謗法の世をば守護神すて去り諸天まほるべからずかるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし還つて大難に値うべし金光明経に云く「善業を修する者は日日に衰減す」等云云、悪国・悪時これなり具さには立正安国論にかんがへたるがごとし。
 ある人が次のように言っていた。今の世に三類の強敵は、ほぼ現れたといってよい。しかし、法華経の行者はいない。あなたを法華経の行者といおうとすれば、法華経の経文と大きな違いがある。
 この経には次のようにある。
 まず「天の諸の童子がきて、法華経の行者に仕えるであろう。(このため)行者に害を加えようとしても、刀や杖も役に立たず、毒も害することができないであろう」(安楽行品)とある。
 また「もし人が法華経の行者を口悪くののしれば、口は閉じふさがってしまうであろう」(同品)とある。
 また「法華経を持つ人は、現世は安穏であり、後生は善いところに生まれるであろう」(薬草喩品)とある。
 また「(法華経を持つ人を悩ます者は)頭が七つに破れて阿梨樹の枝のようになるであろう」(陀羅尼品)とある。
 また「また(法華経を持つ者は)現世において、その福徳の果報を得るであろう」(普賢品)とある。
 また「もしまた法華経を受持する者を見て、その人の過ちや悪を取り出して指摘するならば、たとえそれが事実であっても、または事実でなくとも、この人は現世において重病に苦しむであろう」(同品)とある。
 答えていうには、あなたの疑いは大変にもっともである。この機会に不審を晴らそう。
 不軽品には「(法華経の行者は)悪口され、ののしられる」等とある。
 また同品には「あるいは杖や棒で打たれたり、瓦や石を投げつけられたりする」とある。
 涅槃経には「殺されたり、害されたりする」とある。
 法華経には、「しかも法華経を弘通する者には、釈尊の在世ですら怨みやねたみを抱くものが多い」(法師品)とある。
 釈尊は提婆達多から命をねらわれて、足の小指を傷つけられるなど、九つの大難にあわれた。これは仏が法華経の行者でないということなのだろうか。
 不軽菩薩は、一乗(法華経)の行者といえないということだろうか。
 目連尊者は、竹杖外道に殺された。これは法華経で成仏の記別を受けた後である。
 付法蔵の第14の提婆菩薩と第25の師子尊者の2人は、ともに人に殺された。これらは法華経の行者ではないのだろうか。
 中国でも、竺の道生は、蘇山に流された。法道は火印を顔に押されて江南に流罪された。これらは、一乗の教えを持った人ではなかったか。
 外典の人であるが、白居易や、北野天神として祭られている菅原道真は、遠方へ流罪された。これらの人は賢人ではないということか。
 矛盾するように見えるこれらのことの意味を考えると、まず、前世に法華経誹謗の罪がない者が今世で法華経を行じている場合、これを世間の上のあやまちにこと寄せたり、あるいは罪もないのに迫害すれば、たちまちに現罰があるであろう。
 これは、阿修羅が帝釈に矢を射たり、金翅鳥が竜を食べようとして阿耨池に入ったのが、必ずたちまちにその報いを受けてその身を損なったようなものである。
 天台大師は「今の自身の病苦は皆、過去世(の業)による。今生に行っている福徳を得るための修行は、未来世に報いがある」(『法華玄義』)と 述べている。
 心地観経には「過去世に作った因を知りたいと思うなら、その現在における結果を見よ。未来世の結果を知ろうと思うなら、その現在の因を見よ」とある。
 不軽品には、「その罪が終えおわって」とある。不軽菩薩は、過去世に法華経をそしった罪があるので、瓦礫を投げつけられるなどの難を受けたという意味である。
 また、次の生で必ず地獄に堕ちると決まっている者は、重罪をつくっていても現罰を受けない。一闡提の人がこれである。
 (必ずしも地獄に堕ちると決まっていない人については)涅槃経には、次のような問答がある。「迦葉菩薩が仏に申しあげていうには、世尊よ、仏が説かれているように、大涅槃の光は一切衆生の毛孔に入るだろう、と」。また、さらに「迦葉菩薩が仏に申しあげて言うには、世尊よ、どうしていまだ菩提を求める心を起こしていない者が、菩提の因を得ることができるのでしょうか、と」等と。
 仏がこの問いに答えていうには「仏が迦葉に告げていわれる、もし(ある人が)この大涅槃経を聞きながら、私は菩提を求める心を起こさないしといって、正法を誹謗したとする。この人は、ただちにその夜、夢の中で羅刹の姿を見て、心中におそれの気持ちを起こした。羅刹が語っていうには、つたないかな、善男子よ、お前が今、もし菩提心をおこさなければ、お前の命を断つであろう、と。この人は、おじ恐れて、目覚めてからただちに菩提心をおこした。まさにこの人は大菩薩であると知りなさい」等とある。
 このように、はなはだしい大悪人でない者は、正法を誹謗すれば、即座に夢をみて反省する心が生まれると述べているのである。
 (これに対し一闡提については)「枯れ木には花が咲かず、石の山にも草木ははえない」、また「炒った種は甘雨(恵みの雨)にあっても芽を出さない」、また「清水に変える力のある珠を入れても泥のままである」、また「人の手に傷があるのに毒薬を手にするようなものだ」、また「大雨は空にとどまらない」──。
 これら多くの譬喩をもって示されるように、結局、はなはだしい一闡提人になってしまった場合は、次の生で必ず無間地獄に堕ちることになっているので、今世での現罰はない。
 これは例えば、中国・夏の桀王、段の紂王の世には、天変地異はなかった。重い罪のため、必ずその王朝が滅びることが定まっていたためであろう。
 また、守護の諸天善神がこの国を捨ててしまっているゆえに、現罰がないのか。
 謗法の世は守護の善神も捨てさり、諸天が守ることはない。このため、正法を行じる者に対し、諸天が守護の働きを顕さず、かえって、正法の行者は大難にあうのである。
 金光明経には「善業を修める人は日々に減少する」とある。これが悪国・悪時のさまである。
 具体的には、立正安国論で考察した通りである。

 法華経の行者を諸天が守護するはずだから、日蓮を法華経の行者と言うことはできないという疑いを晴らしてあげよう。
 そもそも不軽品などには、法華経の行者が迫害されることが明確に書いてある。
 それに、釈尊だって、目連だって、その後の法華経の後継者だって、迫害されたり、殺されたりした。
 彼らが法華経の行者ではないとでも言うのか。

 <法華経の行者を迫害しても現罰がない理由>

 1.謗法の罪をもっている行者を迫害した場合(自分に原因がある)
 つまり、何の罪もない人を迫害すれば、現罰は出るけど、謗法の罪を持っている人は、 その人自身が迫害される理由を持っているから、迫害を加える人には現罰が出ない。

 2.誹謗した人が地獄に堕ちることが決まっている場合(相手に原因がある)
 すごい悪人でなければ、それ以上やると本当に地獄に行っちゃうよ、との瞥告の意味で現罰が出る。
 しかし、もう完全に地獄行きが決まっている人は、今さら警告を与えてもしょうがないので、現罰が出ない。

 3.国全体が謗法で、諸天善神が去ってしまった場合(環境に原因がある)
 一国が謗法と化したときは、諸天善神がこの国を捨て去ってしまっている。
 そのため、法華経の行者への加護がなく、誹謗者への現罰も出ない。

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