依正不二や色心不二、師弟不二の「而二」「而二不二」について、仏教哲学大辞典を引いてみる。
にに 【而二】
而(しか)も二にしての意。而二不二のことで、もともと一つであるが、また二でもあることをいう。たとえば生命の本質は、色(肉体)と心(精神)とに分けられるべきものではなく、色と心を具えた一体のものであるが、また色と心であることも真実である。この場合、色と心を而二といい、不二を生命というのである。木絵二像開眼之事(四六九㌻)には「人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども入をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされぱ意(こころ)が声とあらはる意は心法・声は色法・心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり」とある。
ににふに 【而二不二】
「而も二にして二ならず」とよむ。一往は二つのものであるが、再往これをみれぱ、別のものではなく一体であること。
1.法華経において事と理の差別を認め、しかもその本体は不可分で一体であることをいう。十八円満抄(一二六二㌻)に「事理円満とは一法の当体而二不二にして闕減(けつげん)無く具足するが故に……」とある。
2.一念三千の三干は而二、一念は不二である。
3.色心不二の生命論において、色心は而二であり、一極は不二である。御義口伝(七〇八㌻)に「色心不二なるを一極と云うなり」とある。
4.本迹において、迹門は而二、本門は不二である。御義口伝上(七八二㌻)に「迹門は空を面と為す故に不二の上の而二なり……本門は而二の上の不二なり而二不二・常同常別・古今法爾の釈之を思う可し」とある。内外にもこの原理はあてはまる。
5.権実において、開権顕実の妙法の義により権実二法は不二となる。すなわち九界を権とし、仏界を実として、九界即仏界を論ずるので権実不二である。
6.因果倶時において、因果は而二、倶時は不二である。当体義抄(五一三㌻)に「因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」とある。
7.自他において、自とは仏界、他とは九界の衆生である。仏界と九界の衆生は二にして、しかも不二である。御義口伝下(七六九㌻)に「仍て法界が法界を礼拝するなり自他不二の礼拝なり」とある。
8.染浄の二法において、染浄は而二、法性真如は一理であるので不二である。当体義抄(五一〇㌻)に「法性の妙理に染浄の二法あり染法は薫じて迷と成り浄法は薫じて悟となる悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も法性真如の一理なり」とある。
9.依正不二において、依正は而二であり、依正の二法というけれども不二であるので而二不二という。瑞相御書(一一四〇㌻)に「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもって此れをつくる」とある。
10.境智冥合において、境智は而二であり、冥合は不二である。四条金吾殿御返事(一一一七㌻)に「是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にして、しかも境智不二の内証なり」とある。受潤不二門について、能受の行人と能潤の教益と、たがいに融合混合するので而二不二という。
11.修性不二について、修得と性得が一体であるゆえに不二という。御義口伝上(七四七㌻)に「竜女が手に持てる時は性得の宝珠なり仏受け取り給う時は修得の宝珠なり、中に有るは修性不二なり」とある。
12.三業不二について、身口意の三業をはなれず仏道を行じて仏に加るので而二不二である。四条金吾殿御返事(一一八一㌻)に「或は身はをちねども心をち或は心は・をちねども身はをちぬ」とある。
13.人法一箇。日蓮大聖人の仏法においては、人法は而二であり、一箇は不二である。文底秘沈抄(富要三巻八五㌻)に「人法名殊なれども大理別ならず人即法の故に」とある。
うーん、難しいな。(^^)
「不二の上の而二なり」「而二の上の不二なり」…理解出来ない…。(°.°;
「不二」に差別があっても、不可分の一体とするのは理解出来るけど、その差別は優劣・勝劣かは判らない。
もう少し研鑽を続けるか…。