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2009/10/11  初級・3級教学試験 「乙御前御消息」

 座談会御書拝読

背景と大意
 本抄は、建治元年(1275年)8月、日蓮大聖人が、身延で認められたお手紙です。あて名は「乙御前」ですが、内容的には、乙御前の母(日妙聖人)に送られたものです。乙御前の母は、鎌倉に住んでいた女性信徒で、夫と離別した後、幼い娘を女手一つで育てながら、純粋な僧心を貫き通しました。
 大聖入は、文永8年(1271年)9月、竜の口の法難に遭われ、その後2年半もの間、佐渡に流罪されました。鎌倉にいた弟子たちも厳しい弾圧にさらされました。多くの人々が退転・反逆していくなかで、乙御前の母の、師匠を求める一念は、いよいよ強まり、女性の身でありながら、鎌倉から佐渡の大聖人のもとを訪れました。大聖人は、こうした信心を讃え、「日妙聖人」という最高の名前を贈られています。
 本抄御執筆の前年には、他国侵逼難の予言が的中し、蒙古が襲来します。世間が騒然とするなか、乙御前の母は、身延に入られた大聖人のもとを訪れています。その乙御前の母に、たとえ頼るべき夫はいなくとも、強き信心を持てば、一切の苦難を勝ち越えていけるのだと励まされたのが、本抄です。
 まず、法華経と他の一切経、法華経の行者と他宗の僧らの間には、厳然たる勝劣があるにもかかわらず、国中の人々が傲り高ぶって、法華経の行者である大聖人を迫害したが故に、諸天善神の怒りを買って蒙古の襲来を招き、今では皆が臆病になってしまったと仰せになります。
 さらに、頼るべき夫もいないのに、世間の荒波にも負けず、気丈に信心に励む乙御前の母に、諸天善神の絶対の守護を約束され、その上で、今一重の強盛な信心に立つよう励まされて、同じ法華経でも志を重ねれば功徳は勝っていくのだと教えられます。
 また、命を捨てて法を弘める大聖人とその弟子たちは、未来に必ず賞讃される存在となっていくに違いないと確信を述べられます。

本文
 されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ、是は御ために申すぞ古への御心ざし申す計りなし其よりも今一重強盛に御志あるべし

通解
 (諸天善神が善人を守護することは間違いないことから)それゆえに妙楽大師は「必ず心の固きによって神の守り、すなわち強し」と言われています。人の心が堅固であるならば、神の守りが必ず強いということです。
 このように言うのは、あなたのために言うのです。これまでのあなたの信心の深さについては、申し上げるまでもありません。これまでよりもなお一層、強盛に信心に励んでいきなさい。

解説
 御文が短いので絶対に暗記しましょう。

 乙御前の母(日妙聖人)は、苦難の人生を一生懸命に信心に励み抜かれた方です。
 女手ひとつで娘の乙御前を育てます。流罪中の佐渡にまで日蓮大聖人に会いに行かれる程の強信者です。

 「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」の「心の固き」とは信心の強さです。揺るぎのない信心は諸天善神の守護が強いのです。「信心をしていれば何とかなるだろう」と言う弱く受け身の心では諸天の守護が弱いのも道理です。
 信心をしているからこそ、勇気を奮い起こし、智慧を絞り出して、苦難に立ち向かう、その一念が強い諸天善神の守護が発揮されて行くのです。

 「是は御ために申すぞ古への御心ざし申す計りなし」と日妙聖人を賞賛されます。普通であればここで文は終りかもしれませんが、日蓮大聖人はその後に、「今一重強盛に御志あるべし」と仰せになります。
 これは、「今まで通り」の信心では惰性であり後退になるからです。
 より一層励むように「今一重」と強く念を押されます。
 この一念が持つ偉大な力を大聖人は過酷な弾圧との闘争に勝利する事で自ら証明を致しました。

 「まぁ、いいか。」「こんなもんで」「周りはこれぐらいだ」等の惰性と妥協では、自身の宿命転換は出来ません。
 大事なのは前進への執念、一歩でも二歩でも前へ前へと執念を持ち続ける事です。
 広宣流布の闘争においても不可能を可能にする自身の挑戦と勝利を、信心の固きを発揮して証明して行きましょう。

2009/10/11  初級・3級教学試験 「報恩抄」その3

 前回からのつづき

本文
 此の功徳は伝教天台にも超へ竜樹迦葉にもすぐれたり、極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏はあたたかに冬はつめたし時のしからしむるに有らずや。

通解
 この功徳は伝教や天台にも超過し、竜樹や迦葉よりもすぐれている。
 極楽百年の修行の功徳は、穢土の一日の修行の功徳に及ばない。正法・像法二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るであろう。
 これは、ひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではなく、時がそうさせるのである。春は花が咲き、秋は果実がなる。夏は暖かく、冬は冷たい。これらも時がそうさせることではないか。

解説
 末法弘教の功徳を説かれ、時に適った大法である事が示されています。

 「此の功徳は伝教天台にも~末法の一時に劣るか」まで
 三大秘法の南無妙法蓮華経の功徳が、正像二千年の正師たちによる仏法弘通の功徳を越えている事が明かされています。
 ここでは、伝教・天台・竜樹・迦葉の名前が挙げられています。
 これら正師たちよりも、末法の民衆を救う大法を弘通する功徳が、どれほど偉大であるかを示されています。
 「極楽百年の修行」云々は当時の念仏宗が教えるように、いくら極楽浄土で修行しても成仏の功徳は得られません。
 今の娑婆世界で、自分自身が法華経を修行してこそ、確かな生命変革の功徳があるのです。
 私たちが実践する妙法は、現実の苦悩の世界に生きる末法の凡夫自身に、仏と等しい尊極の生命を涌現させる生命変革の大法です。
 どこか別の場所に行って仏道修行するのではなく、この現実社会の中で、自行化他の実践を貫くことで自身の生命を練磨し、成仏の境涯を確立していく教えです。
 社会の先輩を見ても、立派な人は世間の荒波に揉まれ成長する人が殆どです。
 生温い環境では、逞しくならないのは道理ですね。
 この厳しい娑婆世界の「穢土」で弘通する功徳は正像二千年間の弘通の功徳よりも、はるかに大きいのです。

 「是れひとへに日蓮が~しからしむるに有らずや」まで
 ここで、改めて南無妙法蓮華経が末法の時に適った大法であることを示されています。
 大聖人は「智慧がすぐれているからではない」と御謙遜されていますが、末法の人々の生命に直接に仏種を下す南無妙法蓮華経をあらわし広められた慈悲は智慧以上です。
 春に花が咲き、秋に果実がなる。自然の摂理に逆らっては農作物も人も暮せません。
 それ程に「時」は逆行しません。
 同様に仏法においても「正法」「像法」「末法」という「時」が説かれています。
 仏滅後の千年間を「正法」、その後の千年間を「像法」を言います。仏滅後二千年以降を「末法」と言います。
 これらの時に逆らって法を広めようとしても、民衆は救えません。かえって無慈悲になってしまいます。
 日蓮大聖人は「末法」には南無妙法蓮華経が、広宣流布する「時」だと宣言しています。
 「時のしからしむるに有らずや」とは、末法広宣流布の流れは誰人にも止められないとの、大聖人の大確信が示されていると拝されます。

 「時」を読む事は「空気」を読むより難しい事です。
 「今がそうだ」との確信を得て、行動に移す事は実生活でも難しい。
 これは日々の修行によって、少しは読めるようになる。
 悩んでる人の信号をキャッチできたり、気付き難い変化に気付けたりする。
 今が「時」と、気付けたら、後は行動あるのみ、ここで無明に捕まると行動に移せなくなります。

2009/10/11  初級・3級教学試験 「報恩抄」その2

 前回からのつづき。

本文
 例せば風に随つて波の大小あり薪によつて火の高下あり池に随つて蓮の大小あり雨の大小は竜による根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながしというこれなり、周の代の七百年は文王の礼孝による秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり、日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、

通解
 例えば、風の強さにしたがって波の大小がある。薪の量によって炎の高下がある。池の深さにしたがって蓮の大小がある。雨の大小は竜の大きさによる。「根が深ければ枝が茂る。源が遠ければその流れが長い」といわれるのは、このことである。
 中国の周の時代が七百年続いたのは、文王の礼孝が厚かったためである。秦の世がたちまち滅びたのは、始皇帝の行いが非道だったためである。日蓮の慈悲が広大であるならば、南無妙法蓮華経は万年の先の未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄への道をふさいだのである。

解説
 大聖人の死身弘法によって、南無妙法蓮華経が長く流布する事は間違いないことを示されています。

 「例せば風に随つて~始皇の左道によるなり」まで
 ここで挙げられている譬えは、いずれも、何事にも根本・源流の確かさ、深さ・正しさによって、その結果の成否も決まっていく事を示したものです。
 中国の周は建国の文王が礼孝を重んじた為に王朝が七百年と長く栄えましました。
 一方、秦の始皇帝は圧政と万里の長城や運河の建設の重科を加し国民を疲弊させて、たった15年で亡んでしまった。
 この様に国や時代が長く続く繁栄するには、草創の指導者の振る舞いや思想によって決まるという考え方が示されています。
 仏法は生命の根源の法です。また、人間の苦悩を解決する根本の思想です。この仏法を正しく実践する不惜身命の人々がいれば、長く広く人々を潤していけるのです。

 「日蓮が慈悲曠大ならば~無間地獄の道をふさぎぬ」まで
 日蓮大聖人の広大なる大慈悲ゆえに、末法万年にわたる南無妙法蓮華経の流通は間違いないとの御確信を示されています。
 日蓮大聖人は「主師親」の三徳を備えた御本仏です。
 「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師親)父母なり」(開目抄P237)と仰せです。
 本文の「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」は、「親の徳」にあたります。
 「日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」は「師の徳」にあたります。
 「無間地獄の道をふさぎぬ」は「主の徳」にあたります。
 ここでの「盲目」とは、生命の根源的な迷いである「無明」によって「法性」の生命が開かれていない事を言います。
 「無明」とは、仕事や生活で「こうだ、こうしよう」と決めた事でも、出て来る迷いの事です。
 例えば「今日の夜の勤行を30分しよう」とか決意しても、勤行中に「あ、する事があった、15分で切り上げようかな?」とか。
 「明日、憧れの女性に告白しよう」と決意して、翌朝「やっぱり、今日は雨だから、明日にしよう」とか一度決意した事を覆す生命です。(笑)
 中々、迷いが抜け切らないのが人生ですが、信心では、よりもっとダイレクトに迷いが出て来ます。
 この迷いは自分だけでなく他人にも「第六天の魔王」として出て来ます。
 この迷いは無間地獄の入り口ですが、有り難い事に日蓮大聖人が道を塞いで戴いたので退転しなければ大丈夫です。

2009/10/10  初級・3級教学試験 「報恩抄」その1

 まずは御書講義から。
背景と大意
 「報恩抄」は、日蓮大聖人が、道善房死去の知らせを受け、建治2年(1276年)7月、身延で著され、安房国(千葉県南部)の門下である浄顕房と義浄房(義城房)に送られた御書です。道善房は、大聖人が安房国の清澄寺で仏教を学んだ若き日に、師匠となった人物でした。大聖人は、この師匠の恩に報いるために、清澄寺時代に兄弟子であった浄顕房と義浄房に本抄を託され、道善房の墓前と嵩が森と呼ばれる場所で読むよう指示されたのです。
 本抄で大聖人は、人間としての根本の道は、「報恩」すなわち「恩に報いること」であると教えられています。では、どうすれば、本当の意味で「恩に報いること」ができるのでしょう。大聖人は、それには、真実の仏教によって恩ある人を救っていく以外にないと仰せになります。
 釈尊が説いた一切経の中で、最高の真実を伝える経典は、法華経です。ところが、仏教史において、諸宗の人師論師たちは、自らが依って立つ経典が法華経より勝れているという誤った主張を重ねてきました。日本では、伝教大師が法華経第一の正義を打ち立てましたが、その死後、背信の弟子たちが、真言の方が法華経に勝っているという邪義を唱えるようになりました。
 真言による祈祷は亡国の因です。大聖人は、身命をなげうって、この邪義を破折され、激しい大難に遭われました。本抄では、御自身の覚悟について、すべては、父母・師匠・国を救って、その恩に報いるためであったと明かされています。
 さらに続けて、末法に広まるぺき法は、法華経の肝心である南無妙法蓮華経であると示され、大聖人が、一人立ち上がって声も惜しまず唱えている南無妙法蓮華経は、大聖人の広大な慈悲によって、万年を超えて未来永遠に流布していくと述べられます。
 そして、妙法を広宣流布した功徳は、すべて師匠である道善房に集まっていくと結ばれるのです。

本文
 日本・乃至漢土・月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだひろまらず一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり、

通解
 日本から漢土(中国)、月氏(インド)、そして全世界において、仏法の智慧がある人と、そうでない人を分け隔てることなく、一人一人がみんな一緒に他の修行を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えるべきである。
 このことは、いまだ広まっていない。全世界の中で、釈尊の入滅後、二千二百二十五年の間、一人も唱えなかったのである。ただ日蓮一人が、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、声も惜しまず唱えているのである。

解説
 現代に「報恩」と聞くと封建時代の遺物の様に響くかもしれません。
 しかし、人間の生が、他者の努力の恩恵を被りながらしか営めない以上、いつの時代でも、恩に報いることが人間にとって最も大切な徳目であることには変わりありません。

 「日本・乃至漢土~声もをしまず唱うるなり」まで
 試験範囲の冒頭は、本抄全体の結論部分です。
 日蓮大聖人は報恩の証しとして不惜身命で正法を弘通されました。
 その御一代の結論は、広宣流布の法体である三大秘法の南無妙法蓮華経に帰着します。
 日本、中国、インドと国を越えて、智慧のあるなしも関係なく、他の修行を捨てて、皆すべき修行は唱題行だと仰せです。
 これは唱題が普遍的な法だと断言しているのです。
 「声も惜まず」とは積極的な対話です、言いたい事を言わないのは惜んでいる事になります。
 仏法は不惜身命の実践者が居てこそ、民衆に広まるのです。

 皆さん、不惜身命と聞くと何を思い浮かべますか?
 文字通り、身を削って命を捨てて行く事でしょうか?
 それでは、自己満足かもしれませんよ。
 雪山童子の様に体を、羅刹に捧げるのとは違いますね。
 我々の不惜身命は、自分の時間を会員の為、友の為に使って弘教する事、自事ではなく他事だと思います。
 深夜に友人から、悩みの電話があった時、眠いからと電話を切りますか?
 真摯に話を聞いて、仏法対話になったりしたら立派な不惜身命ではないでしょうか?
 若しかしたら深夜に会いに行って、直接対話する事もあるでしょう。
 友人の為に唱題し、悩み、同苦する。自分の時間を他者に使って行く。
 そんな地道な事が、不惜身命に繋がって行くと思います。
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