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2010/11/21  2010年度任用試験 「創価学会の歴史」

 世界広布と創価学会「創価学会の歴史」

1.創価学会の歴史
(略)
 この地涌の菩薩の棟梁たる上行菩薩の使命を自覚し、法華経に示された広宣流布の仏意仏勅を自身の大願として、その実現のために立ち上がり、末法の衆生と時代を救済していく根本法と実践を確立された末法の御本仏が日蓮大聖人です。
 そして、現代において、大聖人の御精神を継承して、世界広宣流布の使命を深く自覚し、その実現のために真剣な実践を貫いてきた教団が創価学会です。また、現代における広宣流布の自覚と実践を確立してきた指導者が、牧口常三郎初代会長・戸田城聖第2代会長・池田大作第3代会長(現・名誉会長、SGI会長)の「三代会長」です。
 ここでは、広宣流布に生き抜いた三代会長の足跡、並びにそこに流れ通う師弟の精神を通して、創価学会の歴史を学びます。

牧口常三郎 初代会長の時代
 創価学会の淵源は、牧口常三郎初代会長と戸田城聖第2代会長の師弟に求められます。
 牧口先生と戸田先生は、ともに教育者でした。
(略)
 昭和5年(1930年)11月18日、牧口先生は『創価教育学体系』第1巻を発刊しました。この書は、牧口先生が構築された教育学の体系をとどめるもので全12巻が予定されていました。弟子である戸田先生が私財をなげうって出版を支え、また、牧口先生の教育理論のメモを整理・結集するなど全面的に協力しています。また、その奥付には、著者である牧口先生、発行兼印刷者である戸田先生の名前とともに、発行所として創価学会の前身となる「創価教育学会」の名が記されています。そこで、同書が発行された11月18日をもって、創価学会の創立記念日としています。
 「創価」とは「価値創造」の意味です。教育の目的、そして人生の目的は幸福の追求にあり、その内実は価値の創造であるという牧口先生の思想が込められ言葉です。
(略)
 当時、政府は神社参拝や神札を祭ることを国民に強要していました。昭和18年(1943年)6月、学会は権力の弾圧を恐れた宗門から「神札を受けるように」と言い渡されました。この宗門の態度は、謗法(正法を謗ること)容認の行為であり、日蓮大聖人、日興上人の教えに背くものでした。これに対して、学会は日蓮大聖人が示された謗法厳誡の教えを貫き、神札の受け取りを拒否しました。
 同年7月6日、牧口先生は地方折伏で訪れていた伊豆・下田で、同日、戸田先生は東京で、特高刑事に連行され、最終的に21人の幹部が逮捕されました。不敬罪と治安維持法違反容疑が、逮捕の理由でした。厳しい取肺リ調べのなかで、最後まで退転することなく信仰を貫き通したのは牧口先生と戸田先生の師弟だけでした。

戸田先生の獄中の悟達
 牧口先生は、取り調べに当たった検事や判事にも日蓮大聖人の仏法の教義を説きました。権力の弾圧に屈せず、仏法の正義を貫き通したのです。
 昭和19年(1944年)11月18日、牧口先生は、老衰と栄養失調のため、東京拘置所内で逝去しました。奇しくも「創立記念日」と同日に満73歳で殉教したのです。その生涯は、まさに御書に仰せの通りに不惜身命の実践を貫き、日蓮大聖人の民衆救済と妙法弘通の御精神を現代に蘇らせた尊い先駆の一生でした。
 戸田先生は、昭和19年初頭から、獄中で唱題に励むとともに、法華経を読み、思索していきました。そのなかで「仏とは生命である」との悟達を得ました。
 さらに唱題と思索を重ねていったとき、戸田先生は自身がまさに、法華経に説かれる虚空会の儀式で、釈尊の滅後に法華経を広宣流布していく使命を託された地涌の菩薩にほかならないことを悟り、「われ地涌の菩薩なり」との確信を得ました。昭和19年11月のことです。
 戸田先生は、この獄中の悟達で、日蓮大聖人の仏法への確信を不動のものとするとともに、広宣流布を自らの使命として自覚しました。戸田先生のこの「獄中の悟達」が戦後の創価学会発展の原点となりました。
(略)

第2代会長就任
 昭和26年(1951年)5月3日、苦境を勝ち越えた戸田先生は、多くの会員の推戴を受けて、第2代会長に就任します。そのあいさつで、75万世帯の折伏を達成するとの誓願を宣言しました。当時の学会員は実質約3000人。誰もが信じられない弘教の目標でした。
 そして、戸田先生は、会長就任に前後して広宣流布への布陣を整えます。
 会長就任直前の4月20日には機関紙「聖教新聞」が創刊され、戸田先生はその創刊号から、小説「人間革命」を執筆しました。
 「人間革命」とは、日蓮大聖人の仏法の実践によって、各自が自身の生命境涯を変革し、全人類の宿命転換を成し遂げていくことを意味しています。戸田先生は、生命論を基盤とする人間革命の理念を掲げ、日蓮大聖人の仏法を現代に蘇生させたのです。
(略)

池田大作 第3代会長SGI会長の時代
 戸田先生の逝去後、ただ一人の総務として実質的に学会の運営を担っていた池田先生は、昭和35年(1960年)5月3日に第3代会長に就任しました。
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して化儀の広宣流布をめざし、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」──戸閉先生の時と同じ「5・3」に行われた会長就任式における、池田先生のこの第一声の師子吼から、学会の新たな大前進が始まりました。
 昭和35年10月2日には南北アメリカへ出発。世界広布の第一歩を踏み出しました。翌36年(1961年)1月には香港、インドなどアジアを初訪問。同年10月にもヨーロッパを訪問するなど、世界広布の布石を打っていきます。日蓮大聖人が示された「仏法西還」「一閻浮提広宣流布」の本格的な第一歩が、池田先生によって印されたのです。
(略)
 今日、世界では192カ国・地域で学会員が喜々として日蓮大聖人の仏法を実践しています。
 各国のSGIでは仏法の人間主義の精神を基調に地道な社会貢献に取り組んでおり、各種展示など地域社会に根ざした活動を通して、大きな信頼と賞讃を受けています。
 創価学会の実践によって、日蓮大聖人の仏法は、いまや人類全体を照らす希望の光となっているのです。
 創価学会の歴史は範囲が広いので、覚えるのが大変だと思います。
 要点だけでも覚えましょう。
 牧口先生…創価教育学体系の発刊、謗法厳誡を貫かれた、殉教。
 戸田先生…獄中の悟達、75万世帯の折伏、御書発刊、学会組織各部の結成
 池田先生…世界広布の布石、文明間交流、識者指導者との対話、文化運動、教育機関の設立、牧口先生戸田先生の宣揚など。

 追記
 大白蓮華テキストでは「会長勇退」の言及がないので、斧節のhttp://d.hatena.ne.jp/sokaodo/19940424/p1「聞き書き4・24」へリンクしておきます。
 重要な部分なので、よく読んで下さいね。

2010/11/21  2010年度任用試験 教学入門「信心と生活」

 教学入門「信心と生活」

8.信心と生活
 日蓮大聖人の仏法は、現実の人生の中で「崩れざる幸福境涯」を築いていくための信仰です。そのためには日々の生活の中で信心の実践を積み重ねていくことが重要な意味をもってきます。信心は自らの生命の鍛錬にほかならないからです。(略)

信心即生活
(略)
 御書には「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(1295ページ)とあります。この御言をいただいた人にとって「御みやづかい」とは主君等に仕えることですが、今日の私たちの立場にあてはめれば、職業・仕事・生活にあたります。
(略)
 以上のように、大聖人の仏法においては信心と生活は一体です。ゆえに、創価学会の指導には、「信心即生活」といって、生活はその人の信心の表れであるととらえて、信頼される社会人として、生活に勝利していくべきことを説いています。

人の振る舞い
 仏法は「人間としての勝利」を教えた宗教です。
 日蓮大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174ページ)と仰せです。
 釈尊が仏法を説いたその根本の目的(釈尊の出世の本懐)は、特別なことではなく、人間としてどう生きるべきかを示すことにあったとの仰せです。
(略)
 最高の「人の振る舞い」とは、「人を敬う」行動です。すなわち、万人の生命の中に仏の生命があると捉えて、その仏の生命を尊重し、万人を敬っていく行動です。根本は、万人を仏にしていこうとする誓願の生き方です。具体的には、目の前の「一人」の人間を大切にしていく実践となって表れます。
 法華経では、万人の中に秘められている仏の生命を敬い、あらゆる人を礼拝していく、不軽菩薩の実践が説かれます。その人自身が自分の仏界をまだ自覚していなくとも、生命の可能性としては誰人も仏の生命をもっています。したがって、万人を「仏子(仏の子)」として尊重していく生命尊厳、万人平等こそが、仏法の精神となります。また、それゆえに、仏法から暴力は生まれません。社会にあっては、万人尊重の原理から、対話をもって社会の変革を実現していこうとするのが日蓮大聖人の仏法です。
(略)
 信仰を非日常にしても自己変革も、周囲の変革もありません。
 人生は他人からの評価の為に生きて行く訳ではありません。
 が、「他人からどう思われても、オレは関係ない、好きな様に生きるんだ」では、薄っぺらい幸せしか手に入りません。
 最高の人生を築き、一家和楽と浄土を構築するには、「目の前の一人(他人)を幸せにする行動」が第一歩です。
 しかし、自分の為でなく他人の為にする行動ならば、そこは「どう思われても関係ない」のです。
 一時的には「不当な評価」や「無評価」があるかも知れませんが、いつかは何倍もの福徳となって返って来ます。
 池田先生は、常に「誠実に」と仰しゃられています。
 善の連帯を広げ、人を軽視する悪を滅する実践が日常での信仰の姿です。

2010/11/20  2010年度任用試験 教学入門「宿命転換」

 教学入門「宿命転換」

7.宿命転換
 人生にはさまざまな苦難があります。日蓮大聖人の仏法は、生命を根源から変革して自身の運命を切り開き、現在と未来にわたって幸福境涯を確立する宿命転換の仏法です。ここでは、宿命転換の原理と、宿命を使命に変えていく真の仏法の実践を学びます。

宿命転換
 人生のなかで出あう悩みや苦難はさまざまです。そのなかには今世の自分自身の行動や判断が原因になって現れるものもありますが、なかには、今世に原因を見いだすことができないものもあります。"自分は何も悪いことをしていないのに、 なぜこのような苦しみを受けなければならないのか"と思うような苦難に直面しなければならない場合もあります。
(略)
 これに対して、「宿命の転換」を説くのが、日蓮大聖人の仏法です。
 大聖人は佐渡御書の中で、御自身が大難を受けているのは、仏教で一般に言われる通常の因果によるものではなく、過去において法華経を誹謗した故であると述べられています(960ページ)。
 これは、万人成仏・人間尊敬・自他共の幸福を説ききった正法である法華経を誹謗すること、すなわち謗法(正法を謗ること)こそが根本的な罪業であり、あらゆる悪業を生む根源的な悪であるということを教えられているのです。
(略)

転重軽受
 私たちは信心に励んでいても人生の苦難に直面することがあります。また、広宣流布のために戦うと、それを妨げようとする障魔が起こり、難にあいます。大聖人は、このような苦難に出合って宿命転換できるのは、むしろ「転重軽受」の功徳であると教えられています。
 転重軽受とは、「重きを転じて軽く受く」と読みます。過去世の重い罪業にしよって、今世だけでなく未来世にわたって重い苦しみの報いを受けていかなくてはならないところを、現世に正法を信じ、弘めると、その実践の功徳力によって重罪の報いを一時に軽く受けて、罪業をすべて消滅させることができるのです。ゆえに、大聖人は転重軽受の功徳について「地獄の苦みぱっときへて」(1000ページ)と仰せです。
(略)

願兼於業
 苦難に直面しても、信心を貫いて宿命転換する人にとっては、人生の意味が大きく変わります。
 法華経には、「願兼於業」(願いが業を兼ねる)の法理が説かれています。これは、偉大な福運を積んだ大乗の菩薩が、悪世で苦しむ人々を救うために、自らの清浄な業の報いを捨てて、わざわざ悪世に生まれることを願うのです。
 この場合、菩薩としての願いの力で悪世に生まれるのですが、業によって悪世に生まれた人と同じように悪世の苦しみを受けます。ここから難の意義をとらえ返すと、信心で難を乗り越える人にとっては、悪世に生きて苦難を受けるのは決して宿命ではなく、実は人を救う菩薩の誓願のゆえであり、苦難を共有し、それを乗り越える範を示すものであることになります。
 この願兼於業の法理をふまえた生き方を、池田名誉会長は「宿命を使命に変える」とわかりやすく示しています。
(略)
 宿命は運命論のように変えられないものではありません。
 また善因も悪因も宿命です。
 過去世に積んでしまった悪因の果を、今世で軽く受けて消すのが「転重軽受」の法門です。
 また、全く受けずに消す事はありません。
 これらの苦難を乗り越えた時に、その苦難は「願っていた業」になるのです。
 病気を乗り越えた人にしか、病苦の人に範を示せません。
 苦難をただの「嫌な事があった」で終わらせるのではなく、使命に変えていくのが願兼於業です。

2010/11/20  2010年度任用試験 教学入門「難を乗り越える信心」

 教学入門「難を乗り越える信心」

6.難を乗り越える信心
 人生には必ず苦難が伴います。また、広宣流布の戦いには必ず困難があります。ここでは、私たちが仏法を実践していく過程に必ず生じるさまざまな「難」について学び、「難を乗り越える信心」の在り方を確認します。

 一生成仏を目指す私たちは、生涯にわたって信心を貫いていくことが大事です。
 しかし、信心を持続するなかには、さまざまな難が必ず現れてきます。このことを知って、いかなる難にも崩されない自身の信心を確立していくことが肝要です。
(略)

三障四魔
 兄弟抄には次のように述べられています。
 「第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(1087ページ、通解──天台の摩詞止観の第5巻には次のように述べられている。「修行が進み、仏法の理解が深まってくると、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。……これに随ってはならない。恐れてもならない。これに随ったならば三障四魔は人を悪道に向かわせる。これを恐れたならば仏道修行を妨げられる」。この釈の文は日蓮の身に当てはまるだけではなく、、わが門流の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたって信心の糧とすべきである)
(略)

三障
 三障の「障」とは、障り、妨げということで、信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げる働きをいいます。
 これに、煩悩障、業障、報障、の三つがあります。煩悩障とは、貧り、瞋り、癡などの自身の煩悩が信心修行の妨げとなることをいいます。
 業障とは、悪業(悪い行い。仏法では五逆罪や十悪業などが挙げられる)によって生ずる信仰や仏道修行への妨げです。兄弟抄の御文では具体的に妻子等の身近な存在にしよって起こる妨げが挙げられています。
 報障とは、過去世の悪業の報いとして現世に受けた悪い境涯が仏道修行の障りとなることをいいます。兄弟抄の御文では国主・父母等、自分が従わなければならない存在によって起こる妨げが挙げられています。

四魔
 次に四魔の「魔」とは、信心修行者の生命から、妙法の当体としての生命の輝きを奪う働きをいいます。
 四魔とは、陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つをいいます。
 陰魔とは、信心修行者の五陰(肉体や心の働き)の活動の不調和が信心修行の妨げとなることです。
 煩悩魔とは貧り、瞋り、癡などの煩悩が起こって信心を破壊することです。
 死魔とは、修行者の生命を断つことによって修行を妨げようとする魔です。また、他の修行者等の死によって信心に疑いを生ずることも死魔に負けた姿といえます。
 最後に天子魔とは、他化自在天子魔の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による妨げであり、最も本源的な魔です。
 大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997ページ)と仰せです。
 すなわち、この魔は、生命の根本的な迷いから起こるものであり、権力者等の生命にあらわれるなど、いろいろな形をとり、あらゆる力をもって正しい修行者に迫害を加えてきます。

賢者はよろこび愚者は退く
(略)
 釈尊も、さまざまに起こる心の迷いを魔の働きであると見抜いて悟りました。私たちにとって、魔を打ち破るものは、何事にも紛動されない強い信心です。
 大聖人は「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋、と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091ページ)と仰せられています。
 三障四魔が出現した時こそ、成仏への大きな前進の時と確信して、むしろこれを喜ぶ賢者の信心で、乗り越えていくことが大切なのです。

三類の強敵
 法華経勧持品第13の二十行の偈(詩の形の経文)のなかには、末法に法華経を弘通する者に3種類の強い迫害者、すなわち三類の強敵が出現することが示されています。
 その強敵のそれぞれは、第1に俗衆増上慢、第2に道門増上慢、第3に僭聖増上慢(僣聖増上慢とも書く)、と名づけられています。増上慢とは、種々の慢心を起こし、自分は他の人よりも勝れていると思う人をいいます。
 第1の俗衆増上慢は、法華経の行者を迫害する、仏法に無智な衆生をいいます。法華経の行者に対して、悪口罵詈(悪口や罵ること)などを浴びせ、刀や杖で危害を加えることもあると説かれています。
 第2の道門増上慢は、法華経の行者を迫害する比丘(僧侶)を指します。邪智で心が曲がっているために、真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに執着し、自身が優れていると思い、正法を持った人を迫害してくるのです。
 第3の僭聖増上慢は、人々から聖者のように仰がれている高僧で、ふだんは世間から離れたところに住み、自分の利益のみを貧り、悪心を抱いて、法華経の行者を陥れようとします。
(略)
 このうち、第1と第2は耐え忍ぶことができても、第3の僭聖増上慢は最も悪質であるといわれています。なぜなら、僭聖増上慢の正体はなかなか見破り難いからです。
 この三類の強敵は、末法に法華経を弘通する時、それを妨げようとして必ず現れてくるものです。
 日蓮大聖人は、現実にこの三類の強敵を引き起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされたのです。
 信心は途中で止めてはいけません。
 信心を止めさせようとする働きが「三障四魔」や「三類の強敵」になります。
 これらには従っても、恐れてもなりません。
 魔を見破って悠々と乗り越えましょう。
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